「邪馬台国がどこにあったか」は古代史最大の謎といわれています。
邪馬台国が九州にあったか、近畿にあったかはいまだ確定していません。
①北九州「ヤマト国」がそのままナラへ東征して「大和国」になった
②畿内「ナラ勢力」が北九州「ヤマト国」を攻め潰し、その名と国際的地位を乗っ取って「大和国」と称した
以上の二つが今なお、せめぎあっているようです。
卑弥呼の墓などが発掘されない以上、
問題解決となるはずの魏志倭人伝の解釈が問題となっています。
中国の「三国志」は、魏・呉・蜀三国時代60年間を記した280年ごろの歴史書です。
全65巻の中の、卷30魏書・「烏丸・鮮卑・東夷伝」倭人の条に、
3世紀中頃の日本についてと思われる記述があります。
これがいわゆる「魏志倭人伝」
倭の地理的記述、倭の社会、風俗や自然、産物についての記述、
最後は、魏と邪馬台国との外交の記録です。
森の樹木名も克明に記されていて、邪馬台国の森や林であったなら
おおよそ西日本、南は鹿児島、宮崎までで、亜熱帯に属する沖縄は含まれない。
弥生中・後期の奈良盆地には、魏志倭人伝に記された樹木が生育していなかったのも判明しているようです。
詳しくは →
こちら でご覧下さい。
魏志倭人伝には、邪馬台国までの経路が明示されているが今の地図に当てはめにくく正確なものではないようです。
だからといって全くの創作でもない。
魏の使者、梯儁(240年)および張政(247年)の二人が倭国を訪れ、
その帰国報告に基づいて記されたものであるというのが通説です。
解釈の難しい、投馬国から邪馬台国への行程、
『水行十日、陸行一月』
「まぼろしの邪馬台国」の著者・宮崎康平氏は島原だと推論されているように、
それぞれの地にお住まいの方がそれなりの推論を立てられ、百花繚乱です。
そうしたいろんなサイトをみていて、
私自身が一番納得いったのは、「豊前宇佐説」です。
もしそうだとすると後のことが説明つきやすくなります。
宇佐神宮は、古くより朝廷の崇敬を受けてきたし、
本殿は小椋山(亀山)の上に建ち明らかに前方後円墳らしいし、
奈良の大仏建立に際して宇佐神宮から大量の銅が供出されたし、
弓削道鏡事件などの際にわざわざ宇佐に神託を受けに行ったし、
なぜか出雲大社同様、二拝四拍手一拝だし、・・・
また、豊前風土記にはこうかかれているそうです。
昔、新羅の国の神、自ら渡り来りて、この河原に住みき。
即ち、名づけて鹿春の神という。
また、里の北に峰有り。頂きに沼有り。
柘植の木生い、又、龍の骨あり。
第二の峰には銅並びに柘植等あり。
この新羅の神様は「辛国息長(からくにおきなが)大姫大目命」
3世紀の地形、海岸線は今とは違うということ、
道も整備されていない古代であるということ、
習慣も考え方も異なったという点を付加すると、
大分県宇佐神宮あたりが妥当なように思われました。
古代の日本は「二倍年暦」
「春耕」と「秋収」の二点を年紀とする「一年に二回歳をとる」であったらしいこと
魏志倭人伝の「船行一年」は、現代の半年と計算すべき。
そして倭人の「短日制」
「日」というのは一種の距離単位であったらしいこと
道路条件が極めて悪い古代日本では、一日の移動延べ距離が 10kmであったとしても決して不思議ではありません
詳しくは →
こちら でご覧下さい。
古代中国では日本列島を会稽山の東方海上に位置するとして、
60~70度の方向誤認をしていたようで、
方向座標軸を65度修正すれば、
四大国(伊都・投馬・邪馬台・狗奴)を含む各国の位置関係が矛盾なく説明できるという、
豊前宇佐説が一番納得できました。