医療関係者をさらに厳しい状態に追いやらないように、とにかく感染しないようにしたい。
今もってPCR検査に消極的、いや邪魔をしている日本政府。推進しているのは、新型コロナウイルスのためにつくらせた抗原検査キット。これが余っていて、とにかく使わせようと躍起になっている。厚労省も「感染症ムラ」の尾身らも、である。
利権につながる抗原検査キット。、利権につながらないPCR検査。
「抗原検査キット活用 クラスターの発生防ぐ」西村経済再生相
英紙Guardianの記事、Tokyo ramps up for Olympics but winners will be scarce if Games go ahead
「東京はオリンピックに向けて準備を進めているが、大会が開催されても勝者はほとんどいないだろう。」が表題であるが、記事中の「不気味なほど静かな競技場で、世界最高のアスリートたちが、文字通りテレビのためのスペクタクルを競い合うのだ。」という文に注目した。もし大会が実施されれば、まさに大金を拠出したテレビ局のためのオリンピックになるというわけだ。カネまみれのオリンピック、しかしスポーツ界ははじめからカネまみれだ。
東京オリンピックは開催されるかどうか、東京都には中止乃至は延期の決定をするという動きがあるという。こんな COVID-19の蔓延のなか、開催されるべきではない。
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2021年の東京オリンピックは、「止められない力と変更できないものが出会った時どうなるか」という古くからの疑問に対する答えを提供してくれるかもしれない。コビド19の大流行が世界的に続く中、IOCは大会開催の信念を堅持し、世界は7月23日の開会式、そこでどんな衝撃が起きるかを見ようと待ちうけている。
オリンピックが不動の地位を築いている理由はただ一つ、お金だ。IOCの収入の4分の3は、4年ごとに開催される夏季と冬季の2つの大会のテレビ放映権だけである。IOCにとっては、数十億円の予算がブラックホールに吸い込まれる脅威に耐えられないのである。 COVID-19は呪われている。
一方、日本と東京の政府にとっては、200億豪ドル(約2兆円)の公式支出があるため、中止は受け入れがたいものとなっている(実際にはその倍の金額が必要とされている)。来年初めには北京で冬季大会が開催され、その後バーミンガムで英国での大会が開催され、2024年、2028年、2032年のオリンピック開催地が決まっているため、これ以上の延期は現実的ではない。
パンデミックとのチキンゲームは、日本国民の間で不評を買っているにもかかわらず、続いている。AP通信の最近の見出しがすべてを物語っている。「東京大会には500人の看護師が必要だが、看護師たちはニーズは他にあると言っている」というものだ。東京での COVID-19感染者の7日間の平均は、1日あたり約1000人で推移している。しかし、3ヶ月足らずの間に、東京は1万1千人のアスリートを迎え、おそらくその倍の数のスタッフ、コーチ、審判員、ジャーナリストを迎えることになる。その上、ほぼ必然的に COVID-19も迎え入れることに。
IOCと日本政府は、膨大な量の書類が問題を解決してくれることを期待している。先週の土曜日、東京に行く予定のジャーナリストたちは、地元の組織委員会から送られてきた51ページの「プレイブック」を受け取った。そこには、それぞれのジャーナリストが従うべき規則や制限が徹底的に詳しく書かれている。報道機関は「Covid-19連絡事務者」を任命することが求められ、すべてのジャーナリストは毎日の「活動計画」を立て、プレイブックを遵守する責任を負う誓約書に署名しなければならない。誓約書がなければ、日本への入国はできないのである。
しかし、日本国民の不安を払拭するために、制限はさらに強化されている。オリンピック代表団は、出発前に2回(旧版では1回のみ)、到着後に再度、ウイルス検査を受けなければならない。また、メディアは最初の3日間は隔離されることになっているが、これも新たな要件である。東京観光はたぶんできない。
選手にとっては、さらに厳しい制限が課せられる。最終的な COVID-19対策が確定するのはしばらく先だが、これまでに発表されたルールでは、毎日の検査、チームメイトの応援の禁止、他国の競技者との接触禁止などが挙げられている。また、オーストラリアのオリンピック参加者は、その "バブル "を助けるために、選手用の食堂を避け、代わりに自宅で調理されたパッケージ食品を提供されることになっている。このように、オーストラリアオリンピック委員会は、自国の選手をより優位にするために、独自の超高速コビット検査機を日本に持ち込もうとしている。
海外からの観戦はすでに禁止されており、現地の組織委員会は地元の人々がスタンドを埋めることを許可するかどうかをいまだ決定していない。日本のメディアは、空席のまま大会が開催される可能性を報じているが、これは発表に向けた下準備のための意図的な広報戦略のようにも思えてならない。そして、不気味なほど静かな競技場で、世界最高のアスリートたちが、文字通りテレビのためのスペクタクルを競い合うのだ。
最終的にどのような結果になったとしても、真の勝者はほとんどいないだろう。この瞬間のために5年間かけて準備してきたアスリートたちが、選手村で確認された COVID-19患者と身近に接したことで、メダル獲得の望みが絶たれてしまうかもしれない。誤った理由のために、永遠に記憶に残る大会に何十億もの資金を投入した日本政府。IOCは、もし大会が感染を拡散するイベントになってしまったら、当然批判されるだろうし、どのような状況でも賞賛されることはないだろう。
学生時代だったと思うが、久野収と林の対談『思想のドラマツルギー』(確か平凡社)を読んで、その知的レベルの高さ(知的レベルが高さは倫理性に比例すると思った)に驚いた記憶がある。この本は今も保存してあるはずだ。
林達夫についてその知性を強調していたのは、林史郎くんであった。大学の後輩だが、彼は私の卒業後に自死を選んだ。彼は秩父出身、友人たちと年忌に行った。墓地は大きな木の影に隠れていた。寂しいところであった。
林史郎くんは、私に福永武彦と林達夫を教えてくれた。今も感謝している。折に触れて、この二人の本を読む。その度に林史郎くんを思い出す。
さてそれから数十年が経った。林達夫の「歴史の暮方」の出だしはこうだ。
絶望の唄を歌うのはまだ早い、と人は言うかもしれない。しかし、私はもう3年も5年も前から何の明るい前途の曙光さえ認めることができないでいる。誰のために仕事をしているのか、何に希望をつなぐべきなのか、それがさっぱりわからなくなってしまっているのだ。
私もまた、新型コロナウイルスの蔓延のなか、あまりの政治社会の不甲斐なさに絶望感を覚え、それが強まっている。果たしてわが国に希望はありうるのかとさえ思ってしまう。
生きる目標を見失うということ、見失わされるということーこれは少なくとも感じやすい人々にとっては大変な問題である。我々は何のために生きているのか、生き甲斐ある世の中とはどんなものかーそんな問いを否応なしに突きつけられた人間は、しばらくは途方に暮れて一種の眩暈のうちによろめくものだ。「よろしくやってゆける」人間は仕合わせなるかなだ。だが、そんな人間の余りにも多すぎるというそのことが、私にとってはまた何とも言えぬ苦渋を嘗めさせられる思いがして堪らなくなるのだ。
「我々は何のために生きているのか、生き甲斐ある世の中とはどんなものか」を、思春期に考えはじめた人間は、時々この問いに苦しむ、苦しまされるのだ。齢を重ねてもその問いが頭をもたげる。林も、おそらく思春期にそういう問いを持ったのだろう。時に「よろしくやってゆける」人間を傍から見ることがあり、その存在そのものが苦渋であることを知る。
すべきことは明確であるにもかかわらず、何もせずに多くの人々を見殺しにする政治家や官僚に、怒りを通り越して呆れるしかないという状況である。
林達夫の「反語的精神」に、「権力なき知性と団結なき闘志」ということばがあった。権力を持たない知性はただ哀しむだけなのかもしれない。そしてかすかに燃える闘志は、孤独のなかにある。
林の言葉は、みずからの思考を飛翔させる。
新型インフルエンザウィルスが問題になったときの厚労大臣。この時には、厚労省の医系技官たちの無策・愚策に反論して頑張った人。新型コロナウイルス対策での、この人の主張は信用できる。
【舛添直言】検査徹底を怠ったツケ、宣言延長で高まる五輪中止論
私は、新聞社はじめ、メディアがなぜオリンピックは中止すべきだと主張しないのかと思う。他国のメディアは中止するべきだという記事を載せているのに、日本のメディアはまったく腰が引けている。
だから日本のメディアへの信頼があくなるのだ。