浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

沖縄の怒りを聞け!

2016-12-26 23:02:25 | その他
 『琉球新報』社説。きわめてまっとうな意見である。沖縄の怒りを知らなければならない。


オスプレイ空中給油 虚偽説明の責任誰が 米軍に抗せぬ「属国」際立つ

2016年12月26日 06:02

 欠陥機の墜落を引き起こした危険な訓練さえ、米軍の意のままに再開されるのか。安倍政権は一体、何をしているのか。


 13日に名護市安部の海岸に墜落した垂直離着陸輸送機MV22オスプレイを巡り、在沖海兵隊が県民の強い反対を押し切って訓練飛行を再開した19日時点で、墜落原因と説明する空中給油訓練の実施を政府が許容していたことになる。
 まず、危険極まりない空中給油の再開は県民を一層危険にさらす。断じて認められない。オスプレイの飛行停止、空中給油訓練の永続的廃止を強く求める。

 二枚舌そのもの

 今、起きていることの構図は、沖縄から見れば、しまくとぅば「ちらたーちゃー(二枚舌、二つの顔の使い分け)」そのものだ。
 琉球新報に対し、在沖海兵隊は「空中給油を含めたMV22オスプレイの飛行訓練は19日に再開した」と明言した。「空中給油は一時停止」と強調する日米両政府のこれまでの説明とは全く逆だ。
 19日の訓練飛行再開に対し、沖縄社会が猛反発したことを受け、「基地負担軽減」を担う菅義偉官房長官や稲田朋美防衛相らは「空中給油以外の飛行再開は理解できる」と述べ、空中給油訓練だけは停止されたと言いはやしていた。
 さらに防衛省は「空中給油の再開に当たり、慎重かつ段階的なアプローチが取られる」とまで強調し、米政府もそう説明していた。
 日本政府は空中給油再開だけは何とか遅らせ、一矢報いたという空気を醸し出す印象操作を図った。それさえも達成できず、北部訓練場の返還式典を強行し、菅氏らが一方的に「沖縄の負担軽減」を喧伝(けんでん)する神経が分からない。
 空中給油の再開許容は、紛れもない約束違反である。そもそも政府への信頼などないに等しいが、閣僚まで虚偽の事実を公然と発表した責任は誰がどう取るのか。
 県幹部が「話にならない」と反発を強めるのは当然である。
 現場部隊である海兵隊が独走し、軍の論理で危険な空中給油再開が決められたならば、米軍内、米政府の統制が利かない危険な構図が浮かぶ。沖縄社会の不安などお構いなしに海兵隊の運用が最優先されることになる。
 米軍基地の存在、訓練によって命を脅かされている県民は一体、どの国の、どの機関のどんな説明を信じればいいのか。
 沖縄は軍事植民地そのものではないか。日本の対米従属という言葉では生ぬるい。主権国家に程遠い属国性が極まる罪深さが際立っている。

 佐賀との二重基準

 もう一つ、見逃せない県民軽視がある。陸上自衛隊が導入を予定するオスプレイを佐賀に配備する計画を巡り、防衛省は墜落事故後、「佐賀では空中給油を予定していない」と説明し、佐賀で広がる不安払拭(ふっしょく)に躍起になっている。
 沖縄ではなぜ米軍に認められ、佐賀では実施しないのか。沖縄県民の命を軽んじる二重基準がまたも露骨に繰り出されたが、その根拠は誰も説明できまい。沖縄に米軍基地を集中させる「差別」を公然と認めることになるからだ。
 オスプレイは離着陸時はヘリコプターモード、水平飛行時は固定翼モードで飛ぶ。二つの飛行特性を併せ持つ複雑な機体構造は、安定性を欠く要因だ。
 空中給油訓練はさらに不具合が起きやすい。プロペラと給油口が近いため、乱気流や操縦ミスなどで給油機側との位置がずれれば、たちどころに給油管がプロペラに巻き込まれ損傷する危険性が高い。
 世界で最もオスプレイの機体構造に詳しい専門家が「ヘリモードで給油できないのは機体の欠陥だ」と明言している。
 こんな代物が沖縄の空を飛び、空中給油を繰り返せば、いつかまた確実に落ちる。いとも簡単に事故原因となった空中給油まで再開する軍隊組織の安全管理は到底信頼できない。海兵隊は米本国に撤収し、存分に訓練すればいい。
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【本】三島憲一『ニーチェ かく語りき』(岩波現代文庫)

2016-12-26 20:58:43 | その他
 現代思想に大きな影響を与えた思想家としてニーチェの名が、まっさきにあげられる。

 西欧思想の本を読んでいると、ほとんどすべての思想家が、ギリシャ思想をはじめヨーロッパの思想史をきちんと自らのものにしていることに感心する。近年の思想だけではなく、思想史の流れを掌握した上で自らの思考を提示しているのだ。そのなかで、ニーチェが記したことは、とくに現代思想に大きな影響を与えていることが、すでに指摘されていた。

 すべてではないが、重要な点で、フーコーが言っていることは、ニーチェが指摘したことを敷衍していると想像できる箇所がいくつもある。フーコーは、ニーチェを前提にみずからの思考を展開していったことが、この本(第三章)でわかる。

 先日も指摘したが、三島由紀夫もニーチェの思考を背景にして小説を書いていることを、はじめて知った。

 そしてフランクフルト学派はニーチェをナチス思想の軛から解放しようとしたということもわかった。フランクフルト学派は、ナチスに追われて、第二次大戦中はアメリカにいて思想活動を展開していた。

 ニーチェの思想の可能性が、なかなか大きなものだということがわかっただけでも、この本を読む価値があるというものだ。

 本書は、それぞれの思想家の思考が、ニーチェのどういうところとつながっているか、ニーチェの著書からいろいろな部分を引用して示してくれる。その点でとても便利である。

 本書を読んで、リチャード・ローティという思想家をはじめて知った。フーコーやフランクフルト学派は既知の人物であるが、ローティについても読んでみたいと思った。

 さて、引用されているニーチェのことばでもっとも印象に残っているのは、次のことばである(『ツァラトゥストラ』第一部)。

 国家は、善と悪についてあらゆることばを駆使して、嘘をつく。ー国家が何を語っても、それは嘘であり、ー国家が何を持っていようと、それは盗んできたものだ

 なるほど鋭いアフォリズムである。
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