今月号の『UP』(東京大学出版会)の編集後記にあたるところを読むと、書籍の販売数がたいへん不振であったことが記されている。雑誌すらも、1993年度のピークから2012年は半減と記されている。ボクが現在購読している雑誌は、『現代思想』、『世界』、『歴史評論』、『芸術新潮』、『DAYS JAPAN』の月刊誌、『POSSE』、『けーし風』の旬刊誌である。まあマイナーな雑誌ばかりである。しかし店頭に行けば、莫大な良の雑誌がある。それでも雑誌の売れ行きすら危ぶまれるというのか。
とにかく活字からの離脱が進んでいるようだ。ボクも図書館をよく利用するが、そこにきているのは男性の老人、ただしその人たちは本を読むでもなく、新聞を広げたりして時間を潰すためにきているようなのだ。そのほか女性は多い。女性は小説コーナーに行く人が多い。しかし人文科学や社会科学、自然科学のところにはあまり人はいない。
公共交通機関に乗っても、昔は本を読んでいる人が多かったが、今では多くの人はケータイなどを見ている。あるいはゲームにうち興じている。
「格差社会」ということばがあるが、これは決して経済的なことばかりをさすのではない。それは読書という点でも、「格差」がひろがっているということだ。
経済的な面で言えば、日本は厚い中間層の存在があり、まさに「一億総中流」などということがいわれた。しかし新自由主義経済(自公政権が推進していた政策である。これがまた大規模に展開されるのであろうが)の社会全体への浸透により、中間層の一部は富裕化し、同時に多くの中間層から下層に剥落していく人々が増えた。「ホームレス」の生活がしばしば報道されているが、その生活歴をみると新自由主義政策以前なら「ホームレス」にならないような人が多いようだ。
下層へと剥落していくかもしれない中間層は、なぜか富裕者を攻撃するのではなく、中間層の中の相対的に安定している公務員への攻撃を展開している。公務員の給料を下げることを求め、下げられると快哉を叫ぶ。しかし歴史を見ると、公務員の給料はいわば社会の給与水準の平均値なのであって、それが下げられるということは自分たちの給与もさらに下げられていくということになる。ボクから見ると、同じ階層の人々が足を引っ張り合っていて、上からは富裕層がゆったりと眺めているという構図が目に浮かぶ。これは社会科学的知の欠如がなせるわざではないかと思われるのだ。
ここに知の「格差」という問題が生じる。
1960年代、70年代は、本を読む姿があちらこちらでみられた。書籍の販売数も多く、その価格も法外に高価なものではなかった。需要があるから、そんなに高い価格を設定しなくてもよかったのである。ところが、「中間層」が下層へと剥落していくように、読書する人々もどんどん少なくなる、とくに若者の読書離れが進んだ。学校で「朝読書」を展開するのも、その対策の一つであった。読書しない人々が増える、他方で少数だけが読書に励む。知へのアクセスを図る少数の人と、知へのアクセスを放棄する多くの人々という状況が、これも新自由主義的な政策展開の中で、生み出されていった。いや新自由主義的な政策展開の前から、支配層はそれを推進していた。たとえば学校における部活動の必修化は、その現れの一つだ。今は、部活動の必修ははずされたが、必修時代の部活動の長時間化は決して衰えてはいない。本など読む時間はないのだ。
今書籍が売れないから、書籍の価格は高くなっている。一昨日届いた『岩波映画の一億フレーム』(東京大学出版会)は、7400円である。これも清水の舞台から飛び降りる気持ちで購入したものだ。しかしボクが読む学術書は、多くが高額である。以前ならそれでも仕方なく購入していたが、今では収入がきわめて少なくなったために、図書館で借りることが多くなった。
知へのアクセスから遠のく人が増えたので、本は売れない。高価になり、もっと売れなくなる。
ボクは、大学の数が増えていくにつれて、本が売れなくなるということがおかしいと思う。学生は本を読むべきだ。あるいはできるだけ購入すべきだ。
ボクは学生時代は食を切り詰めて本を買った。社会にでると経済的に余裕が出るのでどんどん買った。しかし読む時間が少なくなった。いずれにしても、本を読もうという姿勢は、いつでも堅持している。
多くの人が知へのアクセスを企図しない限り、社会はよくはならない。
日本の近代史を振り返ると、社会が大きく変動しようとするとき、人は知にアクセスしようとする。自由民権運動期、大正デモクラシーの時期、そして戦後変革期、さらに1960年、70年の民主運動が盛んになった時、人々は知を渇望した。知への渇望が、未来を創っていくのだ。若者よ、書を求めよ、さらば社会はかわっていくだろう。
とにかく活字からの離脱が進んでいるようだ。ボクも図書館をよく利用するが、そこにきているのは男性の老人、ただしその人たちは本を読むでもなく、新聞を広げたりして時間を潰すためにきているようなのだ。そのほか女性は多い。女性は小説コーナーに行く人が多い。しかし人文科学や社会科学、自然科学のところにはあまり人はいない。
公共交通機関に乗っても、昔は本を読んでいる人が多かったが、今では多くの人はケータイなどを見ている。あるいはゲームにうち興じている。
「格差社会」ということばがあるが、これは決して経済的なことばかりをさすのではない。それは読書という点でも、「格差」がひろがっているということだ。
経済的な面で言えば、日本は厚い中間層の存在があり、まさに「一億総中流」などということがいわれた。しかし新自由主義経済(自公政権が推進していた政策である。これがまた大規模に展開されるのであろうが)の社会全体への浸透により、中間層の一部は富裕化し、同時に多くの中間層から下層に剥落していく人々が増えた。「ホームレス」の生活がしばしば報道されているが、その生活歴をみると新自由主義政策以前なら「ホームレス」にならないような人が多いようだ。
下層へと剥落していくかもしれない中間層は、なぜか富裕者を攻撃するのではなく、中間層の中の相対的に安定している公務員への攻撃を展開している。公務員の給料を下げることを求め、下げられると快哉を叫ぶ。しかし歴史を見ると、公務員の給料はいわば社会の給与水準の平均値なのであって、それが下げられるということは自分たちの給与もさらに下げられていくということになる。ボクから見ると、同じ階層の人々が足を引っ張り合っていて、上からは富裕層がゆったりと眺めているという構図が目に浮かぶ。これは社会科学的知の欠如がなせるわざではないかと思われるのだ。
ここに知の「格差」という問題が生じる。
1960年代、70年代は、本を読む姿があちらこちらでみられた。書籍の販売数も多く、その価格も法外に高価なものではなかった。需要があるから、そんなに高い価格を設定しなくてもよかったのである。ところが、「中間層」が下層へと剥落していくように、読書する人々もどんどん少なくなる、とくに若者の読書離れが進んだ。学校で「朝読書」を展開するのも、その対策の一つであった。読書しない人々が増える、他方で少数だけが読書に励む。知へのアクセスを図る少数の人と、知へのアクセスを放棄する多くの人々という状況が、これも新自由主義的な政策展開の中で、生み出されていった。いや新自由主義的な政策展開の前から、支配層はそれを推進していた。たとえば学校における部活動の必修化は、その現れの一つだ。今は、部活動の必修ははずされたが、必修時代の部活動の長時間化は決して衰えてはいない。本など読む時間はないのだ。
今書籍が売れないから、書籍の価格は高くなっている。一昨日届いた『岩波映画の一億フレーム』(東京大学出版会)は、7400円である。これも清水の舞台から飛び降りる気持ちで購入したものだ。しかしボクが読む学術書は、多くが高額である。以前ならそれでも仕方なく購入していたが、今では収入がきわめて少なくなったために、図書館で借りることが多くなった。
知へのアクセスから遠のく人が増えたので、本は売れない。高価になり、もっと売れなくなる。
ボクは、大学の数が増えていくにつれて、本が売れなくなるということがおかしいと思う。学生は本を読むべきだ。あるいはできるだけ購入すべきだ。
ボクは学生時代は食を切り詰めて本を買った。社会にでると経済的に余裕が出るのでどんどん買った。しかし読む時間が少なくなった。いずれにしても、本を読もうという姿勢は、いつでも堅持している。
多くの人が知へのアクセスを企図しない限り、社会はよくはならない。
日本の近代史を振り返ると、社会が大きく変動しようとするとき、人は知にアクセスしようとする。自由民権運動期、大正デモクラシーの時期、そして戦後変革期、さらに1960年、70年の民主運動が盛んになった時、人々は知を渇望した。知への渇望が、未来を創っていくのだ。若者よ、書を求めよ、さらば社会はかわっていくだろう。