うやむやのなかにあった「名前」に関する私の認識を、きちんと歴史学的に解明してくれた。感謝である。
1870年9月19日、新政府は「苗字自由令」を出した。
「江戸時代の庶民にとって、苗字は自らの人名を構成する必須要素ではない。それはいちいち使用するものではないが、古くから代々の苗字を設定しているのも普通だったし、所属する村社会での格付けや秩序とも密接な関係があった。江戸時代の公儀は村の慣習や独自の秩序はもちろん、苗字の私的場面での使用には原則介入しない。ただ奉行所などの役所で庶民が自ら苗字を公称することを、公儀や領主の許可を要する特別な格式として設定していた。ゆえに「苗字御免」と呼ばれる苗字公称許可が、個別な価値を有していたのであった。「上下の区別」を重視する近世社会において、苗字公称は社会的地位を判別する身分標識として必要な役割を果たしていた。ところが苗字自由令は、その特別な価値を、地方行政の現場に対して一切の説明なしに、突如撤回したのである。」(259)
近世では、庶民は苗字なんかいらなかった。また名前もしばしば変えていた。幼名があったり、成人したら名前を変え、さらに商売を継いだときに世襲の名前にしたり。そして苗字は名のっていなかった。明治になって、新政府は庶民に苗字を自由に名のってよいとしたが、近世のまま、庶民は苗字なんかつかわなかった。必要なかったからだ。しかしそれでは不都合がでてきた。徴兵のためであった。
1873年徴兵令が施行された。苗字がないと個人を特定することが難しいことがわかったからだ。
1875年2月、「苗字強制令」が出された。これにより日本人は、苗字と名をセットで名乗るようになった。
「「国家」にとっての「氏名」とは、「国民」管理のための道具でしかないのである。」(264)
尾脇氏が、様々な史料を駆使して、近世からの名乗り方、公家の場合、武士の場合、庶民の場合を説明し、最終的に管理のために「氏名」を強制するまでの道のりを丁寧に解き明かしてくれた。
国民管理としての氏名の強制という結論は、きわめて重い指摘である。
※また本を買ってしまった!