浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】佐野眞一『唐牛伝 敗者の戦後漂流』(小学館文庫)

2019-07-03 22:51:23 | 
 一気に読んだ。60年安保闘争の全学連主流派の委員長であった唐牛健太郎の「評伝」である。佐野は、粘り強く、1984年に亡くなった唐牛の周辺を取材し、唐牛という人間とその周辺の人びとの動きを追い、60年安保闘争がどういう闘争であったのかを描く。

 私とは世代が異なるが、唐牛という名は知っていた。しかしどういう人間であったのかは知らなかった。

 まず彼が庶子であり、父を知らずに育ったということが、彼の生き方を決めたな、と思った。父を知らないまま育つと、なぜか生の軌跡を器用に方向転換することはできない。私自身がそうだから、この本を読んでいてよくわかる。
 こうした闘争に参加した者の多くは、いつのまにか現行の支配秩序の中にさっと入りこんで、この世の栄達を図る。そういう姿を、私は見ている。だが、母子家庭に育った者は、それができない。

 1970年代前半に大学生として生きた者として、佐野の「革共同は「反帝(国主義)、反スタ(ーリン)」を標榜しながら、実は非常に官僚的で閉鎖的な組織だった」(179頁)という指摘は同感である。私が卒業した大学は革マル派が跋扈していたが、彼らは「反スタ」といいながら、もっとも組織温存主義で、もっともスターリン主義に染まっていると思った。顔つきを見れば、すぐに革マル派とわかるほどだった。国鉄民営化の時に、革マル派が牛耳っていた動労という組合が分割民営化に積極的になったのは、組織温存のためであった。国労を差別する労働組合法に規定された「不当労働行為」を肯定したのは、正義よりも組織を優先したためだと思う。私は、今でも革マル派に嫌悪感を抱いている。

 また島成郎の指摘、「これ(脆弱な日本政治中枢)に立ち向かう反体制諸派はそれ以上に醜悪で貧弱、低次元であった。・・・奥深いところで大衆の生活を包含しながら恐ろしいほどのヴァイタリティで動いている日本産業社会の構造に迫り得るなんらの武器を持たなかった」(185頁)にも同意する。それは今も変わってはいない。

 そしてまた佐野の「人間は組織をつくる。しかし組織は人間をつくらない」(551頁ほか)にも同意する。

 この後にその具体的なことを記したが、削除した。いわゆる「革新勢力」は、過去に学んでいない。旧態依然の方法をただやっているだけだ。
コメント
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