浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】山秋真『原発をつくらせない人びと』(岩波新書)

2013-01-06 19:36:04 | 日記
 12月に出版された岩波新書は3冊購入した。ボクが若い頃、岩波新書は毎月3冊刊行されていた。今は4冊。それだけ岩波新書に書かなければならないことが増えたのかもしれないし、あるいは出版不況の中、岩波新書は個人だけではなく、全国の学校図書館も含めて購入するから経営上の観点からかもしれない。ボクにはどちらでもいいが、良い本を低価格で発行し続けて欲しいと思う。

 この本は、現在という時点において、刊行されるべくして刊行された。最近ボクは、原発をつくらせなかった地域の闘いの本をよく読むようになった。このブログでも、そうした本を紹介したことがある。

 この本を読みながら思うことは、「安全な」(今や安全神話は砕け散ったが)原発は、もっとも電力需要の多い大都市の中心に建設されるべきだということだ。

 原発は、人口の少ない海岸部に計画される。安全ではないからだ。安全ではない迷惑施設を建設するために、電力会社も国も、そこの地域に住む住民たちに札束を見せ、建設にサンセイさせ、実際に札束で頬を撫でる。

 多くのフツーの人は、その札束に目がくらみ、サンセイと叫び始める。この世の中はカネだよ、と思っている人は多いのだ。もちろんカネがなければ生きてはいけないのだが、そのような生計に必要な一定のカネがあればそれ以上はいらない、それよりも自然とか、伝統とか、道義とか、正義とか、あるいは真理とか、そういうものにより大きな価値をみる人もいる。だがそれは少数派なのだ、いつも。

 ボクがこの本を読んで驚いたのは、上関の四代正八幡宮の宮司(林春彦さん)が鎮守の森である八幡山(原子炉の建設予定地)の売却を拒否したら、神社本庁(全国の神社のいわば「総本山」。日本国憲法以前は神社は国営で、戦争政策推進に大いに活躍していたのだが、新憲法の政教分離の原則から国家とは基本的に手を切ったのだが、今でも国家と手を携えている事例がたくさんある)が介入してきて、林宮司を解任して別の宮司を派遣してきて売却させたということだ。神社本庁は、それぞれの神社が持つ鎮守の森の破壊に賛成するような団体であったのか。彼らの神道も底の浅いものだということがよくわかった。

 祝島の住民たちの粘り強い闘いが本書には詳しく書かれているのだが、だからといって祝島のすべての住民が原発に反対なのではない。サンセイ派の住民もいるから、そこには激しい対立が起きる。漁民同士、同じ地区の住民同士、親戚同士のなかにくさびを打ち込まれるのだ。

 都市への電力を供給するために「過疎地」あるいはそれに近いところに原発を計画し、そこに住む人びとに札束を見せて、それがなかったらあるはずもなかった対立をつくりだす。ボクはそれだけでも、つまり倫理的にも原発は建設されるべきではないと思うのだ。

 フクシマの原発事故は祝島の人びとに一時の休憩を与えている。だが、国民は自民党・公明党の原発推進勢力を政権の座に据えてしまった。おそらく自公政権は、中国電力による上関原発の新設にゴーサインを出していくのだろう。

 闘いは終わらない。残念ながら、日本の国民は、総選挙で示されたように、投票率も低く、小選挙区制という民意を反映しない選挙制度の問題もあったが、それぞれの選挙区では自民党に多く投票したのだ。日本国民は、原発の事故があっても、そのなかで多くの人々の生活が破壊されても、放射能による汚染が人びとの健康を冒しても、そんなことなんかなかったかのような投票行動を行うのであって、そういう人の方が圧倒的に多いのだ。それが日本の現実だ。

 だからボクはこの本を読んでいて、祝島の反対派住民を神々しくさえ見えてしまった。この粘り強い闘いを担ってきたこの人たちにこそ正義はあるのであって、その正義は正義であるが故にどうしても実現されなければならないのだ。それが倫理的要請なのだ。

 なお202頁に誤植がある。人の文章はなぜか気付いてしまうのだ。町田の住民の悪い癖が移ってきたようなのだ。
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