第100回記念パーティから早一カ月、11月14日、第101回YMS(ヨコハマ・マネージャーズ・セミナー)をmass×mass関内フューチャーセンターにて開催しました。
講師は、YMSの前身である「みなとみらい次世代経営者スクール」を横浜市経済観光局(当時)と共に主催していた、横浜市立大学エクステンションセンターの当時センター長でいらっしゃった、南学先生。我々がスクールの修了証をいただいた先生です。また、YMSとしても2012年3月の第19回以来のご登壇となります。
テーマは、「ヨコハマ横浜YOKOHAMA横濱よこはま 誕生とみらい」。2004年に岩波ジュニア文庫から出版された、南先生編著『横浜 交流と発展のまちガイド』を基に、横浜市が人口わずか300人と言われた寒村から、今日の371万都市に発展するまでの裏話についてお話しいただきました。因みに、修学旅行生を対象に出版されたというこの本ですが、子供向けとは思えない内容で、横浜開港資料館が保管している貴重な絵や写真がふんだんに盛り込まれている他、現在の横浜の写真は第50回横浜文化賞奨励賞を受賞された写真家の森日出夫氏、イラストはグラフィックデザイナーの中川憲造氏による、なかなか贅沢なものです。当時全国的に流行した地方検定ブームも手伝い、この手の本としては1万6千部のヒットとなったのだとか。
1.ペリー上陸の地
さて、横浜出身の方は、頭の中で風景を描きながら聴いていたであろうと思うのですが、お話は大桟橋の先端から始まりました。1854年、再び日本に現れたペリーは、現在の大桟橋の付け根、横浜開港資料館がある地に上陸しました。開港資料館の敷地内には、随行画家ハイネによる『ペリー提督の横浜上陸』画に描かれている、(関東大震災で一度焼けたため、そのものではありませんが)「玉楠の木」が今でも残っています。港ヨコハマはまさにここから始まりました。 第52回YMSでもご紹介しましたが、大桟橋の背後から現在首都高速道路が通る、かつての派大岡川の辺りまでは、ペリー来航の直前から太田屋新田、横浜新田という二つの新田開発が進められた干拓地でした。しかし、その奥の吉田新田同様、元々内海(当時は沼地)だったこの地は、満潮になると海水が入ってくるため水田には向かず、住民は鯔(今でも大岡川に沢山遡上してきます)や鰻を採る半農半漁の生活をしていたようです。開港後、この地は外国人居留地(いわゆる「関内」)となりました。地図を見れば道路の形状が、かつてここが干拓地であったことを窺わせます。
2.中華街の道は何故ナナメになっているのか?
ところで、地図を見るとおかしなことに気づきます。関内の中で、中国人居留地であった現在の中華街だけ道の向きが違うのです。何故違うのか?それは風水を大切にする中国人が風水思想に基づいて街づくりをしたからだという通説があります。確かに、中華街には中国の風水思想に基づいて東西南北を守る四つの門があります(「朝陽門」(東)、「朱雀門」(南)、「延平門」(西)、「玄武門」(北))。そして中華街の道は風水が重視する「磁北」(横浜の場合、真北から西に7度ほどずれる)を向いているようにも見えます。しかし、中華街の四門は最初に造られた延平門でさえ1994年のことであり、つい最近です。実は中華街の道がナナメを向いているのは、風水に基づくからではなく、中国人居留地となった前述の「横浜新田」の畔道がそのような方向を向いていたからだとうことが判明しています。
3.金のない横浜
関東大震災、横浜大空襲という二度にわたる壊滅的被害を被った横浜。しかし、戦後は日本の高度経済成長と共に、日本一の貿易港として、また京浜工業地帯の一翼として今日のような日本屈指の大都市へと発展してきたというイメージが、僕の中にはありました。
ところが現実は占領軍の4分の1にあたる10万人が横浜に駐留。米軍による市の中心部の接収は、朝鮮戦争やベトナム戦争などによって返還が遅れ、他の大都市の発展をよそに、横浜は高度成長の恩恵から完全に取り残されてしまったのだそうです。飛鳥田一雄市長が荒廃した横浜中心部の復興を目指し、「横浜六大事業」と呼ばれる都市計画をまとめたのが、ようやく1965年(昭和40年)のこと。しかし、1971年ニクソンショック、続く73年のオイルショックにより、事業が動き出した頃には日本経済は低成長時代に突入していました。
1.都心部強化(みなとみらい21)→1983年以降
2.金沢地先埋立事業→1971年以降
3.港北ニュータウン→1974年以降
4.高速道路→1970年以降
5.高速鉄道→1973年開通(横浜-上大岡間)
6.ベイブリッジ→1989年開通
上記六大事業は、その後もバブル崩壊など紆余曲折を経ながら、現在ほぼ完遂しています。これを見て分かる通り、この六大事業が現在の横浜の骨格を形作っています。興味深かったのは、復興が遅れ金のなかった横浜市が丁々発止の交渉により、最小限の財政負担でこれらの事業を成し遂げたということです。それにまつわる裏話はまるでドラマか小説のようでした。発展に乗り遅れた横浜、しかしこの時の確固たる目的意識を持った都市づくりがあったからこそ、バブル崩壊後も横浜は人口や企業が流出することなく発展を続け、今や日本屈指の経済都市、観光都市としての地位を築くことができたのだとも言えます。
4.横浜のランドマーク
横浜を象徴するランドマークには何世代かの変遷があると言います。第一世代は、俗に横浜三塔と呼ばれる神奈川県庁、横浜税関、横浜開港記念館です。第二世代は、かつて世界最大の灯台であったマリンタワー。第三世代は文字通りランドマークタワー。そして第四世代のランドマークが必要ではないかということで作られたのが、実は瑞穂埠頭にある風力発電の風車なのだそうです。イマイチ知名度がないですが…
横浜は言っても150年程度の歴史しかありませんが、150年の中に全てが詰め込まれている町だとも言えます。それだけに跡地も資料も豊富で、自分の目で歴史を確認できる町でもあります。そして、僕自身反省でもありますが、当の濱っ子がそれを知らない町。その点は京都を見習わなければならないでしょう。
過去のセミナーレポートはこちら。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした