浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

再審無罪へ GO!

2024-05-22 19:32:37 | 社会

 今日、袴田再審裁判が結審を迎えた。

 どこからどうみても、袴田巌さんは無罪であり、冤罪事件であった。私はずっと前、高杉晋吾氏の『地獄のゴングが鳴った 無実のプロボクサー袴田巌』を読み、袴田さんの無罪を確信した。そして真犯人についても、一定の予測を得ることが出来た。

 以後、袴田事件にはずっと関心を持ち続けてきた。いずれ無罪判決がだされて巌さんから「死刑囚」という軛がとられることとなるだろう。

 静岡第一テレビは、唯一、法廷後の弁護団の報告会をネットで公開している。ぜひ見て欲しい。

 

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『朝日新聞』へのレクイエム

2024-05-20 21:36:03 | 

 今日、及川智洋の『外岡秀俊という新聞記者がいた(田畑書店)が届いた。最近あまり本を買わない私が、外岡に関するものだけは例外としてきた。

 このブログでも、何回か外岡を取り上げてきた。朝日新聞記者であった外岡は、最後のジャーナリストだと思っていたからだ。外岡のような記者が輩出していたら、新聞はもっともっと知的で、面白くなっていただろうと思う。

 東大の学生時代に『北帰行』で文芸賞を得た外岡は、作家ではなく新聞記者を選択した。のちに中原清一郎として小説も書いたが、やはり新聞記者、ジャーナリストとして生きたといってよいだろう。

 文章を書くという仕事において正確に書くということは、まず語彙が豊かでないといけない。ひとりの人間が何かを表現しようとするとき、その表現したいものを的確に表す語を保持していれば、すなわち豊かな語彙をもっていれば、表現したいものを他者により確実に伝えることが出来る。そしてもう一つは、表現したいものをバックアップするために、自分自身にできるかぎりの知の集積がなければならない。表現したいものは、たいしたものでなくとも、それは無数の知と連関しているはずで、その連関している知と表現したいものをつばげることによって、より深い表現へと向かうことが出来る。

 外岡は、その二つを確実にもち、さらに新鮮な問題意識と、現実を前にしての敏感な感性があった。だから彼の文は、読んでいてわかりやすく、また触発されるのだ。

 もちろん彼がもつ特性は、最初からもっていたものではなく、様々な書物や現実、そして新聞記者の先輩としての疋田桂一郎の存在があった。疋田から学ぶことが多かったようだ。

 さて本書であるが、読んでいてぐいぐいと引き込まれる。及川が外岡にインタビューしたものを主に掲載しているのであるが、その内容がまた豊かなのである。知らなかった事実がそのなかで語られ、ふむふむと同意しながら読み進める。

 浅田彰に取材したことがあったようで、浅田の語りがそのまま文になるということが書かれているが、たしかに文章となるような語りをする人はいる。私は幕末・維新研究者の故原口清氏からいろいろなことを教えられたが、原口先生の語りはそのまま文になるようなものであった。頭の良い人はいるのだ。

 本書はまだ途中であるが、買って損はない本である。ジャーナリズムに関心を持つ人には読んで欲しい。途中でも、何かを書きたくなるような内容を持っている。

 

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ガザのこと

2024-05-19 13:45:20 | 国際

 『週刊金曜日』には、イスラエルによるガザ攻撃に関する記事がいくつかある。そのなかから二つ紹介していたい。一つは早尾貴紀さんの「パレスチナ人大虐殺という不正義から目を逸らすな!」であり、もう一つは「最先端産業としてのジェノサイド」である。

 早尾さんの論攷は、現在のイスラエルの蛮行の経緯がよくわかる。2023年9月22日、イスラエルのネタニヤフ首相は国連総会で、「新しい中東構想」について演説した。その際に示された地図には、パレスチナ自治区と言われるヨルダン川西岸地区もガザもなく、その地がイスラエルの色で塗られていた、つまりその時点でパレスチナは消去されていたのである。現在のガザ攻撃は、それを実現する、パレスチナ掃討作戦なのだ。まさにジェノサイドである。

 イスラエルの蛮行を、欧米の若者たちが、そして日本の学生たちも、糾弾に立ち上がっている。しかし欧米諸国は、大学までもそれらの動きを封じようと躍起になっている。イスラエルを批判することは反ユダヤ主義だというのである。さんざんユダヤ人を迫害してきた欧米諸国の、その迫害の代償がイスラエルへの全面支持というわけだ。そこには人道も、ヒューマニズムも何もない。何もないということで、欧米諸国は歴史的に一貫している。ユダヤ人も、パレスチナ人も、どうなろうと知ったことか、という姿勢である。

 そしてイスラエルの蛮行を支えているのが、アメリカの中東支配政策である。アメリカは中東諸国、エジプト、ヨルダン、アラブ首長国連邦、バーレーン、スーダン、モロッコを従属させ、これらの国々にイスラエルと国交を結ばせ、「アラブの大義」を葬り去ろうとしている。イスラエルを中心とした中東支配を、アメリカは画策している。

 次に廣瀬さんの文。ウィリアム・ロビンソンの「パレスチナとグローバル危機」という論文をもとに話しを進める。

 「西洋支配層においてジェノサイドは過剰蓄積あるいは余剰資本という経済問題と余剰人間の反乱という政治問題を同時に解決する手段として理解されて」いるという。余剰人間を抹殺すること、その事業に余剰資本が投下される、というのである。

「ジェノサイドはまずは余剰人間の抹殺であ」り、「世界各地で余剰人間が生み出され続ける限り、彼らの反乱やその可能性に対する「戦争」は終わらず、そうした戦争を糧とする国土安全保障産業は、世界経済が全体として停滞するなかで例外的に発展が約約束された部分として余剰資本を吸収し続けるだろう。加えてまた、ジェノサイドを伴うか否かにかかわらず、戦争による破壊では必ず「復興」が展望されており、発展限界に達した諸部門も復興に関わる限りで余剰資本に再投資の機会を与えることになる。」

  イスラエルのような、「入植者植民地主義」においては、「先住民抹殺それ自体が新種の産業として資本の価値増殖運動に組み込まれている」!!

 資本主義は生きている人間と極限までに絶対的矛盾関係にある、もう資本主義の廃棄しかない、という段階に、世界はきている。

 

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「築地再開発」

2024-05-19 13:08:51 | 社会

 『週刊金曜日』5月17日号は、なかなかの文が並んでいる。

 まず第一。佐々木実氏の「築地再開発の事業者決定 『読売』の軍門にくだった『朝日』」である。築地市場が豊洲に移転した跡地をどうするのか、という問題で、東京都はその再開発事業者に三井不動産を中心とする企業連合に決めた、という記事。

 この三井不動産は、神宮外苑の「開発」にも関わっている。みどりの少ない東京都、この「開発」により、さらにみどりを減じる。悪魔のような資本主義の先頭ランナーのような三井不動産が走り出すと、三井不動産にカネは集まるかもしれないが、それにより庶民には失うものが増えていく。

 さて、佐々木氏によると、三井不動産と読売新聞社は「蜜月関係」にあり、この築地再開発だけでなく、神宮外苑の「開発」にも両社が関わっているという。『読売』は公共的なメディアではなく、すでに私企業としてそうした方向でカネ儲けをしようとしているのだ。

 築地の再開発では野球場がつくられ、巨人軍の本拠地となるようだ。

 先ほど、築地再開発に三井不動産を中心とする企業連合と記したが、そのなかに『読売』が入っている。『読売』だけではなく、『朝日』も入っている。『朝日』はすでに同紙購読者の減少のなか、不動産事業などに重点を置き始めているようで、今回の築地再開発でもそれを狙っているという。

 佐々木氏の文には、言外に「あの『朝日』が・・・」という感慨があるように思う。たしかに、『朝日』には優秀な記者がたくさんいた。しかしそれは過去の話である。最近も多くの記者が『朝日』を去った。『朝日』はあたかもリベラル勢力の旗頭であるかのような位置を持つときもあった、しかしその歴史をひもとくと、『朝日』はリベラルな人びとに依拠している時期も断続的にあったが、最終的にはときの政治権力の軍門に降ることを是としてきた。戦時下、60年安保闘争の時・・・・・・・すこし振り返るだけでもいろいろ出てくる。

 そして一旦変質すると、『朝日』は変質した方向でがんばってしまう。たとえば、戦時下、画家のほとんどが軍部に協力して戦争画を描いたが、その展覧会を率先して開催していたのが『朝日』であった。『朝日』なくして戦争画の展覧会はない、という状態であった。

 『朝日』には、本多勝一はじめ錚々たる記者がいた。「いた」という過去形で書くが、おそらくその最後が外岡秀俊氏であろう。田畑書店から『外岡秀俊という新聞記者がいた』が出版される。私も注文したひとりである。

 変質『朝日』は、その方向で、今後、がんばっていくことだろう。その方向とは、ジャーナリズムからプロパガンダへの道である。がんばって欲しい、戦時中のように。

 

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自民党の政治家、不信しかない

2024-05-19 09:46:18 | 政治

 自民党の政治家諸氏にとって、政治なんかはどうでも良く、とにかく議員としての地位を守りたい、そのためにはカネが必要だ。カネはどこからのものでもよい、自分が当選するためにはハイエナのような地方議会議員にカネを渡さなければならない・・・・・・

 そういう政治家を、血も涙もない官僚たちが支える。

 

「マイク切り」は新潟でもあった… 水俣病患者に向き合わない環境省、急造の対応チームで一体何をする気か

【記事本文】

環境相との懇談で、水俣病の被害者らが発言中にマイク音が切られた問題。環境省は14日、水俣病への対応力を高めるためのタスクフォースを設けたと発表した。厳しい批判を受けて対処した格好だが、実際に何をやるのかは見えてこない。これで根本的な姿勢、考えは改まるのか。被害者との向き合い方に何が欠けているのか。(宮畑譲) 

 「今回のことを深く反省し、環境省全体で皆さまに寄り添って、一丸となって取り組みを進めてまいります」。14日の記者会見でタスクフォースについて説明した伊藤信太郎環境相がこう強調した。 ◆新たな部署ができるわけではなく…  タスクフォースは省内を横断し、環境相ら政務三役が顧問、次官が幹事を務める。職員は審議官を含む24人で構成するが、現在の所属のままで、新たな部署ができるわけではない。  環境省に詳細を聞くと、「新しい組織をつくったというわけではない。対応するチームのようなものだ」との答え。組織改編とまでも言えないようだ。今回の問題を受け、環境相と患者・被害者団体の再懇談の調整に当たるが、他に具体的な仕事内容は決まっていないという。

 今回の「マイク音切り」問題は熊本で起きた一方、同様の状況は過去に新潟でもあったようだ。  新潟水俣病阿賀野患者会の酢山省三事務局長によると、10年ほど前、5分程度でマイクが切られ、抗議したことがあったという。

◆石原親子2代にわたって繰り返された暴言と失言  そもそも環境相が新潟を訪れて被害者らと会ったのは2015年が最後。今年に関しては、5月31日に新潟市で開かれる式典に環境相の出席と意見交換の場を設けるよう、同会などが要望してきたが、環境相は国会開会中を理由に欠席する。後日、環境相との意見交換の場を設けるよう調整中で、酢山さんは「要望している最中に熊本で問題が起きた。(新潟への大臣訪問が)早晩、具体化されると理解している」と話す。

 過去にさかのぼっても、被害者に対して誠実に向き合っているのか疑わしい例にも行き当たる。 環境省が入る合同庁舎=東京・霞が関で 環境省が入る合同庁舎=東京・霞が関で  昭和の時代には、環境庁長官だった石原慎太郎氏が「今会った(水俣病の)患者さんたちはかなりIQ(知能指数)が低い」と述べ、反公害住民団体の陳情に「デモンストレーションのための陳情団に会う必要はない」と言い放った。

 ちなみに石原氏の息子で環境相だった伸晃氏も2014年、東京電力福島第1原発事故に伴う除染廃棄物の中間貯蔵施設の建設を巡り、福島県側との交渉について「最後は金目でしょ」と発言。被災者の心情を踏みにじるとして、猛烈な批判を受けている。

◆「直接訴える大切な場」  中京大の成元哲(ソン・ウォンチョル)教授(社会学)は、自らが現地調査で携わってきた水俣病に触れ「被害者に向き合わない環境省の姿勢は今に始まったことではない」と言う。  さらに「被害者らには年々、新たな問題が生じる。1年に1度、地元で大臣に直接訴える大切な場になる」と述べる一方、「政治家が苦しみに向き合う、話を聞くのは単純で当たり前の話」と語り、あるべき形から逸脱する状況に憤る。  政治家は被害者救済などに向け、イニシアチブを発揮すべき立場のはずだが、過去の公害問題を研究する大阪公立大の除本理史教授(環境政策論)は「救済に背を向ける環境省のスタンスに乗っかってきた大臣に『抜本的に改めて』と言っても難しいだろう」と悲観的に話す。

 ただ政治家には、そうした姿勢を変えるだけのパワーもあると指摘し「政治家に覚悟を持たせるには、被害者を切り捨てる政策を見直すように迫る世論の高まりが大事だ」と訴える。

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良い番組だった

2024-05-18 21:11:21 | メディア

自民“金権病”にクスリなし 「つばさ」3人逮捕・特捜本部も

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生活を破壊してまで・・・

2024-05-18 08:39:44 | 政治

 リニア工事に伴い、瑞浪市で水涸れが起き、大きな問題となっている。全国メディアも報じているが、しかしこれ、当然予想されたことである。地上でリニアを建設すると土地購入などばく大なコストがかかる、「大深度」をトンネルで結べばコストもかからないだろうという浅慮の結果である。

 すでに水問題は、新東名建設時に起きていた。トンネル掘削していたら、周辺の地下水が消え、住民たちの生活が破壊された。

 要するに、近年の大土木工事は住民の生活を破壊してまでも推進されるということなのだ。

 資本はあくなき増殖をめざす。しかし何もしていないと増殖は速度を減じる。そこで考えられるのが、破壊という方法である。大土木工事は戦争と類似する。

 戦争は、Gazaやウクライナをみなくとも、破壊と殺りくを本質とする。兵器で破壊し、そのあとに復興、これら破壊と復興により資本は大増殖する。大工事も同じだ。住民の生活を破壊し、破壊そのもので資本は増殖し、さらに破壊の結果を修復するということでさらに増殖する。

 資本主義というのは、すでに人間というか、住民というか、人びとと敵対関係になっているのだ。敵対的矛盾である。

 グローバル資本主義により国家は後退していくという言説があったが、グローバル資本主義というのは、国境をこえて資本を増殖させるために、国家を従属させ、さらに他国を従属させて、さらに資本を増殖させていくというシステムなのだ。そして同時に、それら国家の国民たちをも従属させる。その点から言えば、国民たちの国家への従属度は強化され、近代社会において誕生したという自立した個人は「時代遅れ」となったのである。自立した個人の消失は、日本においてこそ典型的に現れている。

 

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政治権力と大手メディアの腐った関係

2024-05-17 23:13:02 | メディア

“絶対に断らない女”山田真貴子元報道官がフジテレビに天下りへ 総務官僚時代に高額接待で猛批判浴びる

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政治もウソなら、料理もウソ

2024-05-17 20:40:46 | 社会

周富輝 氏 の 中華料理店 で「 食品偽装 」 元従業員 が 告発 NEWSポストセブン

 社会全体が腐っている

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夕顔を配達

2024-05-16 21:04:04 | その他

 夜の間、咲き続ける夕顔の白い花、この魅力にとりつかれ、毎年咲かせるようになってもう10年くらいになる。

 散歩の途中、わが家のフェンスに咲く夕顔の花を発見しそれに魅せられた方から苗を欲しいと言われ、わけてあげたら、私も、私も・・・と求められ、毎年50以上の苗をつくり、もちろん無料で配布している。

 今年は初期に蒔いた種は順調に芽を出してくれた(すでに5人の方に分けた。ひとりに4~5の苗を渡す)が、その後はなかなか芽が出なくなっていた。最近漸く、芽が出て来た。まだ配布しなければならないところがある。

 夕顔の種は堅い殻に覆われているので、園芸用の鋏で種の一部を取り去ってからビニールの鉢に蒔く。土は、スーパーなどの安価なものを買うと、出芽率が悪くなるので、私はタキイの種まき培土を使用している。

 出芽してから、双葉は殻を脱ぎ捨てなければならないのだが、なぜか今年はその殻を脱げない場合が多い。それに気付くと、私はハサミでそっと切って殻を取り去ってあげる。

 わが家の庭には、野菜や花の種を蒔いた箱やビニールの鉢が所狭しと並んでいる。きゅうり、とうもろこし、ピーマン、なす、百日草、ケイトウ、かすみ草、夕顔・・・・・・

 昼間は暖かいが、夜になると肌寒い。そのせいか、発芽も、苗の生長も遅いように思う。

 多くの人は苗を買ってきて、野菜を作り、花を咲かせているが、私は種からをモットーとしている。タマネギも種から、である。タマネギは苗で買っても、種からでも、収穫の時期はそんなに変わらない。

 種からだと、別に温室設備があるわけではないので、すべてが遅くなる。それでも種から、である。

 この世への誕生、そこから生長をみつめていく、すると愛情が湧いてきて、ひとつの苗も粗末にしない。

 

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言わんこっちゃない

2024-05-16 08:07:41 | 社会

 リニア新幹線建設工事、ついにでた水の問題。これは新東名のトンネル工事でもあったことだ。水涸れの補償は30年だということだが、その後はどうなるだろうか。JR東海は多くの住民に不安と被害を及ぼしても、自社のカネ儲けを企んでいるのだ。リニア新幹線なんかいらない!!

 『中日新聞』の記事。

「静岡がわがまま、と言われていたけど…」 リニア工事影響で水枯れ、瑞浪の住民に広がる不安

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生活の場から

2024-05-15 09:06:56 | その他

 森永は買わない。ヒ素ミルク事件があったからだし、アベの妻がその関係者だからだ。雪印製品も買わない。雪印は、田中正造らの足尾鉱毒難民救済運動に関わった黒沢酉蔵が中心となって設立されたという経緯をもつ。そのような会社であるにもかかわらず、2000年に集団食中毒事件を起こし、さらに牛肉偽装事件を起こした。この事件に関しては、同社は謝罪はしたものの、裁判では居直った。そういう会社のものは買わない。

 もちろんSUZUKIの車も買わない。浜松市政に口を出し、7区あった区を減らさせるためにSUZUKI康友を市長に送り込んだ。自社に陸上競技部があることから、浜松市の陸上競技場を立派なものにしたい、そのため隣接する球場を海岸部に「追放」し静岡県につくらせようとしている。こういう企業家が経営する会社の製品は決して買わない。

 最近では、小林製薬がどういう会社であるか判明したため、事件以降買わないことにした。

 生活の場からの抵抗、私のささいな抵抗は何の効果ももたらさないかもしれないが、それでもみずからの抗議の意思を日常的に示していきたいと思う。

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【本】『現代思想』5月臨時増刊号 アントニオ・ネグリ

2024-05-14 20:47:51 | 

 久しぶりに『現代思想』を購入した。みずからの脳を刺激するために、以前は毎号買っていたが、今は特集によって買ったり買わなかったり、という状態である。

 アントニオ・ネグリは共産主義者である。もう亡くなっている(1993~2023)。私がネグリに注目したのは、『帝国』(以文社、2000年)からである。この本は未だに捨てずにある。『帝国』についてここで論ずることはしないが、私にとっては難解ではあるが、とても新鮮な内容だった。グローバリズムが席捲するなかで、変革主体はどうなるのか、という問題を、当時、私は考えていたからだ。

 今は、変革主体が見えない。とはいっても、イスラエル国家のガザ侵攻に対して、世界の若者が行動に移している。「即停戦せよ!」という声が満ちている。こうした姿を見るとホッとする。

 さて『現代思想』、読みはじめたばかりである。最初の「ネグリ思想の継承と再考」という討議を読んだ。刺激的な内容で、途中から以前のように赤鉛筆でしるしをつけはじめた。

 現在、「物理的な壁が存在しないところでも、さまざまなかたちで分断線が引かれ、不安定性が不均衡な仕方で配分されてい」ると指摘されている。権力は、人びとが結びつかないように巧妙に分断を推し進めている。しかしだからといって、そこに運動がないわけではない。「運動の断片化と見えるものは、じつは運動の多数多様性の現れ」という指摘に、そういう捉え方もあるのかと思った。しかし運動の「断片」は残念ながら「断片」であって、多数が集まっているわけではない。そこに「多数多様性の節(ママ)合」が課題として現れて来る、そうしなければ、「断片」は「断片」のままでしかない。どのようにつなげていくかが課題となる。

 ただ、日本のなかをみると、「断片」なんだなあ。50年ほど前のまさに多数が集合して、大通りを揺るがすようなデモ行進が多数存在した。しかし今は、多数が集まることはなくなっている。デモ行進は、今や「パレード」と呼ばれるようになっている。

 だから「日常のライフスタイルや文化こそが政治的な抗争の場」だという指摘、その通りだと思う。デモ行進や集会などが闘いのばというわけではなく、われわれは日常においてこそ政治闘争をおこなわなければならない。というのも、「コミュニケーション、サービスといったあらゆる人間の生の営み」が収奪される段階にあるからだ。

 ネグリは変革の道筋を考えていた。ネグリの言説を元に、変革について論じられているが、しかし私には変革の主体が見えていない。見ないままに、私はこの世から退場していくのかもしれないと思っている。

 この本を読み、そんな状態でも未来への希望が湧いてくることを期待したい。農作業と講座の準備の合間をぬって、読み進めようと思う。

 

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袴田事件・・冤罪を生みださないために

2024-05-12 22:26:07 | 社会

袴田事件 2024年5月11日集会

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子孫に墓を残さず

2024-05-11 20:12:44 | その他

 亡くなった母の遺品整理を行っているが、なかなか終わらない。一人の人間が生きてきた軌跡を消していく作業は時間がかかる。

 さて、母は最期の13年間を埼玉県の姉(母にとっては娘)のところで過ごした。住民票も移していたので、そこで葬儀を行った。

 父の墓は、私の祖先が土地を寄進して建立した小さな寺院(以下寺院)に葬られている。しかし小さく檀家も少ないために、私が子どもの頃に住職は磐田市のほかの寺院に移っていった。そのため、その寺院は近在の坊主に住職をお願いすることとなり、某寺院の住職が兼務住職となった。

 ところがその住職がカネ、カネ・・・の人だったので、寺院が一度はその住職を追い出すことを試みたのだが失敗し、その後もその寺院には兼務住職として代々受け継がれてきた。

 父の年忌にその坊主が来るのだが、法話を話したことは一度もなく、カネの話(袈裟が古くなったので買ってくれとか・・)だけであった。

 寺院には毎年維持費を納めていた。父は寺院を建立した一族であったので、戒名は居士であった。居士となると、維持費なども高額になる。

 さて埼玉県で母が亡くなったとき、葬儀はそこでおこなった。「家族葬」であった。坊さんは「坊主ドットコム」に依頼し、葬儀の読経と戒名をお願いした(好感の持てる坊さんを紹介していただいたし、その際の布施も多額ではなかった)。母の葬儀に、カネ、カネ・・・の坊主に来てもらいたくなかったことと、その坊主に母の戒名をつけてもらいたくなかったからだ。

 そして、父の墓がある寺院に母が入るためには、浜松でもう一度葬儀をしなければならないと言われたことから、私は父の墓を撤去する決意をした。

 最近市の関係部署に行き、「改葬許可申請書」、父の遺骨を自宅で保管するために「焼骨の自宅保管証明申請書」、「焼骨の自宅保管について」を得て、「改葬許可申請書」と「焼骨の自宅保管について」には、住職の署名・印鑑をもらった。墓撤去前の読経を含めて3万円ということだった。

 墓の撤去ということは、檀家をやめるということだ。その際、世間では「離壇料」の支払いが求められるということだった。しかしその「離壇料」の支払いには法的根拠がないことから、私は当初から払うつもりはなく、もし請求されたら訴訟に持ち込むことを決意していた(すでに弁護士にも話して準備しておいた)。私の従姉が父の兄の墓じまいをしたとき、高額のカネをふっかけられたと聞いていたし、ネットで検索するとその「離壇料」で苦しまれた方々の話がアップされていたからだ。

 だがその坊主から「離壇料」の話はなかった。坊主と闘うことはなくなった。あとは、墓を撤去するために、石材店と交渉することであったが、これも昨日終わった。石材店から、父の墓は良い石を使っていること、三つの墓石は上段を除き、中段、下段に上の石を乗せるために彫り込んであるということなど、本式の墓石であることを知り、母の賢明さをあらためて知った次第である。

 とにかく寺院に墓を持つということは、子孫にとって重荷を背負わせることになる。近在の日蓮宗の寺では寺の周囲に立派な塀をつくった。これについて、檀家にそれぞれ50万円が課されたという。またほかの臨済宗の寺では何らかの工事で、その半額を檀家に負担させた。一軒30万円である。また近在の曹洞宗の寺では、通夜と葬儀の読経にそれぞれ30万円が要求されたという。その家庭は生活保護家庭であったのに。

 とにかく寺と関わりを持つということは、多額のカネが寺に吸い取られるということだ。それらの金額、私は何とか出そうと思えばだせるが、しかし同じことが子孫、つまり若者に求められたら、彼らの経済状態ではとうてい払えないであろう。

 つまり寺に墓を持つということは、つまり子孫に重荷を負わせることになるのである。

 少子化のなかで、後継者のいない家庭が増えている。後継者がいなければ墓は撤去しなければならない。寺だけでなく、公営墓地も同じである。墓がある場合、寺には維持費、公営墓地には管理費を払い続けなければならない。管理費は高くはないが、後継者がいなくなれば撤去するしかない。

 もう墓を持つ時代ではなくなっていると思う。

 母と父の遺骨の行き先は未定である。

 曹洞宗の死に関わるシステムは、遺族から如何にカネをとり続けるか、そのためのものでしかないという結論を有するに至った。とにかく曹洞宗から離れる、そしてほかの宗派に改宗しよう、今はそう考えている。

 今、亡くなる人が多く、葬儀社や寺、墓園経営者はカネ儲けの大チャンスととらえているように思う。寺を除き、新聞折り込みには、その関係のものが多く入ってくる。人の死をカネ儲けの手段にするというのは如何なものかと思う。とりわけ、寺はそうであってはならないのではないか。

 仏教の本来の教えはそういうものではない。日本の仏教界は、寺のあり方について検討すべき時にきている。そうでなければ仏教界は廃れるばかりだ。葬儀を神式でおこなう事例が増えていることを、仏教界は真摯に見つめるべきである。

 

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