東京オリンピックは中止すべきである。まだまだ新型コロナウイルスのパンデミックがおさまらない。中止は、多くの国民の望みである。
メディアは、国民の心情をうけて、中止を訴えるべきなのだ。「信濃毎日新聞」がまず名乗りをあげた。すばらしい!!
東京オリンピックは中止すべきである。まだまだ新型コロナウイルスのパンデミックがおさまらない。中止は、多くの国民の望みである。
メディアは、国民の心情をうけて、中止を訴えるべきなのだ。「信濃毎日新聞」がまず名乗りをあげた。すばらしい!!
柳の作品をはじめて読んだ。今までこの作家を知らなかったことを、私は恥じる。
「アンブレイカブル」とは、unbreakable 。Oxford Dictionary では、impossible to break となっている。「壊れない」という意味だ。しかし柳は、それを「敗れざる者」という意味で使っている。
本書は、4つに分かれている。「雲雀」、「叛徒」、「虐殺」、「矜持」であり、それぞれ「戦前」という治安維持法体制下に「逃れられぬ死に向かって歩み去った」「敗れざる者」が描かれる。「雲雀」では、小林多喜二、「叛徒」では反戦川柳をうたった鶴彬、「虐殺」では横浜事件に巻き込まれた中央公論社の和田喜太郎ら、「矜持」では哲学者三木清。いずれも治安維持法で殺された人々である。
もちろん実在の人物が描かれているといっても、いずれもフィクションである。柳の想像力がつくりだしたものだ。話の展開は意表を突く。しかしフィクションとはいえ、治安維持法とその担い手であった内務省官僚と特高警察らが生み出した実在の世界が描かれている。
それぞれの実在の人物をつなげるのが、クロサキという内務官僚である。クロサキは、治安維持法体制を体現する人物として描かれ、彼らを治安維持法という網にかけようと画策する。とにかく網にかけて逮捕し、拘留し、そして・・・・・、その後はどうでもよい、ただ網に入れればよいのだ。
最後まで、緊張感を持たされたまま、読み進む。昨夜読みはじめて今日読み終えた。手放せないのである。著者は「矜持」で、退歩された三木清にこう云わせる。
歴史や政治を分析し、的確な批判を加えるのは後世を生きる者の自由だ。歴史家にとってそれは權利でもあり、義務でもある。だが、同時代を生きる者には別の自由がある。あるいは権利と言い換えても良い。歴史的主体として歴史に参加する自由であり権利だ。権利や自由には、当然、責任が付随する。技術や能力不足のために予期した結果が得られなかった場合、後世の者たちからその責任を追及される覚悟が必要になる。
例えばいま、国家が間違った方向に進み、多くの犠牲を出しているのが明らかなら、最良の選択肢は今すぐ国家を停止させることだ。但し、巨大システムの即時停止は反動が大きく、付随して何が起きるか予見不可能だ。より大きな犠牲を生じる可能性もある。次善の策は、進む方向を少しでもましなように舵を切らせることだ。無論それは、君たち官僚のように国家をただ効率よく動かすことに比べれば遙かに大きな労力を要する。無駄な努力に終わるかもしれない。政治は結果責任の世界だ。どんな理想を掲げ、何をしようとも、結果によっては“抵抗”が“無批判の協力”と見做されることもあるだろう。
しかし、それでもなお、私は己が持つ力の全てを注いで歴史に参画する自由を、権利を、行使したい。参加した結果が後世“歴史”と呼ばれるのだとすれば、自分が生きているこの唯一の時間、唯一の歴史を、他人任せにしないで能う限りの力を尽くす。その上で、結果は後世の判断に任せる。それが、いまを生きていると胸を張って言える唯一のあり方ではないだろうか。それが、私にとっての唯一の矜持なのだ。(下線部分は、原文では傍点)
「虐殺」のなかに、こういう文があった。「知識を持つ者の目には未来が見える。同時に、それがいかに絶望的な未来だとしても、どうすることもできない。」「・・・正しい言葉が受け入れられるわけではない、未来をどうすることもできないことがわかっていながら、それでもなお知らずにはいられない者たちがいる」(160)
この小説は、「現在」に対する強い関心、問題意識をもって書かれている。
三木清の「幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である」ということばが、巻頭に掲げられていた。
教育委員会には、将来「出世」させたい教員が集まっている。その教員たちは、いっさいの良心を持つことなく、上意下達を素直に受け入れ、その後のみずからの栄達ばかりを願っているのではないか。
信じられない暴挙である。
樋口英明氏は、もと福井地裁裁判長で、関西電力大飯原発の運転差し止めの判決を、高浜原発の再稼働差し止めの仮処分決定を下した人である。
なぜそうした判決を下したかを、平易に説明したのが本書である。別に原発について専門的な議論を行ったわけではない。理性と良識があれば、当然こうした判決が下されるはずだということが書かれている。
その最大の理由は何か。一般住宅の耐震基準より、原発の方がはるかに低い基準で建設されていることに、樋口氏は、おそらく呆れかえったのではないだろうか。
低い耐震基準を超えるような地震は来ない、などというまったく科学的見地に立脚もしない、理性や常識を無視した関西電力側の主張に唖然として、原発を止める判決を書くのは当たり前のことであると、本書でも記している。
その主張はまったく難しくなく、フツーに考えればその通りとしかいいようがない論理で、原発についての問題点を指摘している。
第1 原発事故のもたらす被害は極めて甚大である。その被害はわが国の存続に関わるほどである。
第2 それ故に原発には極めて高度の安全性が求められる。
第3 地震大国日本において安全三原則が強く求められる原発に極めて高度な安全性があるということは、原発に極めて高度の耐震性があるということに他ならない。
第4 わが国の原発の耐震性は極めて低く、一般住宅よりも劣っているため、平凡な地震によってさえも危険が生じる。
第5 よって、原発の運転は許されない。その耐震性の低さを正当化できる学問的根拠はなく、原発の運転を続ける社会的正当性もない。
原発反対に難しい議論はいらない。地震大国日本で、かくも低い耐震基準で建設された原発は、決して安全ではない、ということだ。
インフルエンザに感染したこともあるし、風疹になったこともある。どちらもとても、とても苦しかった記憶がある。熱が39度は、新型コロナウイルスでは「軽症」と判断されるが、39度の発熱というのはとても苦しくたいへんなことだ。経験があるからこそ、私は新型コロナウイルスに感染したくない。
できる限り人々が集まるところには行かない。外食も殆どしない。油断しない。食糧などを購入したときには、車に乗るときにアルコール消毒。帰宅したらもう一度アルコール消毒して、石鹸で手洗い。
事実を隠蔽する官僚たち。
自民党・公明党政権の無為無策・GO TOの愚策を棚上げにしてこう云うかよ。
ホントは、デジタルだけではない、後進国日本は。でも凄い国だ。
欠陥を指摘してあげたのに、安倍兄弟がお怒りのようで。
何と、予約システムは、645年にも対応しているという。すごいシステムだ。
ワクチンの絶対量が少ないので、各地では大混乱。私の友人が住む静岡県南伊豆町、343回目でやっと電話がつながったという。
どこでもワクチン接種で大混乱のようだ。
東島誠の歴史研究者としての知見を得たいがために図書館で借りて少し読んでみたところ、これは線を引いたりして読まなければならないと思い、古本屋で買った。
本日読み終わったが、東島の、様々な研究書(論文)、史料をもとに主張される前近代に関する知見はとても参考になった。日々、様々な研究が進められ、田舎に住む人間はとてもその研究全てを読むことはできないので、こうした本、つまり様々な研究を整理してくれて、さらに歴史的展開に位置づけてくれる本はありがたい。
しかし近代以降は、与那覇が議論をリードしていく。東島が中世史を専攻しているが故に、近代についてはあまり詳しくはないからだ。だが前近代は、きちんとした史料に基づく研究をしてきた東島とは異なり、おそらく史料をもとにした研究をしてこなかった与那覇は、他人の研究成果を読み込んで自分なりの構想、それもあんがい強固な枠組みを見出し、他者の研究をその枠組みのなかに放り込んでいく。その展開は主観的かつ強引である。読んでいて、歴史研究者ならこうした断定はしないというところが多かった。
たとえば「・・戦後、じつは左翼ほど天皇が好きだった。昭和天皇には戦争責任がある、あいつのせいでこんなひどい戦争になったとしてしゃかりきに論じ続けるのは、好きの裏返しなのです」(294)とか、「(19)68年革命でみんなが吉本(隆明)主義者になった・・・」(309)。
「好き」だから昭和天皇の戦争責任を追究する、のではなく、また1968年の時代を過ごした人々が「みんな」吉本に入れあげているわけではない。歴史研究者はこういう主観的な断定は決してしない。
おそらく与那覇は史料を駆使して歴史研究をしたことがない。他者の研究におんぶして立論する、いわば歴史社会学的な手法での研究者のようだ。その手法は、歴史学的ではない。簡単に時代を行ったり来たりして、このルーツは古代にもありましたとかいうが、歴史に現れた事象には、同じようなことがあろうとも、それはそれぞれの時代のあり方に規定されて出現したものであって、それぞれに検証が必要であり、時代貫通的に認識されるべき者ではない。
したがって、本書は前近代、つまり東島が議論をリードするところまではとても参考になる本だ、というのが結論である。