アレクシェーヴィチの本を読んでいると、日本とロシアは似ているところがたくさんあるように思える。
彼女も、『アレクシェーヴィチとの対話』においてこう語る。
・・・日本にも、私たちのところと同じく「抵抗の文化」がないようです。あるいはこれは日本の文化全般と関係があるのかもしれませんが。人々はつねに役人や国家をあてにして、 各々が一人で耐え忍んでいる。でもすべての人がその状況に対峙できるわけではありません。( 258頁)
たしかに、日本には「抵抗の文化」はほとんどみられない。少数の人々による抵抗が見られるだけである。アレクシェーヴィチはフクシマを訪ねてこう語ったのである。自民党・公明党政権による原発推進政策の結果、事故が起き、多くの人々が犠牲となり、故郷を追われた。しかし、そこでも自民党議員が選挙で当選しているし、福島県などの自治体も政府の原発政策に、今も従順である。
これだけではない。かつて日本軍は、「生きて虜囚の辱めを受けず」と、捕虜になるよりも死ねと教えた。ソ連でもそれは同様であった。捕虜になった兵士は、シベリアに送られ強制労働に従事した。
ソ連の体制においては、こういう教育が行われていた。
私たちが生きた国では、いかに死ぬかを子供の頃から教えていました。死を。人は幸福のため、愛のために生まれるとは教えず、人が存在するのは、自分を捧げるため、火に飛び込み自分を犠牲にするためだとくり返し教えていたのです。武器を手にした人間を愛せと。( 316頁)
これは大日本帝国時代の「教育勅語」の内容と相似的である。「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」がそれであり、実際教科書ではそう教えられた。
アレクシェーヴィチはこうも語る。
国家は単純化された公式とスローガンを好み、わかりやすい「敵」のイメージを広めることを好みます。多くの人々も同様です。あなたがいみじくも言うとおり、人々は自分で判断するより「強力な指導者」に物事を決定してもらうことを望むのです。このことは日本についても同様です。(287頁)
今も、日本では「単純化された公式とスローガン」が権力から流され、メディアも報じる。
そして過去、「大日本帝国」の時代への動きが強まっている。
政府の「教育改革国民会議」では、「大日本帝国」の時代こそがあるべき姿だという議論が行われている。
たとえば・・・
- 子どもを厳しく「飼い馴らす」必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう
- 「ここで時代が変わった」「変わらないと日本が滅びる」というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う
こういう事態を、私たちはどう考えるのか。