今年1月、晶文社から『学問の自由が危ない 日本学術会議問題の深層』という本が出た。そのなかに内田樹さんの「酔生夢死の国で」がある。
内田さんは、今回の総選挙における自民党・公明党政権の存続、維新の躍進を予想しているかのような文を書いていた。その一部を紹介しよう。経済力、技術力、学術発信力・・・・すべての数値が、日本の劣化、国際的地位の低下を示している(GDPランキングは、中国、EU、アメリカ、インド、そして日本。時価総額ランキングでトップ20には日本企業はなく、トップ50のなかにたった一社・トヨタが入っている。国際競争力ランキングは30位。)。もちろん、自民党政治により、国民生活も劣化し続けている(30年間あがらない賃金、貯蓄ゼロ世帯が全世帯の3割以上なぢ)。しかし自民党・公明党政権は何もせず、ウソをついたり、ゴマカしたりしている。そして国民はそれに怒りもせずに、唯々諾々としたがっている。なぜか。
この8年間、首相と官房長官が何を問われても「問題ない」「適切に行っている」と答えてきたのは、単にその場しのぎの遁辞を弄しているというだけではなく、戦略的にそうしてもいのだと思う。システムのどこかに瑕疵があるなら、修正しなくてはならない。問題があるなら、解決しなければならない。でも、システムにはいかなる瑕疵もなく、あらゆる問題は既に解決されているなら、改善努力そのものが必要なくなる。ある時点で、日本政府は国際社会において「名誉ある地位」を占めるための努力を放棄して、深い自己満足のうちに安らぐことに決めたのである。
「今の日本にはもう国家目標がない」というのはそのことである。国際社会で実際にどう評価されるかということに政府も国民ももう関心がない。国民が「日本は国際社会から尊敬され、隣国からは畏怖されている」というメディアが垂れ流す政府発表を信じる(か信じるふりをしている)限り、政権はいつまでも安泰である。
国力はひたすら衰微している。ふつうはその責任を為政者がとらなければならないのだが、「国力はひたすら向上している」という嘘を広報メディアが宣布して、多くの国民がそれを服用することで精神の安定を得ている限り、為政者は国力回復の手立てについて頭を悩ます必要はない。
・・・彼らは日本国内の組織をすべて上意下達の組織に改変することにあれほど熱中するのである。上位者からの指示に誰一人疑念を呈することなく、トップの指示が遅滞なく末端まで伝達され、現場には一切自由裁量権がなく、何か起きれば全員が判断停止して「上位者の指示を仰ぐ」ような仕組み、それが「マーケットを持たない株式会社」の経営者が切望するシステムである。ここではもう何を創り出すかは問題ではない。どうやって誰一人トップに逆らわないような仕組みを作り上げるかという管理コストの最小化が問題になる。トップとは別の価値観を持ち、別の「ものさし」でものごとの理非や適否を判断する者たち、「異物」や「他者」はこのシステムには存在することが許されないのである。
過去四半世紀日本国内で官民一となって進行させてきたのは「そういうこと」である。そして、まことに残念ながら、「管理コストの最小化は絶対善である」という命題に国民は抗弁しなかった。そうだと信じ込まされてきたからである。組織が何を創り出すかよりも、組織がどう効率的に管理されているかの方が優先順位の高い課題だという考え方は長い時間をかけて日本人に刷り込まれてきたのである。
私たちは今日本学術会議問題によって露出した日本社会の暗部に直面しているわけだけれども、そこに見られたのは、何らかの野心的な政治目的を達成するために計画的になされている事業の一部ではないというのが私の考えである。官邸はただイエスマンで埋め尽くされた社会を作り出したいということしか考えていない。そのような社会を作り出したあとに、それを用いて何を成し遂げたいのかについては何も考えていない。そもそも「成し遂げるべきいかなる国家目標もないほどに日本は成功した」というファンタジーを語り続けたことで自民党政権は安定的な基盤を築いたのである。
日本国民がこの酔生夢死から覚醒する日は来るのだろうか。