今の日本は、まさに「暗夜」の路を歩んでいるように思える。だから『暗夜行路』を読んだわけではない。多喜二を理解する手段としての読書である。
この小説の一部が、確か高校の時の教科書にあった。主人公である時任謙作が大山に行き、そこで自然の中に溶け込んでいくような気分になったことを記した部分である。しかし、大山になぜ彼が行くことになったのかは書かれていないし、また教員もその説明はしなかった。
大山の寺にこもるようになった原因は、妻直子の「過ち」、彼女の従兄の要に強姦されたこと、謙作はそれを許すといいながら、心の奥底で許せない感情を抱き続け、そのいらだちを公然と示す。しかし謙作はそれはあってはならないということを理解している、理解しているのだが感情がその意志についていかないのだ。だから大山にこもったのだ。
最後は、謙作が重病となり、妻直子がかけつけるが、謙作の生死は不明のまま、という筋立てである。
前編のドラマは、謙作の出生の秘密が明らかになったこと、後編のそれは妻直子の「過ち」である。それを軸にしながら展開するところはなかなかひきつけるが、それ以外の箇所はそうでもない。謙作は人物的にどうかと思うところが多々あるのだ。イライラしやすく、ねちねちと考え、こだわる。
そうはいっても、軽い気持ちで読みはじめたこの本を、最後まで読ませるのだから、さすがに志賀直哉である。
多喜二を語るのは11月である。それまで関連文献を読みあさることになる。
この小説の一部が、確か高校の時の教科書にあった。主人公である時任謙作が大山に行き、そこで自然の中に溶け込んでいくような気分になったことを記した部分である。しかし、大山になぜ彼が行くことになったのかは書かれていないし、また教員もその説明はしなかった。
大山の寺にこもるようになった原因は、妻直子の「過ち」、彼女の従兄の要に強姦されたこと、謙作はそれを許すといいながら、心の奥底で許せない感情を抱き続け、そのいらだちを公然と示す。しかし謙作はそれはあってはならないということを理解している、理解しているのだが感情がその意志についていかないのだ。だから大山にこもったのだ。
最後は、謙作が重病となり、妻直子がかけつけるが、謙作の生死は不明のまま、という筋立てである。
前編のドラマは、謙作の出生の秘密が明らかになったこと、後編のそれは妻直子の「過ち」である。それを軸にしながら展開するところはなかなかひきつけるが、それ以外の箇所はそうでもない。謙作は人物的にどうかと思うところが多々あるのだ。イライラしやすく、ねちねちと考え、こだわる。
そうはいっても、軽い気持ちで読みはじめたこの本を、最後まで読ませるのだから、さすがに志賀直哉である。
多喜二を語るのは11月である。それまで関連文献を読みあさることになる。