水俣病患者団体の抗議は「つるし上げ」 熊本知事が発言謝罪
日本の政治が腐敗しているとともに、ふつうの人びともおかしくなっている。
日本の政治が腐敗しているとともに、ふつうの人びともおかしくなっている。
大企業は空前の利益をあげているという。
その記事の冒頭はこうなっている。
上場企業の24年3月期決算の純利益合計額が前期比15・0%増の47兆9370億円と、3年連続で過去最高になる見通しであることが10日、分かった。外国為替相場の円安基調が自動車を中心とした製造業の業績を押し上げた。訪日客の回復も陸運など非製造業に追い風。25年3月期も過去最高益が見込まれており、増益基調が今後も続く可能性がある。
一方庶民はというと・・・
記事の冒頭部分。
総務省が10日発表した2023年度の家計調査によると、1世帯(2人以上)当たりの月平均消費支出は29万4116円となり、物価変動を除いた実質で前年度比3・2%の減少だった。マイナスは3年ぶりで、新型コロナウイルスの感染拡大で外出自粛が広がった20年度の4・9%減に次ぐ過去3番目の大きさ。物価高が長引き、消費者の買い控えが起きたのが主因だ。
大企業はボロ儲け、庶民の生活は苦しくなるばかり。エンゲル係数も上昇の一途である。
政府は大企業優先政策を推進し、ばく大な儲けを保障しつつ、さらに税金から多額の補助金をばらまいている。企業から自民党に様々な献金が行われるのは当たり前である。大企業優先政策をさらに推進してほしいからである。
選挙民が、これでもなお自民党に投票し続けると、庶民はさらに貧困化し、外国に買われていることだろう。
しばしば「中国脅威論」が政府筋からながされるが、そして沖縄県に対中国に向けての軍事施設が建設されているが、しかし日本国内の不動産などが中国人ら外国の富裕層に買われているという。低金利政策と労働分配率の低下政策などにより、日本はすべてが「安く」なり、日本は買われている。かつて円高の頃、日本人が海外で「安い、安い」といっていろいろなものを買いあさってきた。しかし今は日本を、外国人が買いあさっているのだ。
長い長い自民党・公明党政権により、日本は貧しく、海外から見れば「安い」国となった。日本政府や日本人は、日本を「先進国」だと思っているようだが、すでに様々な数値はそれを否定している。
この現状を打開する道はただひとつ、自民党・公明党政権を倒すことだ。そして大企業優先の利権政治を葬ることだ。
静岡県知事選、メディアは「与野党対決」なんぞと言っている。決してそうではない。今回立候補しているSUZUKI康友氏は、浜松市長であったが、そのバックにSUZUKIの鈴木修氏が君臨していた。SUZUKI康友氏は、修氏の指令の下に市政をすすめていた。まさに浜松市は、SUZUKI市になっていた。
県知事選に立候補したSUZUKI康友氏の背後には、もちろん鈴木修氏がいる。忠勤を励んだ康友氏を支援している。
それはなぜかといえば、鈴木修氏は浜松市営球場をなくして静岡県に新たな球場をつくらせたい、市営球場に隣接する市営陸上競技場を、市営球場をつぶして拡充したいのだ。SUZUKIはアスリートクラブをもっている。
今回の争点は、静岡県政を、SUZUKI県政にするのかどうか、である。
立憲民主党や連合などが、SUZUKI康友氏を推薦しているが、それらはSUZUKIの影響力がそのような団体を侵食していることを示す。
県営の新野球場、交通アクセスも悪く、津波が来たらどうするのか・・・・そして立派な球場をつくって採算が取れるのか。SUZUKIのいいなりの県政にしてはならない。
どこが出しているかわからないが、これは事実だ。これ以外にいずれ明らかになるが、SUZUKIのあらたに建設されるであろうテストコースに関わる疑惑もある。
これも事実。
国民から税金を集めて、政治献金をしてくれる企業や団体に、その税金をばらまくというのが、政府や自治体の業務になっている。こういう利権政治を打破しない限り、庶民の生活は守れない。
私はマイナ保険証を持っていないし、持つ気もない。最後まで抵抗するつもりである。しかし自民党・公明党政権は、マイナ保険証の利用がなかなか進まない状態のなか、それを強制している。
その現実を荻原博子さんが語る。
小池百合子のエジプト大学卒業という学歴詐称問題、エジプト国家のエージェントとして役割を果たす小池、という点から考証した番組がある。
水俣市での、環境省大臣と水俣病患者等との懇談会で、発言制限時間3分を超えたらマイクを切られるという事態が起きた。そのニュースを『東京新聞』から貼り付けると、
まず目についたのは奥島孝輔氏の訃報である。彼は経済法の教授であったと思うが、教えを受けいたことはない。経済法では、私は宮坂富之助氏の講義を受けた。宮坂氏の講義はシャープであった。調べてみたらもう鬼籍に入られていた。
奥島氏の唯一の功績は、学内の革マル派と闘い、彼らを文学部自治会、文連、大学祭実行委員会から放逐したことだ。彼ら革マル派は、自治会などを掌握して年間多額のカネを入手し活動費につかっていた。私も在学中、彼ら革マル派の暴力には心の底から怒りを持っていた。彼らは反スターリン主義を掲げていたが、彼らこそもっとも組織の温存を至上価値とするスターリニストであると思っていた。彼らは文学部校舎を暴力支配していた。スターリン時代のソ連とまったく同じであった。
革マル派の暴挙は、樋田毅さんの『彼は早稲田で死んだ』に詳しいが、あの時代、キャンパスで彼らの暴行を目撃しなかった者はいないだろう。
また革マル派は、国鉄の労働組合のひとつ、いわゆる動労を牛耳っていた。国鉄民営化という方針が示されたときには、その政策にのって、民営化を推し進める国鉄当局と癒着し、率先して民営化の旗振りを行い、動労という組織の温存を図った。しかしJR当局に見捨てられ、JR社内での革マル系労働組合の凋落は大きいようだ。
学生時代、いろいろな党派がうごめいていたが、革マル派はとにかく許せない、というのが私の未だに消えない感情である。
二面には、「憲法軽視続く 自公政権」という記事。アベ、スガ、キシダの政権により、日本は大きく変えられた。憲法の原則が大きく踏みにじられ、アメリカへの隷属度が高まった。キシダのもとで、自衛隊は米軍の下請け部隊として、アメリカのために死ぬことを求められている。そうした憲法破壊の政策を支えたのが、創価学会党である公明党だ。公明党は国政だけではなく、地方自治体でも首長を支える姿勢を貫いている。日蓮の「王仏冥合」を実践していると考えているのだろうが、それにより利益を得ているのだろう。アベ以降の自民党政権が何をしようとも、しっかりとくっついていく。創価学会は、宗教組織というより利権組織と言ってもよいのかもしれない。
三面には、「米大学 計1500人超逮捕」という記事。イスラエルによるGaza侵攻、虐殺をみて、それに心が傷まない者はいないだろう。ナチスドイツによるユダヤ人虐殺を想起させるほどのイスラエルの蛮行だと思う。アメリカの学生たちがそれに抗議するのは正しい。イスラエル国家が行う蛮行、それは建国当初から行われてきたが、それに抗議することとユダヤ人差別とはレベルの違う問題である。欧米国家がそれをごっちゃにするのは、彼らがユダヤ人差別を率先して行ってきたからに他ならない。
日本でも世界でも、心を騒がせる事件が多発している。人類には、地球を統括する資格がないことを示しているのではないか。かつて恐竜が地球上を席捲していた、その恐竜が絶滅した。それと同じようなことが起きるのかもしれないと思う。
アークタイムズは、憲法記念日に東大の石川健治さんと憲法を語る番組を制作した。石川氏の知性あふれる指摘には、いつも触発される。話を聞いていて、空疎な人間ほど勝ち気になる、ということがよくわかった。
すでに亡くなった南博は、人間を三類型にわけたそうだ。「強気」な人間、「弱気」な人間、そして「勝ち気」な人間。「強気」な人間とは、みずからの考え方をしっかりと持っている人、「弱気」な人間とは他者指向型。「勝ち気」な人間とは、とにかく目立ちたい、上にいたいと、ただそれだけを原動力に動き回る人、そこに個人の思想、考えはない、つまり空疎な人間だということだ。岸田や小池百合子は、まさに「勝ち気」人間の典型である。
石川さんは、その他にも重要な指摘をしている。憲法秩序を根柢で支えている条文が96条である。その務めを果たしていたのが内閣法制局。四苦八苦しながら政策と憲法との整合性をこしらえていた。しかし2014年の安倍内閣は、その96条を破壊した。内閣の言うことをハイハイと聞く、忠犬である外交官上がりの人物を法制局長官に任命し、内閣法制局の機能を奪い、結果的に96条を破壊した。
そのことを、今日の『東京新聞』社説が指摘している。
朴慶南・村山由佳『私たちの近現代史』(集英社新書)を読んで、これはと思うところを書き留めておきたい。
私の差別論については、このブログで何度か書いてきている。差別的な感情は、日々生成しまた消失している。たとえば高齢者のマークがついた自動車がウィンカーも出さずに右折したりすると、そこには老いたる者への差別的な感情が生まれるが。しかしそれはすぐに消えてしまう。生きて行くということは、こうした差別的な感情が生成し消滅していくというサイクルを何度も経験するということだ。
そしてそうした差別的感情は「いけないもの」だという認識を持っていることも確かである。
ところがこの世の中に、そうした個別的な差別的感情ではなく、悪意を持った差別、社会的に流布している差別がある。在日コリアンはじめ外国人に対する差別などがその典型であるが、私のその背後に国家権力による差別的な政治がある、つまり政治権力が公認しているが故に、公然と差別を声高に叫ぶ人びとが出現する。国家によるお墨付きが彼らの劣情を増進させる。
だから私は、差別をなくすためには、まずもって「公的権力」による差別をなくさなくてはならないと考えている。
村山由佳も、同じ考えであることがわかる。
民における従来の差別感情を、官による公的なお墨付きが後押しし、火に油を注いだ形になる。国の施策がそうだったから、一般の日本人がそれに乗っかって虐殺にまで至ってしまった。歯止めになるものは何一つなかった(75)
これは関東大震災における朝鮮人虐殺について言及した発言であるが、その通りだと思う。公権力は朝鮮人を公然と差別し、また新聞メディアもそれにのって差別的な記事をばらまいていた。
村山由佳は『風よ あらしよ』で、伊藤野枝を描いた。当然大杉栄をも描かざるを得ないのだが、大杉についてこう語っている。
私は大杉はダメな男だと思うんです。彼が標榜した自由恋愛なんか、互いに自立するだの束縛しないだなんて偉そうなこと言ってますけど、結局のところ男に都合のいいことばかりなんですよね。観念や理屈が先に立って、女性の気持ちや女ならではの生きづらさについては全然分かっていない。(119)
まったく同感である。私は大杉栄論で、この点を批判しないものはそれだけでダメだと思う。栗原康のそれは、その点でダメだと思う。だけどなぜかその本が売れたのだという。
大杉が野枝との共同生活に入ってから、大杉はそういうことを言わなくなったから、大杉はその理屈が間違っていたことを生き方で示したのだと思っている。
村山の野枝論は、朴が「生理感覚から野枝に入って行ったところがこの傑作を生んだ」(133)と指摘しているが、私もそのように思い、別項で書いたことがある。
村山は『風よ あらしよ』を書いてこう語る。
『風よ あらしよ』は企画からいろいろな文献をあたって、連載の準備をして、連載して本になってというふうに足かけ四年以上かけているんですけれど、その間にも、この国が100年前のあの状況にどんどん近づいてきているという実感が迫っていたんです。自分が書いている暴力的な時代に、今の世の中が近づいていることが怖くて。このままいったら100年前と同じようなことが起こるんじゃないか。軍事独裁だ、警察国家だというのを私たちは過去のことだと思っているかもしれないけれど、もっと柔らかい膜にくるまれてはいるものの、本質的には今も同じような形で支配されているんじゃないか。見えないようにされている分だけ、むしろ罪深いんじゃないか。(127)
この現代認識も首肯する。
また、「今の時代の潮流を見極めるにはやはり歴史から学ぶことが一番大事だ」(156)という指摘にも同意する。
そして「アジアを見下ろす優越感は、アメリカへの劣等感と裏表ではないでしょうか」(235)という指摘にも。この人間観は、日本の官僚やおおかたの保守的な政治家も共有しているものだ。アジア人やアフリカ人、そして南米など、昔言われた「第三世界」の国や人びとを蔑視して、白人を崇める気風、それはメディアにも強固にはびこるものだ。
村山の作品は、『風よ あらしよ』しか読んだことはないが、今後時間があったら読んでみようと思う。文学もとても大切だからだ。朴が青春期に読んだ本を列挙している個所がある(216~7)が、彼女の読書体験はまさに私自身のそれでもある。
しかし今、学校教育から文学が消し去られようとしている。村山はそれに警鐘を鳴らしている。
大学から文学部は消えつつある。国語の教科書でも小説や随筆の鑑賞はどんどん削られているんです。マニュアルを読むための実践的な国語力が必要とされるけど、味わうことそのものが目的の文学に関しては、その道に専門的に進むことが前提でない限りは触れることが少なくなっています。でも、特に若いうちに文学に触れておかないと、想像力とか判断力とか洞察力とか、何を信じて何を疑うべきとか、そういった大切なことを見極める目が磨かれないと思います。ほかにそういうことを磨いてくれる学問ってないじゃないですか。(239)