6月29日、日本交渉協会主催の第15回ネゴシエーション研究フォーラムに参加してきました。
毎回各分野で活躍される講師をお招きし、興味深いお話を伺えるので、いつも楽しみにしているのですが、今回は名古屋大学大学院情報学研究科准教授の川合伸幸先生より、「怒りを鎮めるうまく謝るビジネス、家庭を円滑にするためのヒント」と題してのお話しでした。川合先生については、以前ご著書『心の輪郭―比較認知科学から見た知性の進化』を拝読したことがあり、それだけに今回のフォーラムは一層楽しみでした。
心の輪郭―比較認知科学から見た知性の進化 | |
川合 伸幸 | |
北大路書房 |
さて、今回のテーマである「怒り」。スタンフォード大学のマーガレット・A・ニール著『スタンフォード&ノースウエスタン大学教授の交渉戦略教室』では、怒りと交渉との関係について、近年の研究を紹介しています。それによれば、実は喜びの感情よりも怒りの感情の方が、現状を変えたいという気持ちと強く関連しているのだそうです。その上、特にパワフルな人が怒りを経験すると、その人はコントロールや確実性を知覚。直面しているリスクに対して楽観的な評価をしました。言い換えれば、パワフルかつ怒りを感じている人は、希望的観測に惑わされることなく、リスクを予測することができ、しかし最終的には自分が勝つだろうと認識していたということです。
怒りは、自分はパワフルで有能な人間であるという自己イメージを刺激するのに役立つ上、怒りを感じている人の多くは、将来に対して楽観的な期待をしています。交渉において、実際にパワーのある人が怒りを表現すると、地位を上げたり、パワーがある人だと認識してもらえたりします。逆に、相手よりパワーで劣る場合は、怒りを表現しても反発を生む可能性が高まります。また、そのような怒りの表現の効果には性差もあるそうです。
強いパワーを持っている者が怒りと一体となると、より効率的に相手との交渉を進められるようになり、結果としてより多くの価値を獲得することが研究の結果から分かっています。その理由は、パワーの弱い方が相手の怒りに不確実性を感じ、高いレベルで価値創造をしようと動機づけられるためです。もちろん、結果として創造された価値の大半を獲得したのはパワーの強い方でしたが、パワーの弱い方も中立的な人と交渉した時よりも良い結果を収めたということでした。
スタンフォード&ノースウエスタン大学教授の交渉戦略教室 あなたが望む以上の成果が得られる! | |
渡邊 真由 | |
講談社 |
このように記述すると、怒りは交渉において望ましい感情であるかのように思えます。しかし、上記の研究には「但し」があり、彼らが対象としてきた「怒り」は、低強度でコントロール可能な感情、かつ特定の状況に限定したものです。言い換えれば「冷静な」怒り。カッとなったり、モノを投げつけたりというような感情を暴発させる「熱い」怒りとは異なるという点に注意が必要です。熱い怒りに交渉、とりわけ相手との長期的な関係が重視される繰り返し交渉において好ましくない影響を及ぼすリスクがあることは言うまでもありません。今回のテーマは、こちら後者の怒りの方です。
前置きが長くなりました。「怒りを鎮める」というと頭に浮かぶのが、1970年代にアメリカで開発された「アンガーマネジメント」です。アンガーマネジメントとは、怒りを対人関係に起因する要素の強い第二次感情であると規定し、その第二次感情の根底にある第一次感情に気づくことによって怒りを制御しようという心理療法を言います。しかし、このアンガーマネジメントの根拠には科学的証拠がないそうです。
例えば、アンガーマネジメントでは「怒り」を第二次感情と規定していますが、「怒り」は第一次感情として規定されている「悲しみ」と同じ、人類に生得的に備わっている「基本感情」の一つです。これはP.エクマンの研究によって証明されています。基本感情については、「第11回ネゴシエーション研究フォーラム」の清水建二先生の回をご覧ください。悲しみに起因して怒りが生じるわけではないのです(複数の感情は混合感情として同時に起こります)。
また、怒りの4つのタイプ(継続する怒り、強い強度の怒り、攻撃性がある怒り、頻発する怒り)もいわゆる「バーナム効果」の域を出ないと言われます。有名な「6秒ルール」に至っては、根拠が全く確認できていないそうです。繰り返しますが、ここで述べているのはあくまでアンガーマネジメントの根拠が科学的に確かめられていないということであって、その療法的効果を否定しているわけではありません。
では、何故人類に「怒り」が基本感情として備わっているのか?進化生物学的には「縄張り(生存に必要なテリトリ)」の確保のためであると考えられています。テリトリを侵されると、侵入者を排除するため戦闘態勢のスイッチが入ります。これが怒りの感情で、筋肉が緊張し、心拍数が上がり、ノルアドレナリンを分泌し、相手に戦闘態勢であることを示すため怒りの表情を表します。「怒り」感情の表出は、生存のために重要なメッセージであるため、人は集団の中でも巧みに怒りの表情を見分けることができると言います。つまり、人は怒りに対して敏感に反応する性質があるのです。
しかし、怒りはあくまで非常時の生理現象であるため、常時続けば身体に悪影響を及ぼします。また、この縄張りは物理的なテリトリに限定されません。それには心理的領域も含まれ、R・D・フィールズによれば、怒りを引き起こすきっかけには以下の9つがあるということです(それぞれの頭文字をとって“LIFEMORTS”と呼ばれます)。
1. 命の危険(Life-Or-Limb)がある時
2. 侮辱(Insult)された時
3. 家族(Family)を守る時
4. 環境(Environment)を守る時
5. 仲間(Mate)を守る時
6. 序列(Order in society)を守る時
9. 資源(Resource)を守る時
10.部族(Tribe)を守る時
11.阻止(Stopped)された時
要約すると、縄張りを侵された時や、自由が制限された時に怒りの感情が起こるということです。このように認識しておくと、自分を客観視することができ、怒りを鎮めやすくなります。
自分を客観視するということは、自分と距離を置くということでもあります。これは「自己距離化」と呼ばれ、心理的に怒りの状況から遠ざかることによって、その状況を遠くから眺めるよう想像することを言います。また、物理的にその場から離れるという行為も有効です。交渉でも膠着状態に陥ったり、論争に発展しそうな時、休憩を入れたり場所を変えたりといったことが行われます。怒りの出来事を書き出してみるのも効果的です(記述)。書き出してみると、怒りの原因は思ったほど大したことではないと思えたりします。記述も自己距離化の一つですね。因みに、その書き出したメモは書いた後に捨てると良いのだそうです。
それでも怒りが収まらない場合、怒りが生じた原因を別の視点で考え直してみるという方法が考えられます。例えば、相手を別の好ましく思っている人物だと考えてみたり、何かやむを得ない事情があるのではないかと考えてみたりといったようにです。これを「再評価」と言いますが、恐らくアンガーマネジメントが第二次感情の裏の第一次感情に目を向けましょうといっているのは、この再評価のことなのではないかと思います。
次に「自己制御」、要するに衝動的に行動することを抑える忍耐力をつけることです。これには(右利きの人が)左手で書く、ついスマホを見るのを我慢するといったことでも訓練になるようです。ポジティブ心理学者のショーン・エイカーは、著書『幸福優位7つの法則 仕事も人生も充実させるハーバード式最新成功理論』の中で、「20秒面倒なことがあると悪い習慣を止めやすくなる」と述べています。
幸福優位7つの法則 仕事も人生も充実させるハーバード式最新成功理論 | |
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次に「謝罪」について。我々は幼いころから「悪いことをしたらまず謝りなさい」と教育を受けています。とりわけ日本人はすぐに謝罪することで有名です。しかし、「すみません」といった単純な謝罪は、それが自発的なものであれ、促されたものであれ、我々が思っているほどの効果はないそうです。研究によれば、単純な謝罪によって、相手の攻撃性を鎮める効果はあるが、不快感はほとんど変わらないのだそうです。むしろ、実際に謝られるより頭の中で謝ってもらったと想像した方が、効果があったのだとか。アメリカで喧嘩中の夫婦約500人を対象に行った調査でも、「謝罪してほしい」と答えたのはわずか0.14%だったそうです。
かと言って謝罪しないのはなお良くありません。ではどうすれば良いのか?それは、怒りを感じた方が補償して欲しいと無意識に感じている8つの要素を謝罪の中に盛り込むことです。この8つの要素は核となる3要素と付加的な5要素から成り、下表のようにまとめられます。
【核となる三要素】
【付加的な五要素】
逆に、謝罪において避けるべき四要素というものもあります。
【良くない謝罪の四要素】
しかし、言うは易し行うは難し。適切な謝罪ができるようになるためには練習が必要だということです。交渉も同じですね。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした