窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

ウエスものがたり 【第二回】日本文化が生み出したウエス

2008年06月24日 | ウエスものがたり
さて、ウエスは一般にぼろ、つまり使い古した衣料から作られます。何故わざわざ使い古した布を使うのかといいますと、その方が油をよく吸う良質の拭き物になるからです。ウエスは木綿布が中心ですが、新品の木綿は繊維に脂分を含んでおり、水や油の吸い取りが良くありません。皆さんもおろしたてのタオルで髪を拭くと水の吸収が悪くて使い難いという経験をしたことがあると思いますが、それと同じ理屈です。しかし木綿は何度も洗濯を重ねることで脂分が抜け、繊維の表面も程よく荒れて水や油を良く吸い取るようになります。日本人は古くからこの特性を良く知っており、家庭の中で着古した部屋着(この場合、浴衣のような和服を指していますが)をほどいて雑巾として使い、果ては台所のかまどの燃料とするまで徹底して活用していたのです。

 その様な文化的背景があったからこそ、明治の近代化がおこったとき機械や軍事装備のメンテナンスに欠かせない拭き物に最適な綿布を集め、雑巾をつくり工場や船舶会社あるいは軍に納品する、いわゆるウエス屋が産業として成立したのでした。ウエス業はまさに日本文化が生み出したユニークな業種だったと言えるかもしれません。

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繊維リサイクルの歴史 【008】繊維工業の隆盛

2008年06月24日 | 繊維リサイクルの歴史
朝鮮動乱特需を第一のピークに、その後の日本経済は好況不況の波を繰り返しながらも発展の道を歩みます。そして世界史上空前の高度経済成長を遂げるのでした。

 そんな中、ぼろの相場は比較的落ち着いた動きで推移します。それは昭和30年ごろには早くも綿糸や毛糸の生産が戦前の水準に達したこと、化学繊維が急速に伸びたこと、さらに戦前にはなかった合成繊維の生産が加わったことなどにより、国内需要が十分に満たされてしまったためです。ご存知のとおり繊維工業は後に途上国の追い上げに会うまで日本の基幹産業として成長を遂げていきました。

 繊維工業が戦前の水準を上回る発展を遂げた昭和30年代、産業界の設備投資は次に造船、鉄鋼、電気、機械、石油化学などの重工業に移ります。そして昭和31年7月に起きたスエズ動乱をきっかけにいわゆる神武景気(昭和29年11月~33年6月)と呼ばれる好景気が訪れました。

 重化学工業の発展にともなってウエスの需要も伸び、ぼろの価格も上昇しました。この好景気を受け、労働集約的色彩の強い故繊維業界においてもささやかながら設備の近代化が図られました。近代化というといかにも大袈裟なのですが、例えばウエスの裁断がかみそりから電動カッターに変わり、選分ラインにはベルトコンベアが導入されるようになったという程度のことです。

 一方、ウエスの海外輸出も昭和27年ごろ再開されました。アメリカが日本産の良質な綿ぼろを欲しがっていたためです。輸出高は金額ベースで昭和29年には早くも1億円を突破し、以後昭和35年10億円、昭和40年20億円と昭和48年に第一次オイルショックが起こるまで順調に伸びていきました。このように故繊維業界も繊維産業をはじめ、鉄鋼、造船、機械、自動車など日本の高度成長をリードした産業と共に発展の道をたどっていきました。

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