浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

アレクシェーヴィチ

2021-11-20 22:23:05 | 

 アレクシェーヴィチが聞き取ったもの、同時に彼女が語ったことは、とても含蓄があり、私に考えるということを促す。

 『アレクシェーヴィチとの対話』は、NHKがテレビで放映した内容を基礎としている。内容がたいへん濃いものだ。

 本筋とは離れるが、NHKはほんとうに潤沢にカネをつかっているということを実感する。私も民放でドキュメンタリーを撮りに外国へいったことがあるが、自分の旅費は自分で出していたし、ケチケチ撮影旅行であった。しかしNHKはすごい。アレクシェーヴィチの語りは、もちろん取材し放送する価値はある。潤沢なカネがなかったら、それはできなかっただろう。

 さてこういう記述がある。

私たち民主派が人々に語りかけた民主主義の理想は、彼らにとって大体において縁遠いものでした。そして私は理解したのです。民衆が悪いのではない、私たちが民衆像を手前勝手に作り上げていたのだと。本当の民衆がどんなものであるか、私たちは知らずにいたのです。・・・・「あんな酷い仕打ちを受けて、なぜ民衆は黙っているのか」と。そこへ突如としてプーチンがやってきて、手垢にまみれたロシアの決まり文句「我々は偉大なロシアだ。我々は侮辱されている。さあ立ちあがろう」と言うのです。そして突然、民衆が語り始めました。86%のプーチン支持。民衆が語り始めると私たちは恐ろしくなりました。再び私たちは理解したのです。自分たちが、民衆とは何者であるかを知らずにいたことを。(275~6頁)

 先の総選挙結果を見ると、このアレクシェーヴィチの語りが重なってくる。私たちは、日本人の意識を知っていない。ただ推測しているだけだったのだ。

 私は、私と同じような意識を持った人々と交流し政治について語り合う。しかし、そうでない人々とも語ることはあるが、政治についてはほとんど話さない。どういう政治意識をもっているか、私は知らない。そして私と同じような意識を持っている人は少数派なのである。

 少しずつ、日本は「壊憲」の方向に動いていくのだろう。その先はかつての「大日本帝国」に似てくるはずだ。

 私やあなたの抱えている困難とは、人間の意識というものがそう簡単には変わらないということです。(236頁)

 

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ドストエフスキーの肖像

2021-11-20 07:23:05 | 

 昨日、図書館から『アレクシェーヴィチとの対話』(岩波書店)を借りてきた。以前はよさそうな本はすぐに購入したものだが、今は本を増やしたくないという思いから、できるだけ図書館から借りている。

 さて、NHKはこのテーマで番組をつくったようなのだ。テレビを見ない私はそれを知らなかった。その番組を活字化したのが本書である。

 NHKの鎌倉英也は、アレクシェーヴィチの部屋でドストエフスキーの肖像に出会った。やはり、と思った。『セカンドハンドの時代』を読みながら、私はドストエフスキーを想起していた。彼の作品に通底する何かを感じていたのだ。

 鎌倉がその肖像について尋ねると、アレクシェーヴィチはこう答えた。

そうです。ドストエフスキーは私を育ててくれた作家なんです。私に大きな感銘を与えてくれた作家で、彼の作品の強い影響を受けながら、私は「大人になった」ともいえます。ドストエフスキーが描き出したのは、それまでのロシア文学が認めようとせず、またあえて書こうとしてこなかった人間の多様な側面と暗黒です。人間の心を見抜く洞察力ですね。ドストエフスキーは、現代においても、つまり、現在のロシア人がつい先ごろ体験した世界観や価値観の劇的な変化ーそれは連邦崩壊という歴史的大転換でしたがーが起きても耐え抜いた唯一の作家と言っていいのではないでしょうか。彼の世界観と現実認識は、こうした時代の試練にも耐えたのです。この世に普遍的一般的な真理などというものは存在せず、人にはそれぞれ個別の真理しかないと初めて示したのもドストエフスキーだと思います。彼は、貧しく小さいとされてきた人々の心が、歴史的英雄や偉大な聖職者のそれに決して劣っていないことを示しました。ロシア文学のみならず世界の文学が描いてきた大人物的な主人公に比べても、「小さい人々」が少しも小さくないということを示したのだと思います。(32~33)

 だから、本書の副題は、「「小さき人々」の声を求めて」なのである。

 先日『彼は早稲田で死んだ』という本について書いた。その本に、大岩圭之助明治学院大学名誉教授との対談がおさめられている。大岩は、スローライフを提唱する学者。しかし早稲田大学の学生のとき、彼は暴力を振るいまくり、多くの学生に脅威を与えた(死さえも導いた)革マル派のメンバーの幹部であった。大岩にとって、学生時代に様々な暴力を振るう側であった時代は、あまり振り返ることのないこと、つまり彼にとってあまり重要ではないことなのだ。他方、樋田君にとって、あるいは暴力支配に抗した者にとって、彼の存在は現在とつながっているのだが、当の加害者である大岩にとって、あの時期は人生の一コマでしかないのだ。

 加害者は忘却し、被害者にとっては重い記憶として残る。それはかつての大日本帝国が侵攻していった地域で行われた残虐行為に対する加害者と被害者のその後と相通じるものだ。

 なぜ人間は平気で暴力を振るうことができるのか、そしてそれをいとも簡単に忘れることができるのか。ここにも「人間の多様な側面と暗黒」があると、私は考える。

 私が最近になって「人間てえ奴は?」を再び、いや三度・・・・考え始めたのは先の総選挙の結果である。あんなにひどい悪政を自民党・公明党政権がやってきたのに、日本の国民は怒っていない。野党が伸びるだろうという予想はみごとにはずれた。おそらくそう予想していた人々は、みずからの価値観、つまり悪政への怒りを日本の国民のなかに発見したかったのだろう。

 だが日本の国民は、そうではなかった。なぜ?と私は考える。

 スターリンの時代、ソ連は全土が「収容所」であった。突然人々は官憲に連行され、ある者は銃殺され、ある者はシベリアでの重労働を課せられた。自分がなぜ連行されるのか、なぜ銃殺されるのか、人々はその理由もわからずにその「運命」に従った。ロシア人に、その時代を懐かしむ人々がいる。なぜ?

 アレクシェーヴィチはこう語る。

今起きていることや歴史というものを知るためには、私たちは「小さき人々」の声に耳を傾ける必要があります。(33頁)

 ドストエフスキー生誕200年だということで、『現代思想』(青土社)は臨時増刊号を出すようだ。もう一度ドストエフスキーを読むこと、そしてアレクシェーヴィチの作品を読むこと、「小さき人々」を見つめること、「小さき人々」の声を聴くこと、ここから始めなければならない。

 

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