大島では、平六さんの方が有名です。
秋廣平六(あきひろへいろく:1757-1817)さんは、波浮港を開港させた方として、港の見晴台に記念の像が建てられています。房総半島出身の平六さんの解説は波浮地区担当者に任せることにして、今日は同じく江戸時代の伊豆半島出身の平七さんのお話です。
元町の共同墓地に隣接する栄昌山海中寺の入口、鐘楼の近くに釜鳴屋平七(かまなりやへいしち:1829-1863)さんの顕彰碑があります。今日、前を通りかかったので撮影してきました。午後の木漏れ日が射す静かな場所でした。
先日、熱海航路で大島へ戻ってくる際、船の出港まで少し時間があったので、駅から熱海の街と親水公園などを通って港まで歩きました。時々こんなふうにブラつくのが好きです。途中、ムーンテラスの桜の木陰に建つ釜鳴屋平七夫妻のブロンズ像も見てきました。
1857(安政四)年、今から150年ほど前のことです。当時、熱海村と呼ばれていた漁村で、鮪網(まぐろあみ)の権利---漁業権と水揚げの配分に関して、網元と漁民の間に争いが起こりました。その2年後、網元の一人だった平七さん(今ならば、家業を継いだ青年実業家と云ったところでしょうか)は、重税に苦しむ漁民側に同情、味方して仲間二百十余人と蓑笠で身を固め、韮山代官所の門内に駆け込み、訴状を提出しました。直訴です。
覚悟の上とはいえ、先頭に立った平七さんは捕らえられ、そこで5年間の牢獄生活の後、「島送り」と決まり、江戸から八丈島に護送される途中、衰弱していた平七さんは大島で亡くなります。34歳でした。
平七さんの遺志を継いだ漁民たちの13年にわたる争いの末、訴えは漁民たちの勝訴として解決されたそうです。江戸時代の末期、幕府に対する黒船の外圧だけでなく、民衆が封建的な制度を打ち破った1つの事実として記憶しておきたいです。そして、熱海では毎年、命日の11月4日前後に義人平七さんの遺徳を偲んで供養祭が行われています。
熱海の梅園と大島の椿園を巡る冬から春へのツアーも良いですが、それ以外の季節にも、航路で結ばれた隣り街、2つの地域のつながりを深める旅をしてみるのはいかがでしょうか。
(なるせ)
秋廣平六(あきひろへいろく:1757-1817)さんは、波浮港を開港させた方として、港の見晴台に記念の像が建てられています。房総半島出身の平六さんの解説は波浮地区担当者に任せることにして、今日は同じく江戸時代の伊豆半島出身の平七さんのお話です。
元町の共同墓地に隣接する栄昌山海中寺の入口、鐘楼の近くに釜鳴屋平七(かまなりやへいしち:1829-1863)さんの顕彰碑があります。今日、前を通りかかったので撮影してきました。午後の木漏れ日が射す静かな場所でした。
先日、熱海航路で大島へ戻ってくる際、船の出港まで少し時間があったので、駅から熱海の街と親水公園などを通って港まで歩きました。時々こんなふうにブラつくのが好きです。途中、ムーンテラスの桜の木陰に建つ釜鳴屋平七夫妻のブロンズ像も見てきました。
1857(安政四)年、今から150年ほど前のことです。当時、熱海村と呼ばれていた漁村で、鮪網(まぐろあみ)の権利---漁業権と水揚げの配分に関して、網元と漁民の間に争いが起こりました。その2年後、網元の一人だった平七さん(今ならば、家業を継いだ青年実業家と云ったところでしょうか)は、重税に苦しむ漁民側に同情、味方して仲間二百十余人と蓑笠で身を固め、韮山代官所の門内に駆け込み、訴状を提出しました。直訴です。
覚悟の上とはいえ、先頭に立った平七さんは捕らえられ、そこで5年間の牢獄生活の後、「島送り」と決まり、江戸から八丈島に護送される途中、衰弱していた平七さんは大島で亡くなります。34歳でした。
平七さんの遺志を継いだ漁民たちの13年にわたる争いの末、訴えは漁民たちの勝訴として解決されたそうです。江戸時代の末期、幕府に対する黒船の外圧だけでなく、民衆が封建的な制度を打ち破った1つの事実として記憶しておきたいです。そして、熱海では毎年、命日の11月4日前後に義人平七さんの遺徳を偲んで供養祭が行われています。
熱海の梅園と大島の椿園を巡る冬から春へのツアーも良いですが、それ以外の季節にも、航路で結ばれた隣り街、2つの地域のつながりを深める旅をしてみるのはいかがでしょうか。
(なるせ)
大島にもいろいろな石碑等ありますが、いろいろ勉強になります。
郷土の歴史を紐解くことは若い人には人生勉強の予習となり年配者には復習となります。
今後とも島の歴史の扉を一寸づつでも開いてお聞かせください。
そうですね。平七さんの石碑のように比較的新しく、
立派で碑文が解読しやすいものは、助かりますね。
人生勉強に役立ちます。
まだまだ知らないことばかりで、勉強中です。
こちらこそ、よろしくお願い致します。