秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

こんな身近に榎大木あったなんて

2019-05-29 | 四季折々・色とりどり
幹肌は象のよう


葉っぱは
葉っぱのギザギザは上だけ。
葉脈の一番下から枝脈出てる。

これって、榎エノキ やんか!

この大木がどこにあるかというと

守口市体育館横の通りは大枝神社裏に面してます。
境内の裏に大木があるのは知ってました。
でもただの木としてしか認識してなかった。
守口市で暮らすようになってから39年間も。
 
この木何の木気になる木その5で、
ケヤキと思ったらムクノキだったことを知ったこの春。
今では見分け方として、樹形、幹肌、葉っぱのギザギザや葉脈で違いをマスター。
街のあちこちにケヤキを発見し、ニンマリしてます。
 
ムクノキは、いまのとこ他では出会ってないです。
エノキもよく似ているけれど見分け方がわかった。

 
 
大枝神社の鳥居くぐって正面から
左右に楠の大木二本あるので、それに気を取られてた、今までは。
 
本殿左手に小さな祠が末社の東照宮


その後ろにある大木が榎だったのです。

木を観察して撮影して帰ろうとしたら、

なぜかシャッターボタンを無意識で押してた。
木が怒ってるというか呆れてる?
今ごろわかったのかって。


 
榎のウンチクをあちこちから頂いてコピペしときます。

木偏に夏と書くエノキは、文字通り夏の木とされています。
夏に涼しげな木陰をつくってくれるという意味合いかも知れません。
さて、一里塚とは、かつての街道で目印のため一里毎に盛られた土の塚のことです。旅人の休憩のため、そこに木が植えられ、木陰で休めるように配慮されていました。その樹種がエノキでした。エノキ以外にもマツやスギといった樹種も植えられましたが、エノキが断然多かったのです。



一里塚を広辞苑で調べると「街道の両側に一里ごとに土を盛り里程の目標にした塚。多く榎を植えたとある。古くは平安時代末期に奥州藤原氏が里程標を立てたのが始まりとされる。室町時代の一休和尚の歌に「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」があり、一里塚の言葉は一般化していたことが分かる。
江戸時代に主要街道の整備と共に一里塚も整備された。その整備の際に、並木としては松や杉を植え、一里塚にはエノキが植えられた。エノキは成長が早く枝を繁らせ、よく根を張るので塚の土盛りが崩れるのを防ぐので採用されたと解釈できるが、いろいろな説がある。当時の総奉行大久保長安が「一里塚には余の木(松以外の木)を植よ」との家康の命を聞き誤りエノキを植えた、という説が面白いとしてあちこちで紹介されている。明治36年刊行の「大日本有用樹木効用編」には、エノキは生でも燃えやすいので軍事上、夜戦のときに使うことができるとして植えられたという説が紹介されている。
実際に五街道の一里塚の樹種を調べるとエノキは過半数(55%)を占め、以下、松、杉、栗、桜と続くようだ。塚の大きさは一般に五間(9m)四方、高さは一丈(3m)で、道の両側に作られたのでかなり大がかりなものだった。現在でも各地域の史跡として保存されている場所が多い。地名にも笹塚
など「塚」の字が残っている。



榎だと認識したのが先週土曜5/25早朝の散歩で、昨日夕方再確認に出向いた。 
今朝また行って撮影した画像追加します。





3 コメント

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Unknown (りひと)
2019-05-30 22:52:08
偶然なのですが、今日一里塚あった場所行って来ました。榎だったようですよ。本当は上野の東寺の展覧会に行こうと思ったんですけどちょうどチケット購入でも混んでいて迷っていてチケットは不思議に手に入っちゃったんですけど、なんかここに入ってしまうと時間消費と移動が出来ないような二者選択を感じてやめておきました。あと数日で行けたら縁があるとして東寺は諦め、以前から行きたかった場所に行った後根津神社に行ったらなんと胞衣塚を見つけてしまいました。おまけにそこに産湯井戸も神社内にあるって書かれていました。大阪に胞衣塚行ったのとなんか関係ありそうだとも。わざわざ大阪に行ったんですけど東京にあったのにびっくりでした。また三大庚申塔の東京をいろいろ探しながらこの前回ったんですけど根津神社にもかなり古い物がありました。びっくりばかりでした。

そして本題、根津神社で産湯井戸は非公開らしくどこにあるのか?散策しているといっぱい大きな木がありましたよ。スジダイとカヤなど。でなんと一里塚に関わる塞の大神碑の案内の中に日本橋からの一里塚の場所にあった事が書いてあったんです。道の神きた!この前やたら日本橋ばかり連続で行って今度一里の東大辺り、深読みしてます。悪い物を入れないそんな神やっぱりこれから必要のように思います、事件もあったりしたので。榎の件もびっくりしました。住所には向の字あり最近この字がブームみたいです。奥州藤原の時代からの信仰が残っている所あるんだと場所検索してみたらお店の名前と交差点でして。まあいつか行けたらスルーして駅を目指す途中にこのお店もしかして?と思ったら何にも残っていないんですけど案内板だけはありましたよ。場所は東大前です。弥生って場所も通りましたけどなんか縁あるのか?と。私とはどうも相性悪いようなんですけど、仲良くやれないものか?と。
またその後東大あたり旧地名の案内板で判明したのが岡崎藩藩主本田家の屋敷と先手組屋敷が明治になって森川町と名前を変えたらしいとの案内。え?岡崎藩なんだあ。岡崎いよいよいく覚悟が出来てきましたよ。またその案内の中で本田忠勝さんの神社が戦後なくなった事実。これが我が家との縁に関係しているのだろうなあとも。うちの節句の兜は彼の物で鹿の角が付いてます。俳優さんでいくと本田翼さんが出ると舞台や題材でも深読みしてます。

東京も結構楽しめるようでびっくりです。帝釈天の写真撮るよりも私はこっちの方が良かったんだろうと。灯台(東大)元暗しだったようです。で問題は江戸からなのか?弥生町近くなのでかなり遡るのか?そこも掘っておきます。
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Unknown (りひと)
2019-05-30 23:13:05
すみません。ちょっと紛らわしい表現してしまってます。
一里塚の信仰は、奥州藤原あたりからの時代的な可能性がある事と東京の東大前の日本橋からの一里塚の信仰は江戸時代からとの話が一緒になってしまってますね。ちょっと根拠はないけど、鎌倉時代から東京も源氏(源氏に関わる平氏)絡みでもありそうに思ってましたのが出ちゃってます。榎は個人的に白い鹿の神社やその他でも本当気になる文字であります。今日朝記事を見ていなかったらへーそうなんだで終わっていたと思います。道関係の神さん探しは父の関係でもありますし、今日の旅の裏ワードも薬師なんですよね。木が目印だったんでしょうね。なんか思う通りの一族が出てくるように思いますよ。産湯井戸で考えると岡崎、大阪、京都、奈良そして群馬(館林?綱吉絡みだと)と江戸。
父のワークと祖母のワークがやっぱり繋がってきそうです。忘れてはいけないのも風の神、シナヅヒコとシナヅヒメ。相性いい方について行く事になりそうです。
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りひとさんへ (ulala)
2019-05-31 17:09:42
産湯井戸に反応して、気になる画像を次の記事でアップしました。
何のメッセージなのか気になります。
りひとさんの見解伺いたいなと思います。

大枝神社には元禄や文化文政時代の石灯篭とか残っていて、江戸時代前期にはすでに存在した神社だったようです。
榎の木が東照宮の背後にあるというのも意味ありげです。
一里塚に榎を植えるよう指示出したのが家康だとしたら、そのご縁もありそう。
本能寺の変が起こった時、堺に滞在中だった家康は、佃島の漁師の案内で淀川を遡ったようです。
木津から伊賀を通り、伊勢湾に出たのでしょう。
その道は現在の国道163号線ですぐ近い。
淀川から上陸して、大枝あたりに暗くなるまで潜伏してた、その時匿ってもらったお礼や縁で、東照宮を末社として勧請されたのではないかと妄想しています。
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