都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「横浜トリエンナーレ2005」 横浜市山下ふ頭3号、4号上屋 11/26
横浜市山下ふ頭3号、4号上屋(横浜市中区山下町)
「横浜トリエンナーレ2005 -アートサーカス 日常からの跳躍- 」
9/28~12/18
世界30ヶ国、全86名のアーティストによる、日本最大級の現代アートの祭典「横浜トリエンナーレ2005」。会期もそろそろ終盤に差し掛かって来た頃ですが、先日ようやく見に行くことができました。
みなとみらい線の元町・中華街駅を下車し、山下公園の方へとぼとぼと歩きます。前回、2001年のトリエンナーレの大混雑が記憶に残っていたので、今回もかなり混んでいるのかと思いきや、着いたのが午前中だったからか、エントランス付近は意外にも閑散としていました。入口から会場内のふ頭上屋へは、結構な距離があるとのことで、無料バスも運行されていましたが、やはり、紅白のストライプの旗が鮮やかな「ビュラン・プロムナード」を歩きたくなります。少し冷たい海風に吹かれながら、のんびりと10分ほどの散歩道。上屋内ではたくさんのアートが待ち構えていました。
まずは、infomationのある「3A」から、様々なイベントも開催される「ナカニワ」を経て、4号ふ頭の方へと向かいます。ここではやはり「4B」のビデオ・インスタレーションが見応え十分です。作品展示のため、かなり暗くなったスペースにて光を発するビデオ・アート。「4B」に足を踏み入れた途端、ベートーヴェンの通称「運命」の第二楽章が聴こえてきましたが、それは、ミゲル・カルデロンの「ベートーヴェン・リビジテッド」という作品でした。今は少なくなった音楽喫茶にて、ベートーヴェンに扮した一人の若者が、カラヤンとベルリンフィルの重厚な「運命」に合わせながら、一生懸命に、指揮者もどきとなって棒を振る。喫茶にいる人々は、眠っていたり、また何か書き物をしていたりするのですが、指揮者とのギャップが何とも奇妙。しばし見入らせる作品でした。
「4B」で心に残った作品は、松井智惠の「寓意の入れ物」です。先ほど歩いても来たプロムナードを歩く一人の女性。駐車中の大型トラックの陰に隠れては、また姿を見せてひたすらに歩く。素足にて、ペタペタと音をたてながら、前へ前へと取り憑かれたように進みます。映像の後ろから強いライトにて照らされているからか、ライトがまるで彼女を照らす太陽のような役割をして、その美しいシルエットを画面の前へと映しだします。彼女は結果、逃げるようにして倉庫のような人気のない場へと入りこみます。その鬼気迫る雰囲気に惹かれました。
小金沢健人の二作品、「スノーイング」と「RGBY」も魅せられる作品です。特に「RGBY」の素朴な美しさ。色鉛筆かクレヨンで描いたような2本の線。それがひたすら交差しながら縦へと伸びます。また、伸びると言えば、インゴ・ギュンターの「Land」も、その長さに驚かされる作品です。日付変更線から見た太平洋の姿を、ぐるっと一通り描く。それが「4B」の会場を囲むように、延々と伸びています。目線の高さに置かれて、薄明るく照らし出される。このスペースを控えめに盛り立てていた作品でもありました。
ムタズ・ナスルの「ジ・エコー」も、単純な仕掛けながら、なかなか鋭いメッセージを訴えかける良作です。1969年制作の映画のセリフを、全く異なる現代の場面にてそのまま使い、その双方を共鳴させるようにして、スクリーンに映しだします。映画の原作は、イギリス植民地下のエジプトにおける、民族の自立やその生き様をテーマにしたものですが、「政治と社会を変革させるために、立ち上がれ。」というセリフが、そのまま現代の状況においても有用に置き換えられます。時代を超えた普遍的なメッセージ。閉塞感の打破への共感は、いつの社会にも見られるような、半ば習慣化した意思なのかもしれません。
「4B」を一通り見終わった後は、そのまま海の方、つまり「センタン」へと歩き、「4C」へと入ります。ここでは、何と言ってもロビン・ロードの「アンタイトルド・シャワー」が一押しです。狭い縦長の空間の奥に、まるで血のシャワーを浴びているような全裸の男性が一人。スローモーションのような動きで、ゆっくりとシャワーを浴び続ける。男性の逞しい肉体と、シャワーの血のような飛沫。耽美的な雰囲気も漂わせながら、不気味な世界を構築した作品です。
ロビン・ロードの他の「4C」では、チェン・ゼンと米田知子の作品が、一際高い完成度を見せていました。チェン・ゼンの「ピューリフィケーション・ルーム」。バイクやソファ、それにTVなどが、一見、生活感を持ったような空間に置かれています。また、そこにある物は、どれも壊れたもの、つまりゴミのような気配です。そして、それら全てを覆い尽くすようにかけられた、一面のくすんだピンク色の塗料。その塗料によって、それぞれの物は色と質感が均一となって、固有性が失われます。中へ入ることができなかったのが残念でしたが、「4C」の中では、一際凄みのある場を創造していたと思いました。
阪神大震災の際の状況と、その後の「復興」の姿を捉えた米田知子の作品も、総じてどこかエンターテイメント的な匂いの漂う今回のトリエンナーレに、一つの衝撃を与えるかのような強い存在感を見せていました。かつて遺体安置所として使われたという一つの部屋。黒光りする古びた床に、ポツンと置かれた時計。一見、ただの空疎な部屋の中に、「遺体安置所」という過去の記憶を持ち込むことで、その惨さを敢然と知らしめる。この鋭い問いかけは、相対化され消されつつある過去が、実は無くならない絶対的なものとして、今ある悲劇のように浮き上がってくることを示唆させます。
「4C」を終えたところで、ランチ・タイムとなりました。エスニック料理を中心にラインナップとした「コクサイヤタイムラ」にて、しばし腹ごしらえです。コクサイにヤタイムラと名乗る割には、随分と規模が小さいようにも思いましたが、幸いにもあまり人出がなく、ゆったりと食事をとることができました。そして、一番海側に面する「センタン」にて休憩した後は、3号上屋の方を廻ります。
4号上屋前にて。寝ているサメはもちろん作品です。
「センタン」からは横浜港が一望出来ます。
「3C」では、奈良美智+grafの展示が、ずば抜けた存在感を見せていました。自作を理想的な環境にて展示することについて、おそらく今回のトリエンナーレでは一番の出来でしょう。展示小屋の内部をぐるぐると歩きながら、奈良さんの作品と出会う喜び。恥ずかしながらこれまで、彼の作品をあまり好きだと思ったことはなかったのですが、今回の展示には完全に脱帽です。この展示だけでも、一つの大きな企画展のレベルに達しているとさえ思います。
何かと話題の「天使が通る」もじっくりと拝見しました。ジャコブ・ゴーテルとジャゾン・カラインドロスの「エンジェル・ディテクター」。10人ほどが入ることの出来る真白なスペースに、燭台のような小さなロウソク型のランプが一つだけ。全くの沈黙が生まれた時にだけ一瞬光るという仕掛けですが、ひっきりなし人が出たり入ったり、はたまたおしゃべりしたり物音を立てたりと、当然ながら沈黙な瞬間がなかなか訪れません。「どこかでカメラで監視して操作しているんだよ。」と、なかなか鋭いことを話す子供たち。「何分ぐらい静かになれば良いのかな。」と言い合うカップル。私は辛抱強くただひたすらに待ち続け、光るであろう「燭台」を見続けます。入れ替わり立ち代わりガヤガヤゴソゴソ。静寂を維持することとは、こんなに難しいのかと思った時、不思議にも私を除いて一人の観客もいなくなりました。さあいよいよです。待ちに待ったその瞬間。ジィーッと、ただジッーッと見つめ続ける。ここで誰かが来たら終わりだと、半ば自分勝手な雑念を思った時、ついに光りました。たった一瞬間だけ。パッと弱々しく、震えるように、そして悲し気に。「天使が通った。」妖精が一瞬だけ現れたとでも言えるのでしょうか、力強くピーンと張りつめた場の緊張感と、一瞬の安堵。静寂から恵みがもたらされました。
期待していたさらひらきのブースは「3B」です。タイトルは「trail」。洗面所にラクダのミニュチュアがトコトコ歩きます。ゆっくりとゆっくりと、心地よい遅さの歩み。ラクダは実体のない影のようですが、それが窓の枠や縁の影を沿うようにして歩きます。途中からはゾウも登場しますが、お馴染みの飛行機にかわって、鳥も気持ち良さそうに部屋を飛び回ります。空き瓶の底を、グルグルと列を作って歩くラクダの可愛いこと。ラクダの影は最後に、人のサイズ程度に巨大化しました。時間もゆったりと流れて、日常の中の幻想とも言える、この穏やかな場。やはり、とても魅せられるものがあります。
一通り見終わった時には、入場から約4時間ほどが経過していたでしょうか。全体的に見ると、前回のトリエンナーレと比べて、ややビックネーム不足とでも言うのか、パンチに欠けるようにも思えましたが、その分、会場は比較的ゆったりとした雰囲気に包まれ、のんびりとアート(のようなものも含めて?)を堪能することが出来ます。前回トリエンナーレは、混雑も含めて、私としてはあまり良い印象がなかったのですが、今回は適度な規模です。肩の力を抜いて楽しめる、エンターテイメント的な場が提供出来ていたのではないかと思いました。12月18日までの開催です。
「横浜トリエンナーレ2005 -アートサーカス 日常からの跳躍- 」
9/28~12/18
世界30ヶ国、全86名のアーティストによる、日本最大級の現代アートの祭典「横浜トリエンナーレ2005」。会期もそろそろ終盤に差し掛かって来た頃ですが、先日ようやく見に行くことができました。
みなとみらい線の元町・中華街駅を下車し、山下公園の方へとぼとぼと歩きます。前回、2001年のトリエンナーレの大混雑が記憶に残っていたので、今回もかなり混んでいるのかと思いきや、着いたのが午前中だったからか、エントランス付近は意外にも閑散としていました。入口から会場内のふ頭上屋へは、結構な距離があるとのことで、無料バスも運行されていましたが、やはり、紅白のストライプの旗が鮮やかな「ビュラン・プロムナード」を歩きたくなります。少し冷たい海風に吹かれながら、のんびりと10分ほどの散歩道。上屋内ではたくさんのアートが待ち構えていました。
まずは、infomationのある「3A」から、様々なイベントも開催される「ナカニワ」を経て、4号ふ頭の方へと向かいます。ここではやはり「4B」のビデオ・インスタレーションが見応え十分です。作品展示のため、かなり暗くなったスペースにて光を発するビデオ・アート。「4B」に足を踏み入れた途端、ベートーヴェンの通称「運命」の第二楽章が聴こえてきましたが、それは、ミゲル・カルデロンの「ベートーヴェン・リビジテッド」という作品でした。今は少なくなった音楽喫茶にて、ベートーヴェンに扮した一人の若者が、カラヤンとベルリンフィルの重厚な「運命」に合わせながら、一生懸命に、指揮者もどきとなって棒を振る。喫茶にいる人々は、眠っていたり、また何か書き物をしていたりするのですが、指揮者とのギャップが何とも奇妙。しばし見入らせる作品でした。
「4B」で心に残った作品は、松井智惠の「寓意の入れ物」です。先ほど歩いても来たプロムナードを歩く一人の女性。駐車中の大型トラックの陰に隠れては、また姿を見せてひたすらに歩く。素足にて、ペタペタと音をたてながら、前へ前へと取り憑かれたように進みます。映像の後ろから強いライトにて照らされているからか、ライトがまるで彼女を照らす太陽のような役割をして、その美しいシルエットを画面の前へと映しだします。彼女は結果、逃げるようにして倉庫のような人気のない場へと入りこみます。その鬼気迫る雰囲気に惹かれました。
小金沢健人の二作品、「スノーイング」と「RGBY」も魅せられる作品です。特に「RGBY」の素朴な美しさ。色鉛筆かクレヨンで描いたような2本の線。それがひたすら交差しながら縦へと伸びます。また、伸びると言えば、インゴ・ギュンターの「Land」も、その長さに驚かされる作品です。日付変更線から見た太平洋の姿を、ぐるっと一通り描く。それが「4B」の会場を囲むように、延々と伸びています。目線の高さに置かれて、薄明るく照らし出される。このスペースを控えめに盛り立てていた作品でもありました。
ムタズ・ナスルの「ジ・エコー」も、単純な仕掛けながら、なかなか鋭いメッセージを訴えかける良作です。1969年制作の映画のセリフを、全く異なる現代の場面にてそのまま使い、その双方を共鳴させるようにして、スクリーンに映しだします。映画の原作は、イギリス植民地下のエジプトにおける、民族の自立やその生き様をテーマにしたものですが、「政治と社会を変革させるために、立ち上がれ。」というセリフが、そのまま現代の状況においても有用に置き換えられます。時代を超えた普遍的なメッセージ。閉塞感の打破への共感は、いつの社会にも見られるような、半ば習慣化した意思なのかもしれません。
「4B」を一通り見終わった後は、そのまま海の方、つまり「センタン」へと歩き、「4C」へと入ります。ここでは、何と言ってもロビン・ロードの「アンタイトルド・シャワー」が一押しです。狭い縦長の空間の奥に、まるで血のシャワーを浴びているような全裸の男性が一人。スローモーションのような動きで、ゆっくりとシャワーを浴び続ける。男性の逞しい肉体と、シャワーの血のような飛沫。耽美的な雰囲気も漂わせながら、不気味な世界を構築した作品です。
ロビン・ロードの他の「4C」では、チェン・ゼンと米田知子の作品が、一際高い完成度を見せていました。チェン・ゼンの「ピューリフィケーション・ルーム」。バイクやソファ、それにTVなどが、一見、生活感を持ったような空間に置かれています。また、そこにある物は、どれも壊れたもの、つまりゴミのような気配です。そして、それら全てを覆い尽くすようにかけられた、一面のくすんだピンク色の塗料。その塗料によって、それぞれの物は色と質感が均一となって、固有性が失われます。中へ入ることができなかったのが残念でしたが、「4C」の中では、一際凄みのある場を創造していたと思いました。
阪神大震災の際の状況と、その後の「復興」の姿を捉えた米田知子の作品も、総じてどこかエンターテイメント的な匂いの漂う今回のトリエンナーレに、一つの衝撃を与えるかのような強い存在感を見せていました。かつて遺体安置所として使われたという一つの部屋。黒光りする古びた床に、ポツンと置かれた時計。一見、ただの空疎な部屋の中に、「遺体安置所」という過去の記憶を持ち込むことで、その惨さを敢然と知らしめる。この鋭い問いかけは、相対化され消されつつある過去が、実は無くならない絶対的なものとして、今ある悲劇のように浮き上がってくることを示唆させます。
「4C」を終えたところで、ランチ・タイムとなりました。エスニック料理を中心にラインナップとした「コクサイヤタイムラ」にて、しばし腹ごしらえです。コクサイにヤタイムラと名乗る割には、随分と規模が小さいようにも思いましたが、幸いにもあまり人出がなく、ゆったりと食事をとることができました。そして、一番海側に面する「センタン」にて休憩した後は、3号上屋の方を廻ります。
4号上屋前にて。寝ているサメはもちろん作品です。
「センタン」からは横浜港が一望出来ます。
「3C」では、奈良美智+grafの展示が、ずば抜けた存在感を見せていました。自作を理想的な環境にて展示することについて、おそらく今回のトリエンナーレでは一番の出来でしょう。展示小屋の内部をぐるぐると歩きながら、奈良さんの作品と出会う喜び。恥ずかしながらこれまで、彼の作品をあまり好きだと思ったことはなかったのですが、今回の展示には完全に脱帽です。この展示だけでも、一つの大きな企画展のレベルに達しているとさえ思います。
何かと話題の「天使が通る」もじっくりと拝見しました。ジャコブ・ゴーテルとジャゾン・カラインドロスの「エンジェル・ディテクター」。10人ほどが入ることの出来る真白なスペースに、燭台のような小さなロウソク型のランプが一つだけ。全くの沈黙が生まれた時にだけ一瞬光るという仕掛けですが、ひっきりなし人が出たり入ったり、はたまたおしゃべりしたり物音を立てたりと、当然ながら沈黙な瞬間がなかなか訪れません。「どこかでカメラで監視して操作しているんだよ。」と、なかなか鋭いことを話す子供たち。「何分ぐらい静かになれば良いのかな。」と言い合うカップル。私は辛抱強くただひたすらに待ち続け、光るであろう「燭台」を見続けます。入れ替わり立ち代わりガヤガヤゴソゴソ。静寂を維持することとは、こんなに難しいのかと思った時、不思議にも私を除いて一人の観客もいなくなりました。さあいよいよです。待ちに待ったその瞬間。ジィーッと、ただジッーッと見つめ続ける。ここで誰かが来たら終わりだと、半ば自分勝手な雑念を思った時、ついに光りました。たった一瞬間だけ。パッと弱々しく、震えるように、そして悲し気に。「天使が通った。」妖精が一瞬だけ現れたとでも言えるのでしょうか、力強くピーンと張りつめた場の緊張感と、一瞬の安堵。静寂から恵みがもたらされました。
期待していたさらひらきのブースは「3B」です。タイトルは「trail」。洗面所にラクダのミニュチュアがトコトコ歩きます。ゆっくりとゆっくりと、心地よい遅さの歩み。ラクダは実体のない影のようですが、それが窓の枠や縁の影を沿うようにして歩きます。途中からはゾウも登場しますが、お馴染みの飛行機にかわって、鳥も気持ち良さそうに部屋を飛び回ります。空き瓶の底を、グルグルと列を作って歩くラクダの可愛いこと。ラクダの影は最後に、人のサイズ程度に巨大化しました。時間もゆったりと流れて、日常の中の幻想とも言える、この穏やかな場。やはり、とても魅せられるものがあります。
一通り見終わった時には、入場から約4時間ほどが経過していたでしょうか。全体的に見ると、前回のトリエンナーレと比べて、ややビックネーム不足とでも言うのか、パンチに欠けるようにも思えましたが、その分、会場は比較的ゆったりとした雰囲気に包まれ、のんびりとアート(のようなものも含めて?)を堪能することが出来ます。前回トリエンナーレは、混雑も含めて、私としてはあまり良い印象がなかったのですが、今回は適度な規模です。肩の力を抜いて楽しめる、エンターテイメント的な場が提供出来ていたのではないかと思いました。12月18日までの開催です。
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