窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

ウエスものがたり 【第三回】日本の主要輸出品目だったウエス

2008年06月25日 | ウエスものがたり
 一方、開国したばかりの日本に大量の綿布があることに気づいた西欧諸国はきっと驚いたことでしょう。われわれ日本人は木綿というと何か庶民的な、安いものというイメージを持っています。例えば徳川家光が慶安2年(1649年)に出したとされる、俗にいう「慶安のお触書」には「(前略)百姓は衣類之儀、布木綿より外は帯、衣裏にも間敷事」とあり、貧しい庶民でも木綿は着ても構わない、つまり木綿は贅沢品でないという認識が江戸時代の初期からあったことを示しています。ところが西欧諸国において木綿や麻は大変な貴重品でした。18世紀のヨーロッパで最大の貿易は何と奴隷貿易だったわけですが、その理由は砂糖や綿のプランテーションに大量の労働力を必要としていたからで、裏を返せばそれほど当時の西欧諸国は木綿の確保に躍起になっていたということなのです。余談になりますが幕末に日本と修好通商条約を結ぶために来日したスイスのアンベールは当時の江戸深川を観察し、「(前略)麻は、ヨーロッパの織物としては、最も高価なものなのに、日本のような国ではきわめてつまらぬものとみなされているのである」(『続・絵で見る幕末日本』講談社学術文庫)とわざわざ本国への報告書に書き残しています。

 加えて日本人には当時から風呂に入るという習慣が一般庶民の間にも浸透していました。現在のわたしたちの感覚からいえばいかにも当たり前のようなのですが、当時の欧米諸国はまだ風呂に頻繁に入るという習慣がありませんでした。実際、アメリカの大統領が住むホワイトハウスでさえ初めてバスタブが設置されたのは1853年、つまりペリーが江戸湾に現れた年のことだったのです。ですから先ほどと同じく幕末に日本を訪れた欧米人は一様に頻繁に入浴するという日本人の習慣に驚いています(尤も彼らは日本人に皮膚病や卒中で死ぬ者が多いのはこの入浴という習慣が原因である、というように否定的に捉えていたようです)。話がそれてしまいましたが、当時の日本は一般庶民に綿布が普及していたばかりでなく、入浴の習慣により洗い晒しの綿布が豊富に存在するというまさに良質のウエス原料を産出する土壌があったのです。
 
 先進工業国である欧米諸国が大量に消費する拭き物に最適な綿布に着目したのは当然の成り行きといえました。ウエスは欧米向けの輸出商品として一大産業となり、昭和10年の統計では日本の主要輸出品目第10位に位置するほどまでに成長したのでした。ウエスの輸出はその後、戦後の混乱期を除き高度成長期まで盛んに続きましたが、日本がコスト高の国になったこと、また昭和40年代以降輸出先であった欧米でも日本の技術を真似てウエスを製造するようになったことなどから今ではほとんど行なわれなくなりました。

続・絵で見る幕末日本 (講談社学術文庫)
A. アンベール
講談社

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繊維リサイクルの歴史 【009】伝統的回収システムの崩壊

2008年06月25日 | 繊維リサイクルの歴史
昭和29年の秋、東京や大阪の一部の学校で廃品の「学校回収」が行われました。今日行われている「集団回収」と似ていますが、これは児童に家庭から古新聞や古雑誌、ぼろ、空き瓶、鉄くずなどを持ってきてもらい、それを売却して学校の諸経費に当てようというものでした。

 今日ならば学校の集団回収に文句をいう人はいないでしょうが、当時この運動は買出人や建場(収集人から再生資源を集荷する業者)関係者の反発を招きました。このころはまだ都内だけで買出人と収集人合わせて二万人近い人が屑物を集めて生活していましたから、それなりに抵抗があったのです。しかしこのような今からではちょっと考えにくい問題も、やがて物が豊富に出回る時代になると自然に消滅していきます。日本は歴史を通じて常に物の足りない時代であったのですが、高度経済成長を遂げたことにより初めて「物が余る」という時代に突入したのです。

 物余りの時代になったことにより、「くず屋」と呼ばれた資源回収業者は資源を回収しても生活できないという事態に直面するようになりました。東京都内のデータによると、わが国の経済発展とは裏腹に屑物の買出人や収集人の数は昭和27年をピークに減少の一途をたどっています。商売として成り立たなくなったこと、後継者がいなかったことなどが原因と考えられています。こうした動きに昭和39年に開催された東京オリンピックが拍車をかけました。この年、都内だけで収集人が一度に2000人も減少しました。その理由は、東京オリンピックを控え都内からゴミ箱が一斉に撤去されたためです。

 東京都のごみ収集は当時、「厨芥」と「雑芥」の二分別で行われていました。「厨芥」とは台所の生ごみのことで、「手車」という大八車に木枠を取り付けたような車が回収しました。「雑芥」は紙屑や木屑、ぼろ、空き缶、ガラスなど、生ごみ以外のごみを言います。これは家の外の道端に設置したゴミ箱に捨てました。これを荷車やトラックに積んで回収していたのです。お金を払って資源を回収する買出人に対して、道端からごみを拾い集める業者を「ばた屋」とか「拾い屋」と言いました。彼らにとって文字通り道端のゴミ箱が大切な生活源だったのですが、これが東京オリンピックで景観を損なうという理由から一斉に撤去されてしまったことにより、大勢の収集人が廃業に追い込まれたのでした。いずれにしても物が余るようになりつつあった時代ですから、遅かれ早かれ商売替えせざるを得なかったのかもしれません。

 東京オリンピックを機にゴミ箱が一斉撤去されたことにより、ゴミ収集は今日行われている「ステーション方式」に変わります。これは業者が回収にくるのを待たなくても良いので住民には当初から好評でした。しかしこうしたごみ収集の近代化が、一方では何でも気軽に捨てるという習慣を助長した一因になったのかもしれません。

 いずれにせよ時代の流れとはいえ、江戸時代から続いた町のくず屋さんという生業はこうして衰退してゆき、屑物が建場に集まり、選分され、問屋を通して工場に送られるという伝統的な資源回収システムは昭和30年から40年の初めごろにほとんど崩壊してしまったのです。

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ウエスものがたり 【第二回】日本文化が生み出したウエス

2008年06月24日 | ウエスものがたり
さて、ウエスは一般にぼろ、つまり使い古した衣料から作られます。何故わざわざ使い古した布を使うのかといいますと、その方が油をよく吸う良質の拭き物になるからです。ウエスは木綿布が中心ですが、新品の木綿は繊維に脂分を含んでおり、水や油の吸い取りが良くありません。皆さんもおろしたてのタオルで髪を拭くと水の吸収が悪くて使い難いという経験をしたことがあると思いますが、それと同じ理屈です。しかし木綿は何度も洗濯を重ねることで脂分が抜け、繊維の表面も程よく荒れて水や油を良く吸い取るようになります。日本人は古くからこの特性を良く知っており、家庭の中で着古した部屋着(この場合、浴衣のような和服を指していますが)をほどいて雑巾として使い、果ては台所のかまどの燃料とするまで徹底して活用していたのです。

 その様な文化的背景があったからこそ、明治の近代化がおこったとき機械や軍事装備のメンテナンスに欠かせない拭き物に最適な綿布を集め、雑巾をつくり工場や船舶会社あるいは軍に納品する、いわゆるウエス屋が産業として成立したのでした。ウエス業はまさに日本文化が生み出したユニークな業種だったと言えるかもしれません。

大江戸リサイクル事情 (講談社文庫)
石川 英輔
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繊維リサイクルの歴史 【008】繊維工業の隆盛

2008年06月24日 | 繊維リサイクルの歴史
朝鮮動乱特需を第一のピークに、その後の日本経済は好況不況の波を繰り返しながらも発展の道を歩みます。そして世界史上空前の高度経済成長を遂げるのでした。

 そんな中、ぼろの相場は比較的落ち着いた動きで推移します。それは昭和30年ごろには早くも綿糸や毛糸の生産が戦前の水準に達したこと、化学繊維が急速に伸びたこと、さらに戦前にはなかった合成繊維の生産が加わったことなどにより、国内需要が十分に満たされてしまったためです。ご存知のとおり繊維工業は後に途上国の追い上げに会うまで日本の基幹産業として成長を遂げていきました。

 繊維工業が戦前の水準を上回る発展を遂げた昭和30年代、産業界の設備投資は次に造船、鉄鋼、電気、機械、石油化学などの重工業に移ります。そして昭和31年7月に起きたスエズ動乱をきっかけにいわゆる神武景気(昭和29年11月~33年6月)と呼ばれる好景気が訪れました。

 重化学工業の発展にともなってウエスの需要も伸び、ぼろの価格も上昇しました。この好景気を受け、労働集約的色彩の強い故繊維業界においてもささやかながら設備の近代化が図られました。近代化というといかにも大袈裟なのですが、例えばウエスの裁断がかみそりから電動カッターに変わり、選分ラインにはベルトコンベアが導入されるようになったという程度のことです。

 一方、ウエスの海外輸出も昭和27年ごろ再開されました。アメリカが日本産の良質な綿ぼろを欲しがっていたためです。輸出高は金額ベースで昭和29年には早くも1億円を突破し、以後昭和35年10億円、昭和40年20億円と昭和48年に第一次オイルショックが起こるまで順調に伸びていきました。このように故繊維業界も繊維産業をはじめ、鉄鋼、造船、機械、自動車など日本の高度成長をリードした産業と共に発展の道をたどっていきました。

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ウエスものがたり 【第一回】ウエスの由来

2008年06月23日 | ウエスものがたり


 主に工場などで油ふきなどに使われる雑巾をウエスといいます。ウエスという一風変わった名前は、英語でくずやぼろを意味する”Waste”が訛ってできたものだといわれています。しかし日本には昔から「雑巾」や「布巾」という呼び名があるのに何故「ウエス」などと呼ばれるようになったのでしょうか。日本が明治の近代化を迎えた当時、西欧諸国では軍艦や鉄道などのメンテナンスに糸くずが使われていました。しかし産業革命前の段階にあった日本に糸くずはなく、そこでその代わりとして豊富にあったぼろ(古布)を使うようになりました。しかし「糸くず」を意味する”Waste”という言葉はそのまま流通したので、やがてそれが訛って日本語化し「ウエス」となったといわれています。現在ウエスという言葉は広義で拭き物、あるいは汚れを取るために使うもの全般を指して使われる場合もあります。ちょっと変わったところでは、よく駅のホームで汚物処理におがくずを使っているのを見かけますが、あれも「おがくずウエス」と呼ばれています。しかし、これからいうウエスは元々の意味でのウエス、すなわちぼろ(古布)を原料としているものをいいます。

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TV放送予定のお知らせ

2008年06月23日 | リサイクル(しごと)の話
2008年7月6日(日)17:30-18:00
フジTV「FNN スーパーニュース ウィークエンド」
当社秦野工場がとりあげられます。

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繊維リサイクルの歴史 【007】戦禍からの復興

2008年06月23日 | 繊維リサイクルの歴史
戦火が激しくなるにつれ、生活物資はますます窮乏して行きました。繊維についても、前回お話した綿製品にスフを30%混入する規制などは最早遠い過去の話となり、桑の皮などおよそ繊維と名のつくものは何でも混入するようになりました。毛織物に至っては犬や牛の毛まで用いられ、羊毛が一割でも入っていればそれこそ上等な毛糸として流通したのです。このように物資が底をついた上、さらに空襲が追い討ちをかけます。鉄くずと違い、ぼろや紙は空襲とともに灰燼に帰してしまいました。

 昭和20年、戦争が終わりました。ぼろの買い入れは自由になり回収したものを統制会社に売る仕事が再開され始めましたが、市中から回収されるぼろはとことん使い古されたひどいものばかりだったので、この時期の回収は軍需工場や占領軍の払い下げ物資を細々と扱っていたに過ぎませんでした。商工省は昭和22年、戦時中以来の故繊維維持特別回収を実施しました。この場合は戦時中と異なり民需のためのガラ紡原料確保が目的だったわけですが、故繊維維持特別回収は全国的におよそ一年がかりで実施され、これを機に戦前の統制時代に入る前の組合が各地で次々に再建され始め、岡崎などのガラ紡産地もようやく活気を取り戻しつつありました。

 昭和25年6月25日、朝鮮の三十八度線で戦火が起こりアメリカ軍を主力とする国連軍が参戦すると、最も近い日本がその出撃基地および物資の補給基地となりました。その結果、いわゆる朝鮮動乱特需が生まれ、日本経済と共に屑物業界も沸き立ちました。業界の中でこの好景気は「金へん、糸へん景気」などと呼ばれました。漢字で書いて「金へん」や「糸へん」のつくもの、すなわち金属や繊維が軒並み値上がりしたためです。既に好調だったガラ紡産地はさらに活気づき、特に「ガチャ万時代」と呼ばれました。「織機がガチャンと音をたてる度に一万円稼ぐのだ」という意味です。

 しかし昭和28年7月に朝鮮休戦協定が調印されると、業界は一転して大不況となり、高値を追って在庫を積み増ししていた業者は相次いで苦境に陥ることとなったのです。

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繊維リサイクルの歴史 【006】軍需景気で活況を呈するが

2008年06月22日 | 繊維リサイクルの歴史
昭和2年の金融恐慌、続く昭和4年の世界恐慌により故繊維業界も他の産業と同様、物が全く動かないという深刻な状況に陥りました。ところが昭和6年に満州事変が起こります。既にお話したように兵器のメンテナンスなどに欠かせないウエスですから、この軍需を受けて故繊維業界は一転して活況を呈しました。軍需で伸びたのはウエスだけではありません。ガラ紡原料は軍服やテント、毛布などに使われましたし、綿ぼろはセルロイド原料や火薬の原料になるなど、当時故繊維はあらゆる場面で活用されていたのです。

 その後、日中戦争に突入すると大陸での戦争は泥沼化の様相を呈し、次第に物資が不足するようになります。日中戦争の始まりは昭和12年の7月ですが、この年の12月、綿製品にスフを30%混入することが法的に義務付けられました。いわゆる物資統制の始まりです。

 物資統制はやがて国民の生活必需品である衣類にも及び、昭和13年4月国家総動員法が公布され、6月29日にはついに綿製品の国内向け製造販売が禁止となりました。このよう物資の極端な欠乏状態の中では自ずから手持ちの衣類を大切に使うか、あるいはリサイクルするしか方法はありません。しかし商工省の見解では禁止された綿製品はあくまでバージン原料である綿花を原料とする物とされていたため、これまで洋式に押されっぱなしだったガラ紡が再び脚光を浴びるようになったのです。バージンが駄目ならリサイクルというわけです。また繊維工業はやがて軍需を除いて不要不急の業種と見なされるようになり、また鉄資源の不足から多くの工場で洋式の機械がスクラップにされました。したがって、一般の国民生活を支える衣料供給は設備の面でもガラ紡に頼らざるを得なくなったのです。しかし昭和16年、太平洋戦争に突入すると、そのぼろでさえも不足するような状態となってしまいました。

 国家総動員法に基づく物資動員計画は国内のあらゆる物資を国が掌握し、それを戦争に使おうというものでした。このため昭和13年にまず商工省の指示で「廃品回収懇談会」が設けられます。当時の故繊維業界はイメージが廃品の盗品とだぶることもあってか、明治以来どちらかというと取締りの対象となる日陰的存在でしたが、その取り締まっていた国が一転して業界の把握に乗り出したのです。昭和14年になると、「活かせ廃品、興亜の資源」といった官製のスローガンが喧伝されるようになります。皮肉なことに取締りの対象だった故繊維業界は一転してお国のために奉公する存在となったのでした。

 しかし昭和15年から16年にかけて故繊維を含む屑物業界は商工省直属の統制会社の下に統合されることになりました。これに加われなかった問屋や建場は廃業に追い込まれ、大勢の買出し人なども仕事を失い、軍需工場や戦場に駆り出されていくことになりました。

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繊維リサイクルの歴史 【005】再生資源業界の成立と発展

2008年06月21日 | 繊維リサイクルの歴史
第一回でお話したように、江戸時代から屑物や古着、古道具などを扱う業者は大勢いましたが、いわゆる産業として一つの業態を形成するには至っていませんでした。これらがいわゆる「再生資源業」として成立したのは明治の中ごろから大正時代にかけてのことといわれています。そしてその再生資源業の黎明がぼろを扱う故繊維産業だったのです。当初の故繊維産業では、製紙原料、製糸原料、そしてウエスというのが三本柱で、これにともなって、ぼろを選分する業者、洗濯する業者、ウエスをカットする職人などさまざまな仕事が登場しました。

 特にウエスは第一回でお話したように昭和10年ごろには日本の主要輸出商品にまで成長し一大産業として活況を呈しました。話しはそれますが、ちょうどこの頃ナカノ株式会社の創業者である中野静夫も上記の三本柱に原料としてのぼろを供給する故繊維問屋としてその前身となる中野商店を興しました。昭和9年のことです。しかし陽気満つれば陰に入るというように、やっと第一次世界大戦後の不況をのりこえた昭和12年に日中戦争が始まり、だんだん時局が厳しくなるにつれ資源を扱う故繊維業界は必然的に軍事体制の一翼として組み入れられていきました。その前に次回はこの昭和初期から終戦までをもう少し詳しくお話したいと思います。

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繊維リサイクルの歴史 【004】反毛のはじまり

2008年06月20日 | 繊維リサイクルの歴史
 イギリスの産業革命が毛織物、綿織物から始まったように、近代化当初産業の花形は繊維工業でした。洋紙という全く新しい技術を入れなければならなかった製紙工業とは違い、繊維工業は諸藩で産業奨励が盛んに行なわれていた背景があるためか、まず国内における技術改良から発展しました。明治8年長野県の僧、臥雲辰致が独自の技術で綿紡績機を開発します。これは紡機を回すとガラガラと音がしたことから「ガラ紡」と呼ばれました。小型の機械ではありましたが、従来手で糸を紡いでいた時代に比べ生産性を数十倍から百倍も高める当時としては画期的な発明でした。もちろんそれ以前から慶応三年に島津藩が洋式紡績工場を建設したのを始め、明治5年には官営富岡製糸工場が開業するなど西洋の技術も導入されてはいましたが、「ガラ紡」は一人で扱える小型のものであったことから、伝統的な綿糸の産地にたちまち普及していきました。しかし明治20年ごろになると西洋式紡績工場も軌道に乗り、両者のシェアは逆転します。紡績の主役から退いた「ガラ紡」はその後、ぼろをもう一度綿状に戻して糸を作る地場産業(これを通常の紡績と区別して特殊紡績と呼びます)で活躍しました。さて、大正時代にはこのぼろを綿状に戻したものを原料として足袋底や帆布、じゅうたんに用いる緯糸などが生産されるようになりますが、こうしたぼろを綿に戻す再利用技術を「反毛(はんもう)」と呼んでおり、この技術は現在でも引き継がれています。

 反毛する素材としては木綿や毛など様々にありますが、反毛の始まりは木綿よりも毛織物が先で明治37年に始まったと言われています。毛織物は近代化に伴いまず洋式の軍服に始まり、羅卒(警察官)、郵便夫、鉄道員の制服、官吏(役人)の制服など官需が先行しました。当時西洋の服飾の中心は羊毛ですから、西洋化とはすなわち服飾において毛織物を大量に必要とするということでもあったのです。当然毛織物の原料である羊毛の国産化が試みられましたが、結果はことごとく失敗におわり、わが国は羊毛を海外に依存せざるを得ませんでした。そのため毛織物は大変貴重なものであり、一度使った毛織物からもう一度糸を再生する技術が必然的に発展したものと考えられます。

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