またトッドの本である。欧米の状況を分析的に理解するには、この人の本はとても参考になる。
今回は、全体的な内容ではなく、一部について言及する。
36ページに、「エリートは急に、自分たちの人々に責任を感じなくなった。そして、いわば帝国的な視野に立つようになった」と記されている。エリートとは、官僚や企業のトップなど支配層の人々のことだと思うが、そのエリートがその国の人々や企業の一般社員に関して、思いをはせることをしなくなったということなのだろう。そして、そのエリートが、支配者の立場に立って国家を運営していく、そういう思考をするようになった、というのである。
これについては、私は理解できる。というのも、経済政策関連の本をよく読んでいた時期がある。1980年代後半から90年代前半射かけてであるが、その頃、日本経済が国際的な競争に勝つにはどうしたらよいかなどと、私は考えていた。まさに日本という国家をどう運営していったら、国際競争に勝ち残っていけるのかを真剣に考えていたことがあったのだ。もちろん私はエリートでは全くないのだが、新自由主義的な動きが強まってきたときに、一時的にその動きに乗せられてしまった。まさに支配層の思考であった。それは同時に「帝国的な視野」をもつものであった。
もとよりエリートでもなく、庶民の1人である私は、そうした思考の愚かさに気がついたのだが、しかし私と同じような経験をし、そのまま支配層の思考を持ち続ける人々がいてもおかしくはない。企業に勤めている人々は、そうした思考にはまりやすいのだと思う。
いずれにしても、しかしその指摘の時期は、まだ日本全体のことを考えようとしていたのだろうが、その後、エリートは国家の運営という視点すら捨て去り、自らの私利私欲を優先させるようになっていった。
新自由主義を唱えたシカゴ大学のミルトン・フリードマンその人が、みずからの利己的な私富追求にその人生を「捧げた」ことが、たとえば、内橋克人・宇沢弘文の『始まっている未来』(岩波書店、2009年)で、シカゴ大学で彼と同僚であった時期をもつ宇沢が回顧している場面が記されている。
新自由主義が今後どうなるかはわからないが、リーマンショックを経てからは、少なくともそのピークは過ぎたと思われる。しかしその後、新自由主義を克服する、新たな経済学・経済政策が未だ出てきていない。
宇沢の経済学は、その点で参考になる学問である。
今回は、全体的な内容ではなく、一部について言及する。
36ページに、「エリートは急に、自分たちの人々に責任を感じなくなった。そして、いわば帝国的な視野に立つようになった」と記されている。エリートとは、官僚や企業のトップなど支配層の人々のことだと思うが、そのエリートがその国の人々や企業の一般社員に関して、思いをはせることをしなくなったということなのだろう。そして、そのエリートが、支配者の立場に立って国家を運営していく、そういう思考をするようになった、というのである。
これについては、私は理解できる。というのも、経済政策関連の本をよく読んでいた時期がある。1980年代後半から90年代前半射かけてであるが、その頃、日本経済が国際的な競争に勝つにはどうしたらよいかなどと、私は考えていた。まさに日本という国家をどう運営していったら、国際競争に勝ち残っていけるのかを真剣に考えていたことがあったのだ。もちろん私はエリートでは全くないのだが、新自由主義的な動きが強まってきたときに、一時的にその動きに乗せられてしまった。まさに支配層の思考であった。それは同時に「帝国的な視野」をもつものであった。
もとよりエリートでもなく、庶民の1人である私は、そうした思考の愚かさに気がついたのだが、しかし私と同じような経験をし、そのまま支配層の思考を持ち続ける人々がいてもおかしくはない。企業に勤めている人々は、そうした思考にはまりやすいのだと思う。
いずれにしても、しかしその指摘の時期は、まだ日本全体のことを考えようとしていたのだろうが、その後、エリートは国家の運営という視点すら捨て去り、自らの私利私欲を優先させるようになっていった。
新自由主義を唱えたシカゴ大学のミルトン・フリードマンその人が、みずからの利己的な私富追求にその人生を「捧げた」ことが、たとえば、内橋克人・宇沢弘文の『始まっている未来』(岩波書店、2009年)で、シカゴ大学で彼と同僚であった時期をもつ宇沢が回顧している場面が記されている。
新自由主義が今後どうなるかはわからないが、リーマンショックを経てからは、少なくともそのピークは過ぎたと思われる。しかしその後、新自由主義を克服する、新たな経済学・経済政策が未だ出てきていない。
宇沢の経済学は、その点で参考になる学問である。