対照的な世界では、ことばはあまりいらない。
今日、シネマイーラに映画を見に行った。「MY HOUSE」という映画だ。
名古屋を舞台にした映画。ホームレスは公園に家を建てる。そして男はほぼ一日中自転車に乗り空き缶などを集める。その生活には、ことばはほとんどいらない。空き缶などを「いただく」ために、誰に対しても、姿勢を低くする。自由ではあるが、生きていくためには、廃品を集め続けなければならない。寡黙が続く。
それとはまったく対照的な一家。母親は「清潔」を維持するため、病的なまでに一日中掃除や洗濯をしている。母親はほとんどしゃべらない。子どもは勉強に励み、遅くまで塾に通う。そのような日常生活の世界にもことばはいらない。日常生活のパターンは、毎日ほとんど変わらない。
この二つの世界が交錯することがあった。子どもによるホームレスへの襲撃である。ことばはなく、そこには暴力しかなかった。
全体を通して、ことばはほとんどなかった。ことばがないということは、異なった世界間の交流がないということだ。
見終わって、車で街中を走った。今日は街中にたくさんの人がいた。浜松の中心部にこんなに多くの人が歩いているのは珍しい。明日からの夏休みを前にして、酒を飲みに来た人々なのだろう。この人たちをみて、彼らはどちらの世界の人間なのだろうと思った。翻って、ボクはどちらの世界に近いのか。おそらく「清潔」なあの一家に近いのだろう。
異なった日常を生きる人々が、あまりに近くに生きているのに、交錯しない。
「清潔」は、差別を生み出す。「清潔」な日常生活の中からはき出されるゴミ、そのゴミを拾い集めるホームレスは、ホームレスを襲った子どもには「ゴミ」に見えたに違いない。
異なった生活世界が並立する日本。政治は、その並立をなくそうとするつもりはない。もっと激化させようとしている。
全編、モノクロの映画であった。
今日、シネマイーラに映画を見に行った。「MY HOUSE」という映画だ。
名古屋を舞台にした映画。ホームレスは公園に家を建てる。そして男はほぼ一日中自転車に乗り空き缶などを集める。その生活には、ことばはほとんどいらない。空き缶などを「いただく」ために、誰に対しても、姿勢を低くする。自由ではあるが、生きていくためには、廃品を集め続けなければならない。寡黙が続く。
それとはまったく対照的な一家。母親は「清潔」を維持するため、病的なまでに一日中掃除や洗濯をしている。母親はほとんどしゃべらない。子どもは勉強に励み、遅くまで塾に通う。そのような日常生活の世界にもことばはいらない。日常生活のパターンは、毎日ほとんど変わらない。
この二つの世界が交錯することがあった。子どもによるホームレスへの襲撃である。ことばはなく、そこには暴力しかなかった。
全体を通して、ことばはほとんどなかった。ことばがないということは、異なった世界間の交流がないということだ。
見終わって、車で街中を走った。今日は街中にたくさんの人がいた。浜松の中心部にこんなに多くの人が歩いているのは珍しい。明日からの夏休みを前にして、酒を飲みに来た人々なのだろう。この人たちをみて、彼らはどちらの世界の人間なのだろうと思った。翻って、ボクはどちらの世界に近いのか。おそらく「清潔」なあの一家に近いのだろう。
異なった日常を生きる人々が、あまりに近くに生きているのに、交錯しない。
「清潔」は、差別を生み出す。「清潔」な日常生活の中からはき出されるゴミ、そのゴミを拾い集めるホームレスは、ホームレスを襲った子どもには「ゴミ」に見えたに違いない。
異なった生活世界が並立する日本。政治は、その並立をなくそうとするつもりはない。もっと激化させようとしている。
全編、モノクロの映画であった。