裁判所の判決は、現政権の行っていることを追認するものがほとんどだ。1970年代の石田コートによる司法の反動化以降、裁判所は自民党政権の政治を追認する判決を積みあげてきた。なかには少数ではあるが、そうでないものもあるが、1%もないと思う。
裁判官も上を見る、つまり出世を期待する者が増えてきたということだ。出世が望めないとさっさと公証人となり、年収2000~3000万円を得て優雅な生活を送るようになる。
さてこの記事は、まさに裁判官の劣化を象徴する。
裁判所の判決は、現政権の行っていることを追認するものがほとんどだ。1970年代の石田コートによる司法の反動化以降、裁判所は自民党政権の政治を追認する判決を積みあげてきた。なかには少数ではあるが、そうでないものもあるが、1%もないと思う。
裁判官も上を見る、つまり出世を期待する者が増えてきたということだ。出世が望めないとさっさと公証人となり、年収2000~3000万円を得て優雅な生活を送るようになる。
さてこの記事は、まさに裁判官の劣化を象徴する。
私はずっと前から内閣府統計局が配信している統計情報を送ってもらっていた。しかし、統計の不正操作が明らかになった段階で、その送信を停止した。信頼できない統計を受けてもムダだと考えたからだ。
政府が行う統計は正確であることが求められている。当たり前のことだ。その統計は、世界各国やOECDなどの国際機関などが国際比較したりする場合に利用される。
したがって、統計が不正操作されていることが判明した場合、国際的な信用を失うということでもある。アベ政権以降、こうしたことが何度も繰り返されてきた。統計不正はとても恥ずかしいことなのだ。しかしそれがしれっと行われてきたことは、日本の政府、官僚の劣化を象徴する。
政府はみずからの失政を隠すため、官僚は自分自身の出世など個人的栄達のために政府に良い顔をし、政府の悪事の隠蔽に手を貸す。
そこには「公」がない。「公務員」なのに「公」の意識が欠けているのだ。
しかし日本の選挙民は、「公」の意識を持たない政治家や官僚の悪事を見逃し、許している。日本の選挙民にも、「公」の意識が欠如しているのである。
私は政府や官僚、そして日本の選挙民に対しても、不信感を抱いている。
赤木雅子さんは、「真実が知りたい」として提訴した。しかし政府は、請求を認めて「真実」を闇に葬ることにした。醜い!!何という醜悪な政府であることか。
私たちが何かを買うと10%の消費税を払う。その税が積もり積もって、アメリカの軍需産業にわたる。これも自民党・公明党政権では当たり前のこと。
下記にあげた雑誌記事。
国民から税金で集めたカネを、業界とかお友だちとか、そういう人びとを中心にまき続けているのだから、これは当然のこと。自民党・公明党政権のもとでは、ふつうのことで、疑問は起きない。
生活に困っている人びとが生活保護を受けることは批判するが、自分がカネをもらうことについては、いかなる疑問をももたない人たちが自民党や公明党などの議員さんたちなのだから。
そしてそういう人たちを国会へ送っているのが選挙民。
天下泰平だ。
こういう記事を見つけた。
悪政を展開する自民党・公明党政権を支えたい財界や労働貴族の連合などの勢力は、マスメディアとタッグを組んで、立憲民主党のリベラル性を攻撃している。リベラル性を奪って、国民民主党化しようとしているのだ。立憲民主党が国民民主党化すれば、支配権力は安泰である。自民党・公明党政権がどんなに悪政を行っても、どんなにアメリカに隷属しても、どんなに反民主的でも、人権を踏みにじっても反対されることなく、反対勢力を顧慮しなくてもよくなる。
筋を通そうという政治勢力は、共産党、社民党、れいわだけとなるからだ。きわめて少数となる。
支配勢力は、1980年代からそれを少しずつ実現してきた。総評をつぶして反共右派の労働団体・同盟の主導下に労働運動を再編し(つまり使用者の意向に逆らわない労働組合、使用者の下請け機関、労働者の管理統制機関とする)、日本社会党をつぶして、いつも悪政を展開する自民党にとっての目の上のたんこぶを除去した。
そして民主党という自民党・公明党政権とそんなに変わらない政党をつくりあげた。民主党には、小選挙区制のもと、自民党から立候補したいけれどもできない政治家志望者が集まってきた。ホントは自民党から出馬したかったから、きっかけがあれば自民党に鞍替えすることを望む政治家がたくさんいた。
しかし、希望の党事件を契機に、立憲民主党というリベラル勢力が集まって一定の支持を得るようになってしまった。支配勢力は、これが気にくわない。国民民主党のメンバーを立憲民主党に合流させ、立憲民主党内のヘゲモニーを奪おうとした。そして総選挙の結果、国民民主党の泉某が代表に選出された。
リベラル勢力が主導権を握ることのないように、テレビ、新聞などは様々に干渉した。「野党共闘」により自民党、公明党議員が負けないように、立憲民主党の「野党共闘」路線を攻撃した。立憲民主党に集まった政治家のうち、リベラルな考えを確固ともつ政治家は、そんなにいるわけではない。メディアの烈しい攻撃の前に、そして連合会長の攻撃(それをメディアは書きたてた)もあり、彼らは屈していった。
※この新聞記事は、自分たちが報じた内容がどれほど国民のなかに浸透したのかを確認する定期試験のようなものだ。メディア関係者はさぞ満足していることだろう。もちろん支配勢力も、である。
現代日本において、リベラル勢力は、きわめて不利な状態にある。メディアがほぼ完全に支配勢力の補完機関と化しているからだ(となると、それに対抗する手段をもたなければならない)。
現代日本の政治は、サイレントマジョリティに支えられ、新自由主義を信奉する政治家が、国家財政、地方財政(これらは言うまでもなく、国民の納税に依拠している)からカネを引き出し、民間企業・業界、そしてアメリカの軍需産業にそのカネを流して利益を保障し、ついでに自分たちもそのおこぼれにあずかるという、腐りきったものとなっている。そのおこぼれの微々たる一部が、国民にも流れる。
かくて、日本の支配体制は万全となる。
過去の歴史にみられるように、日本の歩みは、一旦一定の方向性が定まると、反対勢力を蹴散らして、破滅へと進んで行く。今、日本はその途上にある。振り返ることはない。ただ進む。「ススメ、ススメ、兵隊ススメ」である。
それが日本という国家、日本国民なのである。悲しいのは、破滅に至っても、それを学ばない。繰り返す。
昨日の『東京新聞』記事。
地方自治体というのに、自治はない。それが現在の都道府県・市町村の実態である。新自由主義的思考は民間企業の経営こそがあるべき姿だということで、自治体も学校もトップに権限を集中させるようになった。要するに上意下達である。「上」のいうことを素直に聞き、その通りに行動することがよいことだとされる。それぞれの組織に民主主義はないから、トップがバカだとその組織はバカになり、トップがカネ儲けに走れば組織もトップのためにカネ儲けに走り回る。
自治体や学校の組織の構成員は、住民とか子どもとのためではなく、トップのために行動するようになる。
それが今の日本である。こういう社会ではほんとうの活力は消え失せるので、劣化していくしかない。日本大学の醜聞を見ればわかる。検察がトップの悪事を掴んで逮捕することをしなければ、組織の中から自浄作用が起こることはない。
そして調布市。市の職員は、市よりも上にある上部組織としての国交省などに、忠勤を励んだのだろう。調布市のトップも同じような認識をもっているはずだ。自治とか民主主義、人権に関する認識ももたない組織として調布市はあるのだ。
呆れかえるしかない事態が続出しているが、しかしそれを許容する「度量の広さ」が、日本社会にはあるのだ。言い換えれば、正義とか倫理に基づく「当為」という感覚が欠けているのである。
どんな悪事を行っても、司法機関が動かなければいいのだ、という意識。それが日本のトップから社会全体に広がっている。
そういうなかに私たちは生きているのである。まさに広い意味での「暴力」が許容されているのだ。
『東京新聞』12月4日付の記事、「停止要請の米F16飛行再開 住民軽視 運用優先」。
だいたいこの見出しがよくない。米軍にかかわる問題は、「住民軽視」ではなく、「住民無視」だろう。日本国民に対する配慮など、米軍は最初から持ち合わせていない。米軍機の低空飛行など、住民のことを少しでも考えているなら、そんなことはしない。「軽視」ではなく、「無視」なのだ。
この記事の中に、こんな記述があった。
米軍が駐留する根拠となる日米安全保障条約は、日米の信頼関係と住民の基地負担で成りたっている。
「住民の基地負担」って何?
1983年9月16日、大杉栄・伊藤野枝・橘宗一墓前祭が開かれた。その時の講師は瀬戸内寂聴さん。
私は主宰者の市原正恵さんから車を出すように言われ、瀬戸内さんが静岡にいるあいだ、ずっとご一緒させていただいた。静岡駅から大杉栄らの墓がある沓谷霊園へ。墓前祭は午後だった。その頃は大杉・野枝の遺児たちもご存命で参加されていた。瀬戸内さんの読経の中、献花が行われたりした。
夕方から静岡教育会館ホールで瀬戸内さんの講演が予定されていた。墓前祭のあと、瀬戸内さんは体調が思わしくないので休ませて欲しいというので、中島屋ホテルで休憩をとられた。
講演会の時刻が迫ってきたので中島屋ホテルから瀬戸内さんを乗せて教育会館ホールへ。17時半から記念集会が行われ、約170人が参加した。まず福岡RKB制作のドキュメンタリー「ルイズ その絆は」が上映された。そして瀬戸内さんが「関東大震災から60年目の今日」という題で講演された。1時間30分の熱のこもったお話しであった。
集会後、静岡駅まで送ったが、とてもお元気で帰っていかれた。
車の中で、いろいろ話をした。覚えているのは二つ。一つは、私が学生時代から伊藤野枝のファンで、全集などを読んでいて、野枝のような女性と暮らしたいというと、「あなた、野枝と一緒に暮らすなんてたいへんよ」と応えられたこと、もう一つは講演の報酬のこと。「私が出版社の講演を引き受けると高額の報酬が払われるの。でもそんなおカネないでしょ。だから無報酬でいいから」。
その頃、瀬戸内さんはすでに『美は乱調にあり』を出され、この集会のあとに『諧調は偽りなり』を出された。
講演では、発見された検死の調書をもとに、大杉らの虐殺のもようが語られたと記憶している。『諧調は偽りなり』に書かれた内容を主に話されたと、その後同書を読んで感じた。
私はその後も瀬戸内さんの動向や出版物を注視してきた。だから瀬戸内さんが亡くなられたことに、ある種の感慨がある。
人は必ずこの世を去って行く。瀬戸内さんは、熱い人生を生きた。
今日は、この文を読んだので、書く気になった。
先日、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』を紹介した。
その「訳者あとがき」に、ベラルーシでは政権を批判する政治家やジャーナリストが「抹殺されていると告発した新聞がほとんど売れない」のは、恐怖のせいばかりではなく、「国民はそんなことに興味がないのだ」ということをアレクシェーヴィチは認めている、とある。
そうなのだ。国民は日々の生活を生きていくこと、日常の諸々のことに興味関心をもち、そうでないことは当事者にならないと考えないし、当事者でなくなれば考えなくなるのだ。
介護の問題に苦労している人がいても、その苦労が制度的な、あるいは政治的な瑕疵からきているにもかかわらず、そこまでの認識を持つことなく苦労し、介護の対象者が亡くなってしまえば忘れてしまう。
10月の選挙、野党は、ジェンダー平等、森友問題などの「悪政」を批判したが、おそらくその批判は空回りしていたのだろう、票にはつながらなかった。どんな「悪政」を推進していても、国民は、テレビによく出演している政治家、握手したりしたことのある政治家に投票するのだ。
そして職業人は、働いている企業が推薦する政治家に投票する。たとえば浜松の遠鉄ストアという、遠州鉄道系列のスーパーでは、小選挙区では自民党候補に、比例区では公明党に投票して、と訴えていたそうだ。ほとんどの業界団体は政治的な組織をつくっていて、その組織は自民党とつながっている。そして当選したら、公共事業か何かで税金を投入してもらうように陳情する。
自民党・公明党政権は、最初から最後までみずからの支持団体や友人にだけ税金を投入する、そういうシステムがずっと続いてきた。
総選挙で落選した石原某を内閣参与にするというのも、その一環だ。
だが、国民はそれに怒りをもたない。何らかの業界とつながっている人びとは、自民党や公明党から「おこぼれ」にあずかっているからだ。
興味関心をもたなければ、政治はいつも日常とは切れた世界なのだ。それは日本人だけではなく、世界共通である。もし庶民が政治に興味関心をもって考え行動していたら、世界はもっとよくなっているはずだ。
日本においては、野党は、どのようにしたら庶民の興味関心をかき立てることができるのかを真剣に検討する必要がある。
第2次世界大戦の一環としての独ソ戦争には、ソ連人女性が100万人が「参戦」したという。看護師とか軍医だけではなく、まさに戦闘員として。
アレクシェーヴィチは、参戦した女性を訪ねて、戦争の体験、その頃の感情の動きなどを聞き取る。
まず私が驚いたのは、ナチスドイツの残虐さである。ナチスドイツは、ユダヤ人はじめ多くの人々を惨殺したが、ナチスドイツに占領されたソ連領内でも暴虐の限りを尽くしていた。ドイツ人は見境なくソ連人を、男だけではなく女や子どもも殺していた。ドイツは、ケガをしたソ連兵士を救うことはしなかったが、ソ連人はドイツ兵を救った。戦時下であってもナチスドイツの兵士は、ふつうのドイツ人であったはず。ドイツ人にに対する私の認識は、悪くなった。
戦場に於ける女性兵士が体験したもろもろのことが、ここには記されている。戦場とはいかなるところなのか、がよくわかる。絶対的に経験したくないところ。
日本軍兵士が侵したアジア太平洋地域でも同じような状況があったのだろうが、いずれにしても戦場とは、殺人が平然とおこなわれるところだ。そしてそれを体験してしまうと、戦争が終わっても、体験者の平穏な人生に大きな陰となって襲いかかる。
「戦争はなんでも真っ黒よ。血だけが別の色・・・血だけが赤いの・・・」
「心の痛みはとても辛いの」
「神さまが人間を作ったのは人間が銃を撃つためじゃない。愛するためよ。どう思う?」
「戦争では何でも速い。生きていることも、死ぬことも。あの2,3年で一生を生きてしまった気がする。誰にも分かってもらえないけど、時間の速さが違うの・・・」
私ももと日本軍兵士から話を聞いたことがあるが、戦場に生きた女性の話は、それとは質的に異なる。何を見、何を心に刻むのか、男性と女性とでは異なるようだ。女性は人間を見る、男性は人間から離れたもの、理念とか作戦とか・・・・そういうものを記憶する。
本書は、多くの人に読んでもらいたい。
「でもこれは残るようにしなけりゃいけないよ。いけない。伝えなければ。世界のどこかにあたしたちの悲鳴が残されなければ。あたしたちの泣き叫ぶ声が。」
今も世界のあちらこちらで、「悲鳴」や「泣き叫ぶ声」が発せられている。