浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「平成」を振り返る(5)

2024-12-10 08:25:53 | 近現代史

 「知性が衰退する時代」として「平成」を捉えたが、それは「令和」になってさらに加速している。

 G・オーウェルは、「全体主義の真の恐怖は、「残虐行為」をおこなうからではなく、客観的真実という概念を攻撃することにある。それは未来ばかりか過去までも平然と意のままに動かすのだ。」(「思いつくままに」、『オーウェル評論集』岩波文庫、所収)と書いているが、その通りの時代の中にわたしたちは入っている。

まず「百田尚樹現象(『ニューズウィーク日本版』2019年6月4日号)」を紹介する。


①百田尚樹=1956年、大阪市生れ。同志社大学中退。放送作家として「探偵!ナイトスクープ」等の番組構成を手掛ける。2006年『永遠の0』で作家デビュー。他の著書に『海賊とよばれた男』(第10回本屋大賞受賞)『モンスター』『影法師』『大放言』『フォルトゥナの瞳』『鋼のメンタル』『幻庵』『戦争と平和』『日本国紀』などがある。彼は、右派思想の持ち主・改憲論者である。


②百田尚樹はなぜ読まれるか?
ⅰ)読みやすさ ⅱ)山場をいくつもつくるストーリー展開と構成力 ⅲ)おもしろさ ⅳ)反権威主義 ⅴ)アマチュア ⅵ)「感動」を重視 ⅶ)「普通の人々」に

 したがって、そこでは、事実や学問研究の成果を重視しない。近年の動向として、事実や学問研究(知的営みによる成果)を無視ないし軽視する文化がはびこっているように思える。

 
③加藤典洋の指摘
 加藤は、島尾敏雄・吉田満『新編 特攻体験と戦後』(中公文庫、2014年)の「解説」で、両者の対談と『永遠の0』とを比較する。そしてこう記す。
※島尾は奄美・加計呂麻島で特攻用の「震洋」隊の隊長、吉田は戦艦大和の生き残り。戦後は日本銀行勤務。
「いまは、誰しも、特攻に関連し、また戦争の意味に関連し、賛否いずれのイデオロギーなりともたやすくある意味ではショッピングするように自在に手にすることができる。それだけではない。着脱可能と言おうか、小説を書くに際し、その感動が汎用的な広がりを持つよう、そのイデオロギーをそこに「入れる」こともできれば、「入れない」でおくことすらできる。イデオロギー、思想が、いよいよそのようなものなってきたというだけでなく、私たちがある小説に感動するとして、その「感動」もまたそのような意味で操作可能なものとなっているのである。」「私は『永遠の0』を読んだ。そしてそれが、百田の言うとおり、どちらかといえば反戦的な、感動的な物語であると思った。しかしそのことは、百田が愚劣ともいえる右翼思想の持ち主であることと両立する。何の不思議もない。今ではイデオロギーというものがそういうものであるように、感動もまた、操作可能である。感動しながら、同時に自分の「感動」をそのように、操作されうるものと受け止める審美的なリテラシーが新しい思想の流儀として求められているのである。」
 島尾、吉田、ふたりの対談を読み、加藤はこのように思う。
「言葉を変えれば、特攻体験をそのまま受けとめる限り、そこから「感動」に結びつく物語は生まれてこない、ということになる。」


 現在は、思想や、イデオロギー、感動が、ショッピング可能な、操作できるものとして登場する時代なのである。
 「アイデンティティ」ということばがある。「自己同一性などと訳される。自分は何者であるか,私がほかならぬこの私であるその核心とは何か,という自己定義がアイデンティティである。何かが変わるとき,変わらないものとして常に前提にされるもの (斉一性,連続性) がその機軸となる。」(『ブリタニカ国際大百科事典』)と説明されるが、石戸諭による百田尚樹の人物像から考えると、「私がほかならぬこの私であるその核心」がない、その時代時代の時流に沿って変化していく、それはカネ儲けのためでもあるし、権力とつながるためでもあるし、名誉を得るためでもある。いわば「アイデンティティ」の流動化ともいうべき様相を見せているのである。それが「平成」という時代の特徴かも知れない。

 学問的知が無視ないし軽視される時代のなか、権威というものも崩壊への道をたどった。それは学問の分野でも起きたことである。「ポストモダン」というある種の「流行」があった。 

(1)「ポストモダン」という考え方
● “現代は「大きな物語」が消え、歴史の終焉に入ったと考える。普遍性が破壊されたこの状況下では、「小さな無数のイストワール(物語=歴史)が、日常生活の織物を織り上げ」(『ポスト・モダン通信』)、言説は多様化する。”(リオタール)

●近代哲学の問題の構図は「主観」と「客観」との一致→言語論的転回=主観ー言語ー客観。「世界の正しい認識は可能か」=「言語はその認識を正しく表現できるか」。

●相対主義(「唯一絶対の視点や価値観から何ごとかを主張するのではなく,もろもろの視点や価値観の併立・共存を認め,それぞれの視点,価値観に立って複数の主張ができることを容認する立場」『世界大百科事典』第2版)→何が正しくて何が間違っているかという基準がない。価値論や倫理の問題が脱落。

●ポストモダンとは、「近代」を相対化した。そのなかで、近代が獲得してきた個人主義原理、人権、民主主義などのポジティヴな価値の相対化。※「個人主義原理」=個人の尊厳(権利の主体)と自己決定(自立と自律)

 今まで、共通だと思われていた価値に疑いがもたれるなか、倫理的なことさえも疑われるようになり、普遍的な価値観や倫理観が、個々バラバラに解体されていき、「何でもあり」という時代に突入した。

 

 

 

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