『社会運動史研究』5を読む。
ぼくは、この本を読む前に、「直接行動」ということばについて、こう考えていた。ぼくが市民運動やデモに出るとき、日常生活と異次元の行動に関わることすべてが「直接行動」だと。浜松市当局がごみの有料化を画策したことにたいして、友人たちと反対の声を挙げているが、その行動も「直接行動」だと、ぼくは考えていた。
この本の「座談会 運動史から考える直接行動」を読んでいて、「直接行動」というのは、一般的に、座り込みや、あるいは「暴力的な」抗議活動などをイメージしているのだろうかと思った。座談会の発言の中で、もっとも触発を受けたのは、酒井隆史さんのものだ。酒井さんの発言の背後に、大杉栄の影響もあるなあと思いながら読んだ。
大杉のこの文。
運動には方向はある。しかし所謂最後の目的はない。一運動の理想は、其の所謂最後の目的の中に自らを見出すものではない。理想は常にその運動と伴ひ、其の運動と共に進んで行く。理想が運動の前方にあるのではない。運動其者の中に在るのだ。運動其者の中に其の型を刻んで行くのだ。
自由と創造とは、之れを将来にのみ吾々が憧憬すべき理想ではない。吾々は先づ之れを現実の中に捕捉しなければならぬ。吾々自身の中に獲得しなければならぬ。
自由と創造とを吾々自身の中に獲(え)るとは、即ち自己の自己である事を知り、且つこの自己の中に、自己によつて生きて行く事を知るの謂である。
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自由と創造とは、吾々の外に、又将来にあるのではない。吾々の中に、現に、あるのだ。(「生の創造」、1914年、『全集』2)
酒井さんは、こう語っている。
社会運動はつねに二つの要素をもっていて、一つが獲得目標の手段であること、もう一つはそれ自体が未来社会の先取りである、つまり目的そのものであるということ。
こうも言っている。
直接行動は最も狭義には、何かに抵抗する行動ではなく、それを超えて、新しい世界を現実の世界そのもののうちに直接に建設していく行動のことを意味しています。
大杉の主張と重なる。また酒井さんは、暴力、非暴力というカテゴリーに加えて、「反暴力」を打ちだしている。「暴力を考えるときに、反暴力という尺度をもっているかどうかが決定的に重要だと思います」と。慧眼だと思う。
私は「非暴力」の立場であるが、しかし国家権力はじめ、彼らは平気で暴力を振るう。だとするなら、彼らの暴力に対抗して暴力で対峙することもあり得ると思う。その場合でも、やはり「反暴力」という価値観は離してはならないと思う。暴力に反対することは、同時にモラルの地平でヘゲモニーをもたなければならないからだ。
次に小泉英政さんに対するインタビューを読んだ。共感するところがたくさんあった。今まで小泉さんを知らなかったが、読んでいて、生き方そのものが「哲学者」ではないかと思った。尊敬できる人間である。
私もカネにならない農業に従事しているが(作物は子どもに送ったり、近所の人にあげたりしているのでまったくカネにはならない)、有機農業を実践している小泉さんの生き方そのものが、まさに「非暴力直接行動」なのだということに共感した。
自分の信念、自分の呪文。それはその人にとって何であろうといいんだけれども、譲れないものをきちんと持って、それで社会と向き合っていく。
なるほど、そこに小泉さんの強靭さがあるのだと思った。このインタビューを読んだだけで、この雑誌を購入した価値があった、と思うほど共感した。