都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
東京国立近代美術館 「痕跡-戦後美術における身体と思考」 1/30
東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園)
「痕跡-戦後美術における身体と思考」
1/12~2/27
日曜日は竹橋の近代美術館で「痕跡」展を観てきました。企画力に優れた展覧会でした。
さて、いきなりですが「痕跡」とは何でしょう。会場にあったパンフレットによると、それは、「何かに似ているのではなく、何ごとかの結果として意味を与えられたイメージ。」(一部改変。)だそうです。私のような素人に言わせれば、「美術とは何か。」という問題はさて置き、美術的行為や美術品そのものが、何かの「痕跡」となり得るのではないかと思ってしまいます。しかしそれは、この展覧会で定義する「痕跡」と異なるようです。なぜなら、「痕跡」には必ず「結果としての意味」が付加されていなくはならない。つまり、ただの何かの跡では、たとえそれが美術的行為の結果であっても、決して「痕跡」とはなり得ないからです。う~ん、分かったような分からないような…。これ以上突っ込むのは止めておきます。
この展覧会は、その「痕跡」の意味を、八方向の視点から考える構成となっています。「視点」・「身体」・「物質」などのカテゴリーに入れられた「痕跡」は、そこに観る者が何らかの意味を見いだせるように、それぞれの関係性を浮き出させながら意図的に配置してあります。もちろん、そんなカテゴリーなど無視して、作品だけと向き合っても良いのでしょう。ただ、ここは大人しく美術館のカテゴリーを利用させていただきながら、順序良く「痕跡」を鑑賞しました。気に入らない作品でも、一定の「痕跡」の範疇へ放り込まれると、新たな価値を持つ。思わぬ発見があるやもしれません。
一番目は「表面」です。まず、入り口すぐにあったルーチョ・フォンタナの「空間概念」に目が奪われました。膨らみを持つ赤い生地に、鋭く美しい曲線を描いた切れ込みが三つ。緊張感と、切り口から覗く深淵さが素晴らしい…。いきなり強烈な「痕跡」と出会います。また、イブ・クラインがガスバーナーでキャンバスを焦がしたという作品も、偶然と恣意の狭間で揺れるような表情に惹き込まれました。そして目を転じると李禹煥。二つある作品のうち、特に「突き」に魅力を感じます。丁寧に一つずつ突いて開けたような小さな穴。それが縦と横、カンヴァスいっぱいにずらりと並ぶ。じっと見つめていると、一つ一つの穴から、何かの音が、一定の法則を持って発せられているような気分になります。彼の作品は、やはりどこかリズム的感覚と切り離せない部分があるようです。「痕跡」が音となるなんて、何とも素敵ではありませんか。(ちょっとオーバーに…。)
三つ目の「身体」はこの展覧会の核心部分です。ボディ・プリントとして取り上げられていたイブ・クラインの「人体測定」と、アナ・メディエッタの「無題」。もちろん、圧倒的に前者が美しいですが、メディエッタの作品から、身体を酷使した者だけが生み出すような苦しみを感じます。そして、そんな苦しみも「痕跡」の意味となるのでしょう。思わず目を背けたくなりましたが、その価値は感じました。また、価値と言えば、既に古典となったウォーホルもあります。「ピス・ペインティング(小便絵画)」。その名の通り、尿をかけて描いた作品で、まさにそこには最も身体的な「痕跡」がくっきりと残されています。二度と見たくありませんが、これ以上の「痕跡」はないでしょう。この展覧会では絶対に欠かすことができない作品だと思いました。しかし、「痕跡」の対象が体となると、表現が実に生々しくなってきます…。生理的な反応(嫌悪感など。)ばかりが表に立ってしまいましたが、それもまたこのカテゴリーの面白さなのかもしれません。
五番目の「破壊」はどれも動的です。村上三郎の「入口」は、その破壊行為が行われてしまえば、「痕跡」だけに意義を持つような作品でした。また、実際にそれを行ったシーンを記録したビデオも放映されていましたが、それはそれで面白いものの、やはり「破壊」の瞬間を共有していれば、もっとこの「痕跡」から大きな意味を感じたような気がしました。どうなのでしょうか。
六番目の「転写」には、作曲家のジョン・ゲージの作品がありました。こんな所で出会えるとは意外です。「自動車タイヤプリント」という作品で、ロバート・ラウシェンバーグとの共作ですが、ただ自動車のタイヤの軌跡をプリントしただけです。しかも、その自動車にどのようなドラマがあったのかも告知されずに、ただ単に軌跡のみが提示されます。この作品へは「痕跡」の意味も付加できないのでしょうか。ただの「痕跡」と、この展覧会が意味付けている「美術としての痕跡」。その二つの境界線は、もしかしたら曖昧なのか…。そんなことも思いました。
最後は「思考」です。ここでは、メル・ボックナーの「メジャメント:影」が一押しです。脚立にライトを当てて、その影を写し出す。展示の仕方も良かったのでしょうか、脚立と影のコントラストが大変に美しい作品です。ライトを消してしまえば、脚立の「痕跡」は一瞬で消えてしまいますが、それを予感させるあたりもまた魅力となるのでしょう。面白いと思います。
全般的に初めの方の作品が楽しめました。ただ、展示のスタイルとして、「美術としての痕跡」に焦点をあてながらそれを探っていく方法は見事です。尿をぶっかけた作品や、体を切り刻んで血を垂れ流す様を見せるビデオアート(あの世界観は共有したくないです。)があろうと、「痕跡」の枠に意義を見いだせば、それも芸術となる?!素晴らしい作品から、直ちにゴミ箱へ入れて欲しいと思ってしまう作品(失礼。)まで、バリエーションに富んだ「痕跡」が楽しめました。おすすめできます。
「痕跡-戦後美術における身体と思考」
1/12~2/27
日曜日は竹橋の近代美術館で「痕跡」展を観てきました。企画力に優れた展覧会でした。
さて、いきなりですが「痕跡」とは何でしょう。会場にあったパンフレットによると、それは、「何かに似ているのではなく、何ごとかの結果として意味を与えられたイメージ。」(一部改変。)だそうです。私のような素人に言わせれば、「美術とは何か。」という問題はさて置き、美術的行為や美術品そのものが、何かの「痕跡」となり得るのではないかと思ってしまいます。しかしそれは、この展覧会で定義する「痕跡」と異なるようです。なぜなら、「痕跡」には必ず「結果としての意味」が付加されていなくはならない。つまり、ただの何かの跡では、たとえそれが美術的行為の結果であっても、決して「痕跡」とはなり得ないからです。う~ん、分かったような分からないような…。これ以上突っ込むのは止めておきます。
この展覧会は、その「痕跡」の意味を、八方向の視点から考える構成となっています。「視点」・「身体」・「物質」などのカテゴリーに入れられた「痕跡」は、そこに観る者が何らかの意味を見いだせるように、それぞれの関係性を浮き出させながら意図的に配置してあります。もちろん、そんなカテゴリーなど無視して、作品だけと向き合っても良いのでしょう。ただ、ここは大人しく美術館のカテゴリーを利用させていただきながら、順序良く「痕跡」を鑑賞しました。気に入らない作品でも、一定の「痕跡」の範疇へ放り込まれると、新たな価値を持つ。思わぬ発見があるやもしれません。
一番目は「表面」です。まず、入り口すぐにあったルーチョ・フォンタナの「空間概念」に目が奪われました。膨らみを持つ赤い生地に、鋭く美しい曲線を描いた切れ込みが三つ。緊張感と、切り口から覗く深淵さが素晴らしい…。いきなり強烈な「痕跡」と出会います。また、イブ・クラインがガスバーナーでキャンバスを焦がしたという作品も、偶然と恣意の狭間で揺れるような表情に惹き込まれました。そして目を転じると李禹煥。二つある作品のうち、特に「突き」に魅力を感じます。丁寧に一つずつ突いて開けたような小さな穴。それが縦と横、カンヴァスいっぱいにずらりと並ぶ。じっと見つめていると、一つ一つの穴から、何かの音が、一定の法則を持って発せられているような気分になります。彼の作品は、やはりどこかリズム的感覚と切り離せない部分があるようです。「痕跡」が音となるなんて、何とも素敵ではありませんか。(ちょっとオーバーに…。)
三つ目の「身体」はこの展覧会の核心部分です。ボディ・プリントとして取り上げられていたイブ・クラインの「人体測定」と、アナ・メディエッタの「無題」。もちろん、圧倒的に前者が美しいですが、メディエッタの作品から、身体を酷使した者だけが生み出すような苦しみを感じます。そして、そんな苦しみも「痕跡」の意味となるのでしょう。思わず目を背けたくなりましたが、その価値は感じました。また、価値と言えば、既に古典となったウォーホルもあります。「ピス・ペインティング(小便絵画)」。その名の通り、尿をかけて描いた作品で、まさにそこには最も身体的な「痕跡」がくっきりと残されています。二度と見たくありませんが、これ以上の「痕跡」はないでしょう。この展覧会では絶対に欠かすことができない作品だと思いました。しかし、「痕跡」の対象が体となると、表現が実に生々しくなってきます…。生理的な反応(嫌悪感など。)ばかりが表に立ってしまいましたが、それもまたこのカテゴリーの面白さなのかもしれません。
五番目の「破壊」はどれも動的です。村上三郎の「入口」は、その破壊行為が行われてしまえば、「痕跡」だけに意義を持つような作品でした。また、実際にそれを行ったシーンを記録したビデオも放映されていましたが、それはそれで面白いものの、やはり「破壊」の瞬間を共有していれば、もっとこの「痕跡」から大きな意味を感じたような気がしました。どうなのでしょうか。
六番目の「転写」には、作曲家のジョン・ゲージの作品がありました。こんな所で出会えるとは意外です。「自動車タイヤプリント」という作品で、ロバート・ラウシェンバーグとの共作ですが、ただ自動車のタイヤの軌跡をプリントしただけです。しかも、その自動車にどのようなドラマがあったのかも告知されずに、ただ単に軌跡のみが提示されます。この作品へは「痕跡」の意味も付加できないのでしょうか。ただの「痕跡」と、この展覧会が意味付けている「美術としての痕跡」。その二つの境界線は、もしかしたら曖昧なのか…。そんなことも思いました。
最後は「思考」です。ここでは、メル・ボックナーの「メジャメント:影」が一押しです。脚立にライトを当てて、その影を写し出す。展示の仕方も良かったのでしょうか、脚立と影のコントラストが大変に美しい作品です。ライトを消してしまえば、脚立の「痕跡」は一瞬で消えてしまいますが、それを予感させるあたりもまた魅力となるのでしょう。面白いと思います。
全般的に初めの方の作品が楽しめました。ただ、展示のスタイルとして、「美術としての痕跡」に焦点をあてながらそれを探っていく方法は見事です。尿をぶっかけた作品や、体を切り刻んで血を垂れ流す様を見せるビデオアート(あの世界観は共有したくないです。)があろうと、「痕跡」の枠に意義を見いだせば、それも芸術となる?!素晴らしい作品から、直ちにゴミ箱へ入れて欲しいと思ってしまう作品(失礼。)まで、バリエーションに富んだ「痕跡」が楽しめました。おすすめできます。
コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )