ロシアの作家が書いた戯曲のテーマは、人間とは何か、である。その人間とは、いろいろだ、というしかないようだ。
スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの『セカンドハンドの時代』には、いろいろな人間が描かれている。描かれているのではなく、それぞれの個人がみずからの生き方や生きてきた中での思いを語るのだ。もちろん生きてくる中で、いろいろな人と交流する。その人たちへの言及もある。
そこには「人間とは〇〇である」と定義づける何ものもない。ただ、人間は「いろいろ」というしかない。
ソヴィエト時代の学校でぼくらは 、人間そのものは善良でありすばらしいものだとおそわっていて、 母はいまでも、人間をひどいものに変えるのはひどい状況だと信じている。人間そのものは善良なのだと。ところが、それは・・・・ちがう・・・・ちがうんですよ。そう・・・・・人間は善と悪のあいだを一生ゆれているものなんです。(361頁)
ロシア文学は、いろいろな事件があっても、結局は人間とは信じられるものだと思わせていた、と記憶している。だが、現実の人間たちはそうではない。本書で語られる人間たちの姿をみていると、人間は善良でも悪人でもない。人間はただ人間なのだ、それ以上でもそれ以下でもない。つまり人間とはこういうものだと断言できる根拠はない。抽象的に人間とはこういうものだとは断定できず、要するに個々の人間の、ある一定の時期においてのみ、この人は○○である、ということができる、そういう存在なのだ。
こういう個所がある。
アルメニア人の女性。バクーに住んでいた。そこにはソ連人がいた。ソ連人は仲よく近所づきあいをしていた。まつりの時には、グルジア、アルメニア、ロシア、タタール、ウクライナ、アゼルバイジャンの人たちがそれぞれの料理を持ち寄って楽しい時間を過ごした。彼らはロシア語を話し、ソ連人であった。ところが、ソ連が崩壊したあと、虐殺や迫害、略奪が始まった。その中には、仲が良かった近所の人たちがいた(385頁以降の項目)。
このような事態は、旧ユーゴスラビアでも起きた。
虐殺や迫害、略奪に走る隣人、その被害を受ける隣人、そしてそれを理解できないままにいる隣人。
人間とは、その空間で、その時間のなかに生きているだけの存在。「人間てえ奴は・・・」、そのあとを続けることができない存在なのだ。
分厚い本書は、その人間とはいかなる存在であるのかを考えさせる、まさに文学である。読んでは立ち止まり、読んでは立ち止まり・・・を繰り返している。文学であるが、哲学書でもある。