2023年9月22日、品川区の文化コミュニティ施設「きゅりあん」とオンラインとのハイブリッドで第61回燮会が開催されました。燮会は日本交渉協会が主催する交渉アナリスト1級会員のための勉強会です。生憎の天候で会場参加者は少なめでしたが、その分オンラインで全国から大勢の1級会員にご参加いただきました。
今回も第60回に続き三部構成で行われました。第Ⅰ部は9ヶ月ぶりとなる「第21回交渉理論研究」。テーマは、「統合型交渉の理論(1)-テンプレート設計/評価」。2018年3月の第1回から5年半、ようやく統合型交渉の理論に入りました。
一定の価値を分配する分配型交渉と比べ、価値を増大させ分配する統合型交渉は定性的に語られることが多く、定量的な理論で説明されることはほとんどありません。H.ライファの“Negotiation Analysis: The Science and Art of Collaborative Decision Making”では、交渉テーブルに載せられる全ての論点の価値を「望ましさ(desirability)」という単位に換算した「テンプレート」を用いて、価値交換によるパイの増大を定量的に表します。
テンプレートによる定量評価は、当該交渉以外の最善の選択肢、いわゆる「BATNA」についても行います。こうすることで得られた値が当該交渉を続けるか、立ち去るかの留保点となり、自分が作成したテンプレートによる価値の評価が妥当なものかをチェックすることもできます。各論点の価値の総和がBATNAの値を上回っていれば「交渉」を選択することになりますので、その値が交渉の出発点となります。テンプレートの利点は自分の中の曖昧な価値を数値化することで明確にできるということです。
テンプレートは交渉相手も作成します。とりわけ、交渉の論点はお互いに事前交渉(ブレインストーミング)を行うことで抽出します。そして双方作成したテンプレートを持ち寄り、自分にとって高く、相手にとって低い価値(あるいは自分にとって低く、相手にとって高い価値)を交換(「不等価交換」)することにとって、価値の総和を大きくしていきます。
こうしたテンプレートはあくまで理論上のもので、実際の交渉で作成されることはほとんどないかもしれませんが、ハーバード大学のライファだけでなく、スタンフォード大学のマーガレット A.ニールのような心理学から交渉にアプローチしている学者でも、統合型交渉に際してテンプレートを作成することを勧めています(彼女はテンプレートを「論点・価値マトリックス」と呼んでいます)。
ここでは、ニールが著書『スタンフォード&ノースウエスタン大学教授の交渉戦略教室 あなたが望む以上の成果が得られる!』の中で紹介している「『かっこいい車を買う』論点・価値マトリックス」を題材に、それで価値交換を行った場合のシミュレーションを紹介しました。今回はお話しだけでしたが、いずれロールプレイ・シミュレーションでみなさんにもテンプレート作成およびそれによる価値交換を体験していただける機会を設けられればと思っています。
第Ⅱ部は、篠原祥さんによる、恒例の「実践的交渉戦術と実例」。今回取り上げられたのは、D.マルホトラ、M.ベイザーマン著、『交渉の達人 ──ハーバード流を学ぶ』より、「条件付き契約」と呼ばれるケースの紹介でした。
「条件付き契約」は、「交渉アナリストニュースレター2019年5月号」で紹介した「ピタ―ド戦術」のひとつ、「コンティンジェンシー契約」と同じです。これは不確定な要素に対して相手が絶対に自信を表明する時、それを逆手に取ることでリスクを回避する方法で、相手の「偽りの創造戦術」を見抜く上でも有効ですが、①情報の非対称性があり相手の方が絶対的に情報優位である場合は機能しない、②「空手形」にならないよう、曖昧な部分について双方の見解を明確にしておく必要があるなど、いくつか注意点があります。
第Ⅲ部は、同じく1級会員田口泰規さんよる発表。テーマは、「日本の歴史から見る統合型交渉のヒント~調和・融合の世界から~」です。
出雲市出身で弁護士の田口さんは、司法試験勉強中に老荘、禅、易経などを読み始め、東洋思想との出会いがあったそうです。その後は仕事の傍ら武道の先生にも師事されています。交渉術との出会いは2011年だそうですが、統合型交渉という考え方の中に、東洋思想、武道との共通点を見出されたそうです。こうしたお考えの下、2021年には独立し、円満解決を目指す法律事務所maruを開設されています。
さて、交渉理論は主にアメリカを中心として構築されたものです。したがって、その内容は多かれ少なかれアメリカの文化や慣習、価値観の影響を受けています。もちろん全体としては普遍的に有用なものですが、部分においては確かに日本人に適用するには多少のアレンジが必要なのではないかと思われる場合もあります。何故なら、理論の運用に際して、我々は無意識に東洋的精神風土の影響を受けるためです。
交渉理論に限らず、有史以来、我々は外来の文化や思想の影響を受け続けてきました。しかし、その過程で行われてきたのは、今回のタイトルにある「調和と融合」です。交渉理論の中でも「統合型交渉」はとりわけ日本人にとって馴染みやすいものだと思われますが、それでも我々にとっての統合型交渉に調和、融合させていく過程は必要でしょう。そのために、今回は、田口さんが日本の歴史の中から統合型交渉の調和・融合のヒントとなる事例をご紹介いただきました。
1.国譲り神話~幽顕分任の神勅
記紀に登場する「国譲り神話」とは、天津神(天照大御神)が国津神(大国主命)から葦原中国の国譲りを受ける説話です。712年に『古事記』、720年に『日本書紀』を編纂した大和朝廷は天津神の系譜とされます。つまり、この神話は大和による出雲支配の話なのですが、征服者側の記紀であるにも拘らず、「国譲り」という形をとっているところが興味深い点です。中国の歴代王朝が実質は簒奪であっても「禅譲」という形式をとったのと似ているかもしれません。
ただ、禅譲とも違うのは、この「国譲り」の過程で、天照大御神は①大国主命が住む「天日隅宮(後の出雲大社)」を「天照大神の住居と同じように、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築く」こと、②第二子の天穂日命を大国主に仕えさせること、③顕界は天照の子孫が治め、幽界は大国主が治めること(「幽顕分任」)、つまり政治と祭祀を分離して祭祀は出雲に任せることを申し出たという点です。実際、2000年の発掘調査では、高さ48mあったと推定される巨大柱の遺構が発見されています。
つまり、統合的解決のヒントとして、
①話自体が破壊・征服ではなく統合・融合の物語である。
②異次元の解決(「土地」の支配権の分配から「幽界/顕界」という別次元の分配を行った)
③互敬・互譲であり、一方的支配ではない。
④どちらが勝ったか(勝ち方、負け方をデザインする)
といった要素が「国譲り神話」に見られます。
2.丁未の乱~十七条憲法
538年に仏教が伝来すると、587年、仏教の礼拝を巡って崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏との間で武力衝突が起こります(丁未の乱)。この結果、物部氏が敗れ、本格的に仏教信仰が始まります。蘇我氏とともに崇仏派だった聖徳太子が日本初の官寺、四天王寺を建立したのは593年のことです。604年には、聖徳太子が日本初の成文法、十七条憲法を制定。その中で、「篤く三宝を敬へ(2条)」と外来の仏教を信奉することを布告します。
ところが、そのわずか3年後(607年)、推古天皇が「神祇禮祭の詔」を発します。簡単に言えば、「私の治世に至り、どうして天地の神々の祭りを怠ることができようか。どうか群臣たちも心を尽くして天地の神々を拝することに努めるように」というお触れです。つまり、従来の神々に仏教がとって代わるのではなく、仏と共に神々をも敬うようにということです。実際、その後の日本では神道と仏教が融合して独特の信仰体系として再構成されていきます(神仏習合)。
さらに、「十七条憲法」に見られる統合的解決のヒントを見ていきましょう。
1条
「和(やわらぎ)を大切にし人といさかいをせぬようにせよ。人にはそれぞれつきあいというものがあるが、この世に理想的な人格者というのは少ないものだ。それゆえ、とかく君主や父に従わなかったり、身近の人々と仲たがいを起こしたりする。しかし、上司と下僚がにこやかに仲むつまじく論じ合えれば、おのずから事は筋道にかない、どんな事でも成就するであろう。」
10条
「心に憤りを抱いたり、それを顔に表したりすることをやめ、人が自分と違ったことをしても、それを怒らないようにせよ。人の心はさまざまでお互いに相譲れないものをもっている。相手がよいと思うことを自分はよくないと思ったり、自分がよいことだと思っても相手がそれをよくないと思うことがあるものだ。自分が聖人で相手が愚人だと決まっているわけではない。ともに凡夫なのだ。是非の理をだれが定めることができよう。お互いに賢人でもあり、愚人でもあるのは、端のない鐶のようなものだ。それゆえ、相手が怒ったら、むしろ自分が過失を犯しているのではないかと反省せよ。自分ひとりが、そのほうが正しいと思っても、衆人の意見を尊重し、その行うところに従うがよい。」
※訳文はこちらから引用させていただきました。
① 「和(やわらぎ)」という理念。統合に向かう原理(例えば上の神仏(儒)習合やクリスマスの習慣)
② 多様性、相容れなさの容認。価値判断の保留(人の違うことを怒らざれ)。
③ ともに凡夫、ともに賢愚(交渉相手に向かう心構え。あなどらない)。
3.喧嘩両成敗
645年、大化の改新、672年、壬申の乱を経て日本は唐の制度を取り入れて中央集権化を進めていきます。701年には唐の律令を参考に「大宝律令」が施行されます。しかし、日本の律令は定着することなく、平安時代に入ると形骸化していきます。やがては公家法、寺社法、武家法などが乱立していくこととなりました(中世法)。戦国時代に入ると、各地の守護大名や戦国大名の間で分国法が制定されていきます。分国法に見られる大きな特色の一つが「喧嘩両成敗」です。
それまでの中世法においては、例えば南北朝時代の法諺に「獄前の死人、訴えなくんば検断なし(牢獄の前に死体が転がっていても、訴える者がいなければ捜査は始まらない)」というように、自力救済色の強いものでした(例えば、曽我兄弟の仇討ち)。これに対し、「喧嘩両成敗」は、自力救済を否定し、領主に裁判権を委ねさせるものです。
例えば、『今川仮名目録』8条は、次のようになっています。
「喧嘩におよぶ輩は理非を論ぜず双方とも死罪に處すべきである。はたまた、相手から喧嘩を仕掛けられても堪忍してこらえ、その結果疵を受けるにおよんだ場合、喧嘩の原因を作ったことは非難すべきであるが、とりあえず穏便に振る舞ったことは道理にしたがった幸運として罪を免ぜられるべきである」
※訳文はこちらから引用させていただきました。
また『甲州法度之次第』17条にも「喧嘩の事是非におよばず成敗加ふべし。但し取り懸るとも雖も 堪忍せしむるの輩に於いては罪科に処すべからず」と、同様の記述があります。
喧嘩両成敗は、現在でも慣習として根強く残っているのではないでしょうか?喧嘩両成敗に見る統合的解決のヒントとしては、
① 「衡平」、「均衡」のバリエーション。普遍的原理を定め、優劣をつけず、痛み分けを指向する。
② 抑止効果(本当に両成敗することが目的ではない)
4.山岡鉄舟の西郷隆盛との談判~江戸城無血開城~無刀流
有名な江戸城無血開城は西郷隆盛と勝海舟との会談によって実現したと一般に理解されていますが、実際は剣豪山岡鉄舟と西郷との駿府における会談で事実上決せられたと言われています。
1867年、徳川慶喜は大政奉還を行い、朝廷への恭順の意思を示します。しかし、朝廷側はこれを信用せず、討幕軍は駿府城まで迫ります。慶喜は恭順の意を伝えるため、山岡鉄舟に駿府行きを命じました。駿府に入った鉄舟が討幕軍の陣営の中を丸腰で「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で呼ばわって歩いて行ったというのは、鉄舟の胆力を示すエピソードとして有名です。
西郷と面会した鉄舟は、慶喜の恭順の意向を取り次ぐ条件として、以下の5つを提示します。
①江戸城の明け渡し
②城中の兵を向島へ移す
③兵器引き渡し
④軍艦引き渡し
⑤慶喜を備前池田家に預り
しかし、鉄舟はこの内最後の条件を拒否しました。西郷は、これは朝命であると脅しましたが、鉄舟は「もし島津公が同じ立場であったなら、あなたは受け入れられないはずだ」と反論しました。西郷はこの鉄舟の忠義心に心を動かされたと言われています。結局、慶喜は水戸藩謹慎となり、江戸城無血開城が実現しました。
この山岡鉄舟から学べる統合的解決のヒントは、次のようなものが挙げられます。
①捨て身、真心一身(誠実であること)
鉄舟の遺した歌に、「まこころの ひとつ心の こころより 萬のことは なり出にけむ」というものがあります。全ては自分の真心から成就するのだという意味です。西郷との交渉で圧倒的に弱い立場にあった鉄舟が、西郷の条件を全て呑んで妥協していたとしたら、慶喜の運命は変わっていたかもしれませんし、江戸は戦渦に巻き込まれていたかもしれません。また、その混乱に乗じた列強の介入を招き、日本の運命すら変わっていた可能性があります。
②相手の信頼を得る。
この時、鉄舟と西郷は初対面でしたが、二人の間の信頼関係は生涯にわたり続きました。明治6年、西郷たっての依頼で、鉄舟は明治天皇の侍従(教育係)となります。逆に明治7年、西南戦争前、西郷を説得するため、新政府は鉄舟を西郷の下に派遣しました。この信頼関係も、両者が持つ「忠義」と「至誠」いう強い価値観で結びついたからこそ築かれたものでしょう。
③ 無刀流剣術、自然の勝
1885年、鉄舟は49歳で一刀正伝無刀流を開きます。鉄舟の有名な言葉に「無刀とは何ぞや。心の外に刀なきなり。敵と相対する時、刀に依らずして心を打つ。是を無刀という」というものがあります。最終的な局面では、小手先のテクニックではなく心が大切になるということです。また、「無刀」とは、勝負を争わず、自然の勝ちを実現するということです。交渉も争い(相対的勝利)ではなく、争いを超越したところで勝ちをなす(絶対的勝利)という点で目指す境地は同じだと言えるでしょう。
今回田口さんが挙げられた4つの歴史的エピソードから、皆さんは何を感じ取られたでしょうか?
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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