『朝日新聞』に「退職願2度認めず→突然の解雇通告 その日に命絶った夫」という記事があった。リードは、「男性(当時46)が自殺したのは職場でのパワハラが原因だったとして、男性の妻らが勤務先の給食センターを運営する「エイエスワイ」(青森市)に損害賠償を求めた訴訟が15日、仙台高裁で和解した。同社は解雇により男性に精神的苦痛を与えたことを認め、妻らに和解金2400万円を支払う。給食を作ることが大好きだった夫はなぜ自殺したのか。悲しみを抱え続けた妻が、胸中を明かした。」である。
「原告らによると、自殺したのは平内町の花田司さん。勤務先のエイエスワイは当時、平内町から委託を受けて町内の学校給食の調理や輸送をしており、町の職員がセンター長を務めていた。花田さんは1999年から勤務し、2012年からは主任を務めていた。
14年、従業員同士で無視し合ったり従業員が花田さんに反抗的な態度をとったりするようになり、花田さんは会社に改善を求めた。しかし、従業員と面談した社員は花田さんが女性従業員と交際しているなどのうわさを聞いたとして、事実関係を確認しないままに花田さんに注意したという。その後、数人の従業員が退社した。
従業員の態度はその後も改善されず、花田さんは食欲が減ったりめまいを訴えたりするようになった。花田さんは2度にわたり退職したいと会社に申し出たが、認められなかったという。ところが15年6月12日、花田さんは会社から「多数の人員異動の原因を作った」として、即時解雇を言い渡された。
その日の夕方、花田さんは自宅で命を絶った。」
ここに悪しき日本社会の特質が見える。
一定の集団に、ある「空気」が醸成されると、集団の構成員はその「空気」に支配される。どんよりとした「空気」が集団を覆う。他に数人の従業員が退社していったというから、花田さんだけがその「空気」を感じていたわけではなさそうだ。花田さんと彼らとの違いは、彼らが退社していったことだ。花田さんは「退社できなかった」。
しかし「退社できなかった」ということは、現代日本社会では法的にはあり得ないはずなのだ。「退職の自由」は権利として存在している。退社を通告するだけで、それは成立する。それができなかった、ということは、そのエイエスワンという会社がいわゆる“ブラック企業”であるということであり、トップが町の職員なら、その町役場も“ブラック”であったということである。
花田さんは仕事が好きであり、また「主任」という立場であった。その点で責任感を強く持っていたのだろう。「退社」できなくとも、行かないようにすればよかったのだが、花田さんはそれができなかった。
職場に醸成された「空気」を誰も破壊しようとしなかった。破壊するべきまず第一の当事者は経営者でなければならない。しかし、経営者はそういうことに無頓着である。日本的風潮、「波風を立てたくない」があるからだ。この場合の経営者は町の職員。役場のひとつのポジションとしてその職はあり、「波風」が立てばその後の彼のポストに傷が付く。だから見て見ぬ振り、改善に手をつけない。
そういう「空気」をまったく顧慮しない従業員が二人くらいいれば、と思う。私は「出る杭は打たれる」に対して、「出過ぎた杭は打たれない」という考え方で生きてきた。もちろんそういう生き方は「出世」とは無縁である。しかしこれほど自由な生き方はない。
以前、東日本大震災で津波に遭って多くの子どもの犠牲が出た石巻市の大川小学校に行ったことがあり、その経緯を調べた時、私がいれば救えたと思った。校長が不在という中で、教員等が校庭でどうしようかと思い悩んでいた、すぐそばに山があるのに、津波が到来する直前に川の方に向かっていくという謝った判断をしたのだ。誰も判断をしないという「空気」。責任をとりたくないからだ。山に逃げようという意見があったがそれは採用されなかった。山に逃げた人だけが助かった。どんどん子どもを山に逃がせばよかったのだ、子どもがケガをしたらごめんなさいすればよい、死ぬよりかずっとマシだ。
ある種の悪しき「空気」を破壊するパワーを持つべきだ。あるいはそこから脱出する「勇気(?)」を。悪しき「空気」の下で、善人ぶることはない。
良き人であった花田さん。責任感が強い善良な性格であったために死に追い込まれた。闘うことができなかった。闘う組合(仲間)があれば違っていたなあ。いまは、闘う組合はほとんどなく、残っているのは「御用組合」だ。こういう時代、個人が強くならなければならない。「出過ぎた杭は打たれない」のである。それもまた日本社会の「空気」である。
「原告らによると、自殺したのは平内町の花田司さん。勤務先のエイエスワイは当時、平内町から委託を受けて町内の学校給食の調理や輸送をしており、町の職員がセンター長を務めていた。花田さんは1999年から勤務し、2012年からは主任を務めていた。
14年、従業員同士で無視し合ったり従業員が花田さんに反抗的な態度をとったりするようになり、花田さんは会社に改善を求めた。しかし、従業員と面談した社員は花田さんが女性従業員と交際しているなどのうわさを聞いたとして、事実関係を確認しないままに花田さんに注意したという。その後、数人の従業員が退社した。
従業員の態度はその後も改善されず、花田さんは食欲が減ったりめまいを訴えたりするようになった。花田さんは2度にわたり退職したいと会社に申し出たが、認められなかったという。ところが15年6月12日、花田さんは会社から「多数の人員異動の原因を作った」として、即時解雇を言い渡された。
その日の夕方、花田さんは自宅で命を絶った。」
ここに悪しき日本社会の特質が見える。
一定の集団に、ある「空気」が醸成されると、集団の構成員はその「空気」に支配される。どんよりとした「空気」が集団を覆う。他に数人の従業員が退社していったというから、花田さんだけがその「空気」を感じていたわけではなさそうだ。花田さんと彼らとの違いは、彼らが退社していったことだ。花田さんは「退社できなかった」。
しかし「退社できなかった」ということは、現代日本社会では法的にはあり得ないはずなのだ。「退職の自由」は権利として存在している。退社を通告するだけで、それは成立する。それができなかった、ということは、そのエイエスワンという会社がいわゆる“ブラック企業”であるということであり、トップが町の職員なら、その町役場も“ブラック”であったということである。
花田さんは仕事が好きであり、また「主任」という立場であった。その点で責任感を強く持っていたのだろう。「退社」できなくとも、行かないようにすればよかったのだが、花田さんはそれができなかった。
職場に醸成された「空気」を誰も破壊しようとしなかった。破壊するべきまず第一の当事者は経営者でなければならない。しかし、経営者はそういうことに無頓着である。日本的風潮、「波風を立てたくない」があるからだ。この場合の経営者は町の職員。役場のひとつのポジションとしてその職はあり、「波風」が立てばその後の彼のポストに傷が付く。だから見て見ぬ振り、改善に手をつけない。
そういう「空気」をまったく顧慮しない従業員が二人くらいいれば、と思う。私は「出る杭は打たれる」に対して、「出過ぎた杭は打たれない」という考え方で生きてきた。もちろんそういう生き方は「出世」とは無縁である。しかしこれほど自由な生き方はない。
以前、東日本大震災で津波に遭って多くの子どもの犠牲が出た石巻市の大川小学校に行ったことがあり、その経緯を調べた時、私がいれば救えたと思った。校長が不在という中で、教員等が校庭でどうしようかと思い悩んでいた、すぐそばに山があるのに、津波が到来する直前に川の方に向かっていくという謝った判断をしたのだ。誰も判断をしないという「空気」。責任をとりたくないからだ。山に逃げようという意見があったがそれは採用されなかった。山に逃げた人だけが助かった。どんどん子どもを山に逃がせばよかったのだ、子どもがケガをしたらごめんなさいすればよい、死ぬよりかずっとマシだ。
ある種の悪しき「空気」を破壊するパワーを持つべきだ。あるいはそこから脱出する「勇気(?)」を。悪しき「空気」の下で、善人ぶることはない。
良き人であった花田さん。責任感が強い善良な性格であったために死に追い込まれた。闘うことができなかった。闘う組合(仲間)があれば違っていたなあ。いまは、闘う組合はほとんどなく、残っているのは「御用組合」だ。こういう時代、個人が強くならなければならない。「出過ぎた杭は打たれない」のである。それもまた日本社会の「空気」である。