学問研究というのは、あるテーマで研究されてきた蓄積の上に、新たに多少の知見を加えるというものが多い。テーマに関する研究をひたすらみずからのものにして、その研究史の上に自らの知見を加えるだけである。それゆえ、他人の研究が前提として存在し、その上にみずからの研究があるわけだから、どうしても他人の研究に依拠する部分が多くなる。その場合、誰がどういう研究したのか、依拠する文献や資料を丁寧に紹介していかなければならない。引用する場合は、それが誰の何という著書・論文なのかなど、論文を書く場合の作法というものがある。その作法を守っていれば、盗作問題は起こらない。
しかしなかには、他人が書いたものを、あたかも自分が研究したかのようにしてしまう研究者がいる。そういうひとは、実はあんがい多い。マイナーな内容だったら、それに気付くひとが多くないからだ。
論文の作法で守られていないものの一つに、事実を確定した場合の典拠資料をその都度提示せずに、文末に一括してこういう資料や本を参考にしたと掲示してあるものがある。しかしこれはよくない。それぞれの事実を何によって確定したのかが明らかでないと検証できないからだ。学問研究は、他人によって検証されなければならない。その検証作業をしやすいようにしなければならない。
私は最近は先端的な研究をしてはいないが、以前、あるテーマでいろいろな先行研究を読みこんでいた時、それぞれの事実確定について資料的根拠をまったく記していない論文があった。私はそれを先行研究からはずした。その論文に依拠して何ごとかを主張した場合、その根拠が不明となってしまうからだ。検証ができないのだ。
さて
東洋英和学院の前院長が、みずからの著書で捏造をくり返していたことが判明した。信じられない所業である。
依拠した資料を捏造していた、というのだ。政界、官界で行われている捏造が、学界にも飛び火したのである。
しかしこの所業、私にはまったく理解できない。盗作ではなく、みずからの主張を裏付ける資料をかってに捏造する、というあり得ないことをやっていたのだ。そんなことまでなぜしたのか。深井智朗(ともあき)という人物に尋ねてみたい気がする。