秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

ローティーンのケータイ当世事情

2008-11-11 | 保護観察
今日は保護司会の定例会。
市内中学校のこども支援コーディネーターが招かれて「守口市児童・生徒の携帯利用と問題点」について研修がありました。

市内中学校9校のうち4か5校の指導主事は「こども支援コーディネーター」と名前が変わっているんだそうです。
なんか威厳のない肩書きですね。
でも内容はよかったですよ。

2007年7月に、市内小学校5,6年生2619名、中学校1~3年生3239名に「携帯電話の使用について」アンケート調査した結果に基づいて話してくださいました。

今年6/13に学校裏サイトについて書きました。
詳しくはリンク貼ってますのでそちらで見てください。

携帯がらみの事件も多発していますし、
周りを見ていても携帯電話が小中学生にまでかなり普及しているのは実感できます。

しかしあらためて、自分専用の携帯電話を持つものは小学校高学年で31%、中学校で66%と聞くと、すごいなぁ~と思います。

そして1日に打つメールの回数は、
小学生の最多数は10回以内ですが、
中学生となると10~50回が40%で一番多く、
50~100回は15%、100回以上は9%

すぐに返信しないとバツが悪いですまされないとか、
メールの返信を留める勇気がないというのは、
よく耳にしていましたが、・・・

たとえ10文字以内の、おはようやおやすみの挨拶や、OKとか、わかったとかの返事であったとしても、メール入力に費やす時間はどんなもんなんでしょう。

携帯電話でメールやインターネットに使う時間は、
1日に、小学生で30分以内が約8割ですが、
中学生ともなると、30分以内は半分で、1時間が23%、2時間が25%

出会い系サイトに繋いだことがあるものは、小1%、中5%

今回の調査にプロフという言葉はありませんでしたが、
携帯サイトにホームページやブログを持っている中学生は26%
近々持つつもりだの5%を加えると31%となります。

この調査は1年前のものなので、今年はもっと増えているだろうということでした。

ここからは中学生のみの数字をご紹介します。
他の人のページに毎日書き込みをするが5%、時々なら41%
無断で他の人の写真を送ったことは、よくある1%、たまに4%
コメント書き込みでトラぶったことは、何回か6%、よくあり困る1%

現在の大人にとっては、通話にしろメールにしろほぼ連絡を取るために使用する携帯できる電話器です。
でも若い子達はインターネット同様、新しい情報ツールのケータイもしくはKEITAIなんですね。

子供に携帯を持たせるときに、親子や家族間で特に話し合わなかったというのが小学生で48%、中学生で42%
やはり事前に約束をすると、その条件をほぼ守っている子が多いのも事実なんだそうです。

1、学校へ持って行かない
2、使用時間を決める
3、フィルタリングソフトを利用する

こうした話し合いを持ってから、子供に携帯を持たせるという指導を若い親にする必要があると、講師の先生は思われているそうです。

⑧きびだんご(吉備の国)

2008-11-10 | 古代史のミステリー
岡山のお土産といえば、このきび団子。
先週岡山・後楽園中の茶店で、元祖きび団子を買ってきました。

きびだんごといえば桃太郎。
市内あちこちで、桃太郎のオブジェや看板を見かけました。

 ・・・・・・・・・・・・

邪馬台国畿内説は、奈良の纒向(まきむく)遺跡の箸墓古墳を卑弥呼の墓とします。
ここから、吉備地方に淵源をもつ特殊器台・特殊壷が出土し、
箸墓古墳の被葬者は、吉備地方と関係が強い人ではないかといわれています。

普段暮らしている場所から少し離れた地方の歴史って
ほとんど知らずに過ごしています。

きび、吉備に興味がわいたので調べてみました。

まず、前方後円墳とは、
前方後円という墳形、墳丘に葺石をもつこと、
竪穴式石槨、特殊器台・特殊壷などが要素となっているようです。
吉備国発祥らしく、それまでの大和の弥生社会の伝統にはないものだそうです。

詳しくは → こちらで

大阪平野の堺市には仁徳天皇陵があります。
世界最大規模の前方後円墳です。
早く発掘して、謎の4世紀をすっきりさせてほしいものです。

河内王朝と対抗する勢力を持っていた吉備国。
吉備の弥生墳丘墓から、突如大和の前方後円墳へと移っていき、
その後河内に仁徳天皇稜などが築かれていますが、
その境目に、吉備の造山古墳があるとか。

4~5世紀の空白の大和朝廷黎明期は、
どのような経緯があったのでしょう?

それまで丘に過ぎなかった墳墓から前方後円墳への変化、
祭祀用具の代表であった「銅鐸」が突然、製造中止、
青銅が中心だった金属器から鉄器への移行、
この時代から馬具や埋葬された馬の骨が大量に出土されはじめることなどから、
「騎馬民族征服王朝説」はあまりにも有名ですね。

ゲルマン民族大移動だって、4世紀でした。
地球規模で気候の大変動などがあり、民族は大移動したのかもしれません。

 
   弥生時代後期の祭器を共有する6集団

倉敷市の北に広がる吉備路はかつて「吉備王国」があったとされる遺跡地帯です。
ここに吉備津神社があります。
行ったことないけど、
桃太郎のモデルといわれる勝者の吉備津彦命が祀られていて、
敗者となった鬼の存在である温羅とその弟も祀られているそうです。

比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり)という珍しい社殿は、
歴史の闇に葬り去ることができなかった温羅の威光を垣間見ることができると説明されていました。

民話「桃太郎」のルーツともいえる温羅(うら)伝説
詳細は → こちらから

中国山脈では砂鉄が産出し、武器、農具が多くつくられました。
出雲と並んで大和に対抗していて、
3世紀後半から4世紀にかけての崇神天皇時代に吉備津彦命が派遣され平定されたそうです。

この崇神天皇の御代をもってその記述がより具体性を持ち、
実在と推測できる根拠が多いとされています。


次の検索ワードは崇神天皇です。

今日の新聞から

2008-11-09 | 世情雑感
急に気温さがって、冬支度しないといけなくなりましたね。
皆様、体調崩されませんように。

朝刊のトップニュースは、ネットカード決済不正急増7億円!

インターネット商取引は1998年には約625億円だったのに、
2006年には約4兆3910億円で70倍に増えているそうです。
今年は2008年だからもっと増えているでしょうね。

そして約半分はカード決済と見られ、
違法に入手した他人の番号などを使った不正利用が急増し、
2006年度の被害額は約6億8900万円だそうです。

先週近所の友人が、久しぶりにカードで買い物しようとしたら、このカードは使えませんといわれ、そのカードで不正使用されていたことが判明したそうです。
直接被害はなかったようですが、
また再発行めんどくさいし、どこでカード情報もれたのか気持ち悪いと話していました。

もうひとつ目に留まったニュースは、「三重苦で大幅減益へ」
東証一部上場3月期連結決算は、原材料高・円高・景気悪化のトリプルパンチで業績回復の見通しはたっていないと。

週末、拳法仲間と飲んでたときにもこの話題になりました。
来年どころか、来月の仕事も入ってこない。
どうしようって。

加速する「派遣切り」多くの失業者が出る可能性もあります。
12,000円ぐらいもらっても焼け石に水ですね。

 
枯れようが、虫食い葉だろうがしがみついてないと・・・

大進歩

2008-11-09 | ギズモ&もぐ&メルキー
家人がいない間もぐちゃんを閉じ込めるのを数日前にやめました。
ギズモもモグも家中行き放題です。
すると急に仲良くなりました。
2匹が同じ部屋の近い場所で寝ることも増えました。

モグちゃんはこの家で飼ってもらえるということを実感したのかもしれません。
朝と夜2回の食事以外は、エサ入れろコールも少なくなりました。

 
大股開きであくびしているもぐちゃん。
寝姿も大胆になってきています。


⑦まぼろしの邪馬台国・豊前宇佐説

2008-11-06 | 古代史のミステリー
「邪馬台国がどこにあったか」は古代史最大の謎といわれています。

邪馬台国が九州にあったか、近畿にあったかはいまだ確定していません。
①北九州「ヤマト国」がそのままナラへ東征して「大和国」になった
②畿内「ナラ勢力」が北九州「ヤマト国」を攻め潰し、その名と国際的地位を乗っ取って「大和国」と称した

以上の二つが今なお、せめぎあっているようです。
卑弥呼の墓などが発掘されない以上、
問題解決となるはずの魏志倭人伝の解釈が問題となっています。


中国の「三国志」は、魏・呉・蜀三国時代60年間を記した280年ごろの歴史書です。
全65巻の中の、卷30魏書・「烏丸・鮮卑・東夷伝」倭人の条に、
3世紀中頃の日本についてと思われる記述があります。
これがいわゆる「魏志倭人伝」

倭の地理的記述、倭の社会、風俗や自然、産物についての記述、
最後は、魏と邪馬台国との外交の記録です。

森の樹木名も克明に記されていて、邪馬台国の森や林であったなら
おおよそ西日本、南は鹿児島、宮崎までで、亜熱帯に属する沖縄は含まれない。
弥生中・後期の奈良盆地には、魏志倭人伝に記された樹木が生育していなかったのも判明しているようです。

詳しくは → こちら でご覧下さい。

魏志倭人伝には、邪馬台国までの経路が明示されているが今の地図に当てはめにくく正確なものではないようです。
だからといって全くの創作でもない。
魏の使者、梯儁(240年)および張政(247年)の二人が倭国を訪れ、
その帰国報告に基づいて記されたものであるというのが通説です。


解釈の難しい、投馬国から邪馬台国への行程、
『水行十日、陸行一月』


「まぼろしの邪馬台国」の著者・宮崎康平氏は島原だと推論されているように、
それぞれの地にお住まいの方がそれなりの推論を立てられ、百花繚乱です。

そうしたいろんなサイトをみていて、
私自身が一番納得いったのは、「豊前宇佐説」です。

もしそうだとすると後のことが説明つきやすくなります。

宇佐神宮は、古くより朝廷の崇敬を受けてきたし、
本殿は小椋山(亀山)の上に建ち明らかに前方後円墳らしいし、
奈良の大仏建立に際して宇佐神宮から大量の銅が供出されたし、
弓削道鏡事件などの際にわざわざ宇佐に神託を受けに行ったし、
なぜか出雲大社同様、二拝四拍手一拝だし、・・・

また、豊前風土記にはこうかかれているそうです。
昔、新羅の国の神、自ら渡り来りて、この河原に住みき。
即ち、名づけて鹿春の神という。
また、里の北に峰有り。頂きに沼有り。
柘植の木生い、又、龍の骨あり。
第二の峰には銅並びに柘植等あり。

この新羅の神様は「辛国息長(からくにおきなが)大姫大目命」


3世紀の地形、海岸線は今とは違うということ、
道も整備されていない古代であるということ、
習慣も考え方も異なったという点を付加すると、
大分県宇佐神宮あたりが妥当なように思われました。

古代の日本は「二倍年暦」
「春耕」と「秋収」の二点を年紀とする「一年に二回歳をとる」であったらしいこと
魏志倭人伝の「船行一年」は、現代の半年と計算すべき。

そして倭人の「短日制」
「日」というのは一種の距離単位であったらしいこと
道路条件が極めて悪い古代日本では、一日の移動延べ距離が 10kmであったとしても決して不思議ではありません

詳しくは → こちら でご覧下さい。

古代中国では日本列島を会稽山の東方海上に位置するとして、
60~70度の方向誤認をしていたようで、
方向座標軸を65度修正すれば、
四大国(伊都・投馬・邪馬台・狗奴)を含む各国の位置関係が矛盾なく説明できるという、
豊前宇佐説が一番納得できました。

午前10時岡山集合

2008-11-03 | 少林寺拳法
2002年9月に崇山少林寺を一緒に訪れた少林寺拳法140プロジェクトの仲間と再会してきました。

昨日岡山で全国大会が催されたので、午前10時岡山駅集合です。
うちの道場はだれもノミネートされてないので、大会はパス。
ただ単に同窓会気分ででかけました。

 

倉敷まで足を伸ばし、大原美術館へ行きました。
今日は文化の日ですから、文化教養コースですが、
でも入り口のロダン「洗礼者ヨハネ」をみて、
やっぱり金的攻撃は効果的だと、拳法談義に花が咲きました。

そのあと岡山に戻り市電に乗って、後楽園へ。

 

2匹の猫が気になるので、一足先にお別れし、
16:24発のぞみに乗りましたが、指定席も満員で、
自由席で立って帰らざるを得ないほど新幹線混んでました。
18時には家に戻れたので、平日の暮らしと変わらず。
ギズモもモグもパニくることなく、いつもどおり待っていました。

今日案内してくれた岡山のYさん、お世話様でした。
1年後にはアラフォーになるYさん、大阪まで一緒に帰れなくて残念でした。
積もる話はまた次の機会に。
こうして再会できたのも団長Tさんのおかげです。
千葉から遠路お疲れ様でした。

⑥まぼろしの邪馬台国

2008-11-03 | 古代史のミステリー
吉永小百合・竹中直人の「まぼろしの邪馬台国」
11/1(土)封切日夜、アズキさんとレイトショー行ってきました。
吉永小百合の若さにも驚きです。
北九州から西九州の景色もすばらしかった。

「まぼろしの邪馬台国」は第1回吉川英治文化賞受賞作の映画化だそうです。
この吉川英治といえば、「三国志」
これは読んでないけど、
マンガ版横山光輝「三国志」は20年以上前に毎号発売を待ちかねて読みました。

「三国志」の完全映画化「レッドクリフ」も見に行かないといけませね。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

邪馬台国がどこにあったか、
このミステリーは戦後はもちろん、江戸時代だってカンカンガクガク。
今なお確定はされていませんが、
魏志倭人伝に記載されているんだから、実存したのは確かなこと。
なのになぜ場所を特定できないのか。

それは大和朝廷が記紀を編纂するときに
隠さざるを得ない事情があったからなんでしょう。


いよいよ空白というかミステリーとなる古代史の始まりです。
学生時代のレポート書いてる気分です。
いまさら宿題でもないし、単位がもらえるわけでもないのにね。

ご関心おありの方は、
パソコン検索による、コピペのレポートをご覧下さい。
おかしいところがあればご指摘くださるとありがたいです。

 ・・・・・・・・・・・・・・・

時代は少し遡ります。

氷河期が終わり気温が上昇という環境の変化の中で、
東アジアの人々は、稲作の発明と漁労で食料の確保を行い絶滅からまぬがれました。

もうずいぶん前に、揚子江で6000年前の遺跡が見つかったという報道がありましたね。
古代4大文明の一つ、黄河文明より先んじる形で、
中国では最初の文明は長江流域で稲作・漁労文明が芽生えまました。

一方ヨーロッパはアジアより遅れて寒冷気候が襲い、
麦の畑作と牧畜の発明で絶滅を逃れたそうです。

紀元前に中国を統一した秦は、小麦と牧畜の文明であったといわれています。
現在でも気候風土的に、中国南部の稲作に対し、北部は小麦です。

稲作文化はいろんな部族が思っているより早く日本に伝えたことと思います。
前回記事にした徐福が初めてであったどうかは疑問ですが、
徐福は高度な技術とともに伝えて、収穫量が格段に増えたこと、
不老長寿の薬を求めて日本各地にそれを伝え流通させた?
部族としてのまとまりをももたらしたのではないでしょうか。




東アジアの歴史の流れの中で、
中国や朝鮮やいろんなところから様々な部族が渡来し、
日本列島で住み着き小国があちこちにできていきます。

邪馬台国以前の1~2世紀の北部九州は、
博多湾岸の奴国や伊都国などが中心勢力として、
ゆるやかな連合を作り倭国を代表するかたちで中国と交渉していたようです。

57年、倭の奴国王が後漢へ遣使して光武帝より「漢委奴国王」の金印を授与(後漢書)
107年、倭の面土国王帥升等が後漢へ遣使して生口160人を献じた(後漢書)

ところが2世紀後半より始まった地球規模の寒冷化、
この影響を受けた土地収奪争いなども小競り合いのもととなったことでしょう。

「2世紀後半の倭国大乱」
魏志倭人伝はじめ中国の複数の史書には
「争乱は70~80年ほど続き、一人の女子を共立し王とした。
名を卑弥呼という。
鬼道を用いてよく衆を惑わし、年長で、夫は無かった」

→後半に続く

寸止め猫パンチで威嚇

2008-11-02 | ギズモ&もぐ&メルキー
黒猫はオスの1歳半、
人間でいえば10歳ぐらいのローティーン入り口。
成長真っ只中の食べ盛りで、アホほど食べます。
もういい加減にしてと腹が立つぐらいエサ入れろと鳴きます。

あまりによくモグモグ食べるので、モグちゃんと命名しました。
ギズモのモグワイもかけています。
真夜中過ぎて食べ物を与え凶暴化しないように気をつけたいと思います。

そのうるさい「エサ入れろ」コールに、ギズモはちょっとウンザリしています。
ギズモは2001年秋生まれなので、生後丸7年が過ぎた人齢50歳ぐらいのおっちゃんですから。

  
 
モグちゃんは、おっとりしたギズモにもすぐ近づいていきます。
本気の喧嘩にはなりませんが、
ギズモは威嚇するがごとく、「寸止め猫パンチ」を時々繰り出しているようです。

⑤徐福伝説

2008-11-02 | 古代史のミステリー
京都・丹後半島の「伊根と新井の千枚田を愛する会」の末端会員です。
そこから新米が届きました。
美味しいお米ですよ~

去年は稲刈り、その前の年は田植えにも初チャレンジできました。
そのときの記事は → 稲刈り  田植え

その際にはふれませんでしたが、
新井崎神社「徐福伝説」の立て看板が目にとまりました。

 

この徐福伝説は、畿内なら和歌山にもあります。
当時はふ~んと思ってただけで、さほど関心なかったので現地に足を運んでいません。

今になってネットで検索すると、いっぱい出てきて
熱心な研究者がたくさんおられるのがわかります。
日本各地あちこちに徐福伝説あるようです。

詳しくお知りになりたい方は → こちら などおすすめです。

さてその「徐福伝説」とは
約2200年前(BC210)秦の時代の話です。
始皇帝の命を受けた徐福は、不老不死の薬を求めて、童男童女3千人と五穀の種を持って、東海の三神山を目指し船出した。
再び国に帰ることはなかったという伝説です。

日本に徐福が上陸したかどうかは確たる証拠はありませんが、
日本各地に徐福に係わる伝説が伝わっています。
そして徐福伝説のあるところに浦島伝説があるというのも興味深い。

徐福渡来以前の日本は、国の概念もなく、大陸や南方の海などから移住してきた人々が生活していただけの場所であっただろうといわれています。

吉野ケ里遺跡で発掘されるものから判断して、
たぶん徐福はこの地に至り、日本で最初の「王国」を造ったのではないかと。

徐福の大船団は、吉野ヶ里を本拠地として、
日本のあちこちへ出向き、足跡を残したのでしょうか。