秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
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閉業のお知らせ

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十一面観音と奉納船と神馬@若狭

2020-11-02 | 古代史のミステリー
丹後若狭旅最終回です。
仏像マニアのお連れが行きたいといってた羽賀寺。
こちらの十一面観音さんはめっちゃ別嬪さんで有名です。
先の多田寺のモデルが孝謙天皇で、こちらは元正天皇だそうです。


小浜の東エリアなので、また次の機会を作って必ず行きたいものです。

それにしてもなんで若狭には十一面観音菩薩像がたくさんあるんだろう。

今にして気づいたことに、東大寺二月堂は十一面観音がご本尊だった。
絶対秘仏だとかで、お参りしてても一番大事なとこスルーしてた。
だからお水取りは正式に「十一面悔過法会」なんだ ┐(-。-;)┌

そして、そんな立派な十一面観音像をたくさん祀れる財力、富の蓄積がこの小浜にあったということ。




大陸からも近く、千島海流にのって、ちょうどええとこに若狭湾!
足利義満の治世に象がここに上陸したらしい。
それよりもっと昔に、インドから実忠和尚も渡来したかも。

しかしあの冬の荒々しい日本海の波を見たことありますが、
海上安全、漁業安全祈願を願うの当然ですよね。

若狭彦神社の弁才型模型(海幸丸)

若狭姫神社に飾られています。
認識はしてたのですが、今まで写真撮ったことないのでネットで拝借。



若狭地方では奉納船の分布が顕著で、とくに小浜市内にその密度が高く、6神社で7船の事例が確認できるそうだ。
* 弁才船模型(海幸丸)=若狭彦神社所蔵(遠敷)
若狭の奉納船の中ではもっとも古く、船全体の反りが少ない優美な船型。

若狭姫神社にはいろんな貼り紙見られます。
その中の一つに
朝廷より 神馬献上の社
絵馬の歴史を振り返るとき、古代において馬は、神の乗りものとして神聖視され、よって神霊を和らげまつり、祈願のために神馬の献上が行われていた。
「続日本記」によれば、宝亀元年(今より1200余年前)8月庚寅朔日、蝕ありし時、勅使を使わされて、伊勢大神宮(伊勢神宮)に赤毛馬を、若狭彦神(若狭一ノ宮)に鹿毛馬を奉るとある。
日蝕に対する呪術的儀礼として、太陽の衰弱を回復させるための献上であり、鹿毛の馬は赤毛(赤毛が火の色と関連する)に準じたものといわれ、世に名高い記事である。

宝亀元年(770)8月1日に日蝕があった時に勅使を遣わして、 
伊勢神宮に「赤毛馬」2匹を奉ると記された後に、 
宇佐八幡宮と若狭彦神社にそれぞれ「麻毛馬」を一匹と記されている。
皇室から尊ばれた日本を代表する2つの神社に該当したということですよね。

神馬で調べてみると、
馬は、古くから神の乗り物として神聖視されており、神は馬に乗って降臨されるものとされてきた。
また、古代の祭りや祈願・雨乞いの際には神に馬を奉納する習慣があった。
馬や馬形を奉納する歴史は古く、文献には多くの献馬の記述が確認できる。

『常陸国風土記』献馬の風習は崇神天皇の時代からである
『続日本紀』大宝二年(702)飛騨国が神馬を献上した
『延喜式』臨時祭に降雨祈願には黒毛馬、止雨祈願には白毛の馬が奉献されていた

神使いしもの 神鶏と神馬 より
神宮に神馬が進献された史実は、宝亀元年(770)日蝕に対する儀礼処置として、幣帛を副えて赤毛の馬二疋が供進され、
宝亀三年(772)には、暴風雨をしずめる呪術儀礼として毎年九月に馬を奉ったと『続日本紀』は伝える。
また、生馬献上と共に、一方では生馬に代わって土馬・木馬などの馬形を献上する風習も生まれた。
そこからさらに馬形をも造り得ないものが馬の絵を献上する事になり、絵馬誕生したといわれ、現在も絵馬に祈願成就を託し神社に奉納するに至っている。



小浜はいろいろ歴史つまった地でした。

2014年のおばマップで、今は京都縦貫道全通してます。


最後に、不思議だなと思ってたこと。

何故、九州に縁があると思われる彦火火出見尊が若狭彦神社の主祭神として祭られているのか 

福井県:歴史・観光・見所のサイトより一部引用させてもらいます。

古代の若狭国は天皇に食膳を貢納する「御食国」で、
10日毎に「雑魚」、節日毎に「雑鮮味物」、1年に一回は「生鮭、ワカメ、モズク、ワサビ」を御贄として納める事が定められ、塩で納税していた事が判っており
天皇に料理をして献上し「膳臣」の姓を賜った膳氏一族が若狭国造を務めるのは相応しい  …
九州の影響を受けた本州最古級の横穴式石室 
中国製や朝鮮半島製の副葬品が多数発見 
などから膳氏は九州北部、中国、朝鮮と関係が深い氏族だった事が窺える。
膳臣は北部九州に人脈や地勢を熟知している事から大陸と大和王権(朝廷)を結ぶ重要役割を持ち、若狭国が大陸への入口の一つとして整備された可能性。