大垣船町の川湊のすぐ前にある奥の細道むすびの地記念館を訪れました。
この施設は平成24年(2012)4月にできてまだ新しく、3DのAVシアターなども最新のものでした。
その年の暮れ12月5日、天皇皇后両陛下のご訪問(行幸啓)
会館建物前に、天皇皇后両陛下行幸啓記念碑がありました。
開通したばかりの東海環状自動車道を通行止めにしてすいすい~っと。
5月に行った臼杵の石仏の地も修復された年の行幸啓を恭しく紹介されてました。
今夏の暑い8月は北海道の利尻島へ避暑にお出かけになりエゾバフンウニが楽しみですと、ニュースで見ました。
シニアのセレブな私的旅うらやましい限りです。
下々の民の大垣市協賛ツアー一行34名は、
一人旅参加 6名
二人組×6 12
3人組、5人組、8人組 ×各1
5人組は白人の若いカップル2を引率する日本人中年男性のグループでした。
ツアーで初めて外人さんと一緒になったよ。
お試しのたらい舟に一度に載れないので、3班に分かれました。
私たちは、3番目のグループになったので、先に3Dシアター20分をまず視聴。
映像も内容もNHK監修でなかなか見ごたえのあるものに仕上がってました。
続いて、学芸員さんについて展示物の説明を受けました。
撮影不可だと後で言われ、削除しますといったんだけれど…
とてもよくわかる説明だったので、学芸員さんに感謝を込めてアップしときます。
『奥の細道』って紀行文学の傑作だったんですね。
松尾芭蕉が陸奥・北陸路の古歌や故事で知られた名所・旧跡の地を訪ねた旅日記に基づいたファンタジーだったんだ。
俳句日記のように思ってました。
国名勝 おくのほそ道の風景地スタンプラリー より
芭蕉は、元禄2年(1689)3月27日に、弟子の曽良とともに江戸を出発し、東北・北陸地方を巡り、8月21日に大垣で、『奥の細道』の旅を終えました。
距離にしておよそ2400キロ、150日あまりにおよぶ生涯で最大の旅だった。
ふつうに割り算して
2400÷150=16
しかし滞在数日というところもあるので
一日平均16㎞以上歩いたということになります。
ときに芭蕉46歳。
元気ですね~
先の記事で紹介した、むすびの地で俳句
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて 、
詠まれた句となっています。
元禄二年が式年遷宮の年にあたり、内宮は九月十日、外宮は同十三日に行われ、芭蕉は内宮の式には間に合わず、外宮の式を拝したようです。
そして遡ること、彌生も末の七日
(元禄2年3月27日のこと太陽暦では5月16日にあたる)
明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かに みえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。
千じゆと云所にて 船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
行春や鳥啼魚の目は泪
この当時の風習では、長旅に出る人の送別は一駅先の宿駅まで同行した。
親しい人々はみな前夜からやってきて、共に舟に乗って見送ってくれる。
千住というところで舟をあがると、・・・
千住は当時、奥州街道(1597年)・日光街道(1625年)第一の宿場で、芭蕉たちは深川にて乗船し、この墨田川の千住大橋付近に上陸。
船に上がったところで、行く春や~
この句は一番最後に対になるよう作られたものだったそうです。
舟を降りて旅が始まり、また舟に乗り旅を終える。
紀行文学だったことを、この年にして知る。
出発の千住大橋の辺りは特に私が子供お腹のいた時に嫌な予感でたまたま鳥居みて、自力で行ってみた神社があります。そこの宮司さんがまた意味あり気なお名前で父の故郷と関係しそうだと、すぐに。お茶も出して頂き無事出産できたんですよね。そこに芭蕉の出発の碑がありましたよ。
日光街道は4号線ですからね、個人的にもきた〜ってね。
で出発点は知ってますし、平泉も個人的に行きたいって友人連れて行ってますけどあとは父の関係の山寺くらいしか知りませんでした。
なので大垣が終点というのもびっくりです。
ただ松尾ってお名前なら大垣はありでしょうね、水神さんの地ですから。ただ一般的な水神さんんは女性イメージですけど松尾さんはちょい信念持ってる男性のイメージですし、東北をグルッと回っているのも関西でないのもなんとなくイメージぴったりです。伊賀にも松尾さんがいたんですよね?大抵行くところは結構いる方です。けど理由が知りたい。って事で体当たりしてますけど色々と理解も出来てきますね、長い年月かけると。
さあ、こんなにヒント頂きましたので台風の通過を見守りながら芭蕉の軌跡を辿ってみたいと思います。最北端はどこでターンしたのか?磐梯にいってるか?飯豊辺りはどうか?青森は宮城は?と。すぐに地図の戻ってみます。
うららさまが無事に楽しんでいるのがまず最高。
いっぱいいい所を紹介してくださいね。その地は多分アピールする方ではないはずなので行った方でアピールしてあげるとその地の神も喜ぶでしょうね。6687
「奥の細道」は確かに紀行文学で、私も在任中何度も教えましたが、文学的・芸術的解釈に基づいて授業したのとは別に、個人的に、確か斎藤栄という作家の「奥の細道殺人事件」という推理小説の中で、これは芭蕉が幕府の隠密(忍者だったかな)で、副将軍水戸光圀の密命を受け、奥州・北陸各地を探索して回ったのだという段がありました。一般の人が読んだら荒唐無稽とか、俳聖芭蕉を貶める妄想作品だとか思われるかもしれませんが、国文学を学んだ者には、かえってそうかもしれないと考えさせられるような小説でした。特に私がずっと疑問に思っていた、旅の目的の大きな1つである仙台…特に松島(「松島の月まづ心にかかりて」)で、どうして芭蕉が1句も詠んでいないのか、かわりに伊達藩の要塞ともいえる瑞巌寺に行ったり、商業の基地たる石巻港に行ったのは何故か、…などという疑問がいくつもあったのですが、かなり応えてくれていました。簡単に言うと、芭蕉の任務の最大のものは、奥州伊達藩の実情を探ることだったので、俳句を詠むゆとりはなかったのだと。また、どうして困難な旅の連れが、優秀な蕉門十哲の弟子ではなく、平凡なおじさんの河合曾良だったのか、出発地が千住だった理由とか、説得感がある記述で面白かったです。でも学会等「まともな研究者たち」からは、唾棄されてたようです。だいぶ昔なので、その本も手元になく(市販されてますが)、他に松本清張や森村誠一といったビッグな小説家たちも研究して小説などにしているようで、「奥の細道」という作品はいろんな見かた読み方のできる古典なのですね。
私がアレレと引っかかるところ、そこに句碑あって、、松尾芭蕉来てたんだ、なんか知ってたんだと。
最後、大阪の南御堂前で亡くなった最後の句碑
旅に病でゆめは枯野をかけまわる
「いくたまさん」と「ざまさん」というタイトル記事で書いてました。
https://blog.goo.ne.jp/goo3820/e/3d17a238505428c754988b98f926fbf4
2400㎞を150日以内、120日ぐらいで歩いたとすると一日20㎞。
山道もあっただろうに歩けるかぁ~?
馬も使った?
旅費もかなりかかっただろうに、どこからか支援された?
伊賀上野出身だし、単なる俳諧師ではありませんよね。
むすびの地記念館学芸員さんにちらっと質問投げかけたら、さらっと流されました。
専門家はスルーするところなんでしょうけど、一般大衆としてはツッコミどころ満載の松尾芭蕉でした。
また追っかけしたいというか、これからも行った先々で句碑に出会い、ここ来てたんだと驚愕すると思います。