今日の『東京新聞』の「こちら特報部」は、東洋英和学院の院長であった深井智朗氏が自身の著作に引用した文献を捏造したこと、それが明らかとなって、深井氏が懲戒免職になったことを取りあげている。▲大学の教授、さらに同大学のトップとなるような研究者が、なぜこのような不正を働いたのか理解に苦しむ。同氏の研究テーマはドイツ宗教思想史。おそらく日本にその研究をしている人は少ないだろう。だから同氏は、見つかることはないと高をくくっていたのだろうが、しかし悪事はバレるのである。深井氏のその著作を出版していた岩波書店は、同書を絶版にした。▲この記事では、学術書などレベルの高い書物を刊行している岩波書店がなぜそれを見抜けなかったのかという問題提起をしているが、それは無理だろう。編集者は編集者であって研究者ではないから、引用したり参考にした文献をきちんと確認するというところまではやれないだろう。とりわけ、深井氏が引用(参考に)したのはドイツ語の文献である。編集者がドイツ語の文献まで調べるのは無理だろう。▲岩波書店にとっても、学者が引用(参考)文献を捏造するなんてことは想像すらしていなかったはずだ。学問研究者は、研究の手法をきちんと守って執筆しているはずだと、岩波書店側は思っていたことだろう。▲しかしその思いは時代遅れかもしれない。というのも、岩波書店の一部の編集者は、そうした厳密さを著者に求めなくなっている。というのも、もう一つ問題を抱えた書物を岩波書店が刊行しているからだ。その本は、栗原 康著『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』である。「伊藤野枝伝」とあるからには、当然伊藤野枝という人物について客観的に捉えたものだと思うかも知れないが、とんでもない、著者の思い込みを野枝に仮託して主張しているという代物なのである。そして事実を脚色して叙述するという「芸当」もしている。▲この本は一時話題になった。しかし事実を脚色して、みずからの思いを野枝に仮託して野枝像を語るというのはいかがなものであろうか。岩波書店は、すでに危険な道を歩み始めているのではないだろうか。
日本維新の会公認で参議院議員の立候補予定者である元フジテレビアナウンサー長谷川豊が、講演会で被差別をめぐって堂々の差別発言をした。▲「日本には江戸時代にあまり良くない歴史がありました。士農工商の下にエタ・ヒニン、人間以下の存在がいると。でも人間以下と設定された人たちも性欲などがあります。当然、乱暴などもはたらきます。一族、夜盗郎党となって十何人で取り囲んで暴行しようとした時に、侍は大切な妻と子供を守るだけのためにどうしたのか。侍はもう刀を抜くしかなかった。でも刀を抜いた時に。どうせ死ぬんです。相手はプロなんだから、犯罪の。もうブン回すしかないんですよ。ブンブンブンブン刀ブン回して時間稼ぎするしかないんです。どうせ死ぬんだから。「もう自分はどうせ死んだとしても1秒でも長く時間を稼ぐから、大切な君だけはどうか生き残ってほしい。僕の命は君のものだから、僕の大切な君はかすり傷ひとつ付けない」といって振り回した時に一切のかすり傷がつかないのが二尺六寸の刀が届かない三尺です。「女は三尺下がって歩け」、愛の言葉です。」として、「女は三尺下がって歩け」は、女性差別ではなく、女性を守るためのことばであった、というのである。▲私はこの「女は・・・」は、明確に男尊女卑の日本の封建的な秩序の現れだと認識しているが、しかし例としてあげられたこの状態には、まったく無理がある。武士が妻を同行しているときに集団で襲われたという事例が具体的にあったということを、私はまったく知らないが、近世の封建的な秩序においてそういうことは原則として起こり得ないと考えるからだ。「男女七歳にして席を同じゅうせず」という儒教的な語句があるほどに、男女は、とりわけ武士の世界では別とされた。▲そして武士に対して民衆が襲いかかるということも、戦国時代ならいざ知らず、「平和」となった近世においてはほとんどあり得ず、逆に武士が庶民に襲いかかるということはありえた。幕末の、薩摩藩(西郷隆盛)が主導した相楽総三らによる蛮行にはっきりと示されている。▲そして長谷川の発言の最大の問題は、その武士に襲いかかった例として被差別民を挙げていることだ。ほとんどあり得ない事例に、被差別民を取りあげたということは、長谷川は彼らをそういう存在として認識しているということになる。「性欲がある」ことを前提に、「当然、乱暴などもはたらきます」というつながりは、理解不能であり、長谷川もおそらく「性欲がある」から「当然、乱暴などもはたら」く人物なのだろう。とりたてて被差別民をあげる文脈にはないのに、あえて事例としたことをみると、長谷川は明確な差別意識を持っていること、みずからの発言について配慮しない、粗雑な人物であることを証明している。▲こういう人物が、国会議員になろうとしていること、それを公党が公認していることは、日本社会がものすごく病んでいることを示している。病は早く治さなければならない。しかし日本社会にその力があるのだろうか。