「美術館は『通路』である」 東京都現代美術館・川俣正 通路トーク(Cafe Talk65)

東京都現代美術館・川俣正「通路」/通路トーク(Cafe Talk65)
「美術館は『通路』である」
2/23 15:30~
川俣正×住友文彦(東京都現代美術館学芸員)

MOTの「通路」展の関連イベント、作家川俣正のトークセッションに参加してきました。タイトルは「美術館は『通路』である」、ようは美術館学芸員住友文彦氏との対談です。カフェトークということで、川俣本人もビールを片手に、かなりラフな感覚で思いを語っていたように見えました。以下、私のメモです。録音したわけではないので不完全ですが、発言を順に挙げていきます。

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住友文彦(以下、S) 今回の展示を企画した理由について。まず、MOTのコレクションより日本人作家の展示をしようと考えたが、巨大なこのMOTという箱をいつもと異なったように使ってみたいと思った。また、美術館のあり方を再考する観点から、普段、美術館であまり仕事をしていない人物をピックアップして考えた。それが川俣である。
 近年、美術館は、元々「美術」でないとされているジャンルを取り入れている。(例、ジブリ、フェラーリ)その反面、企画会社が強く美術館の仕事に関与してきた。その場で働いている人間としては一種のジレンマを感じている。

川俣正(以下、K) 民間、外部の美術館への関与は、学芸員へのある種の攻撃ではないか。

S これまでの美術館のあり方ではダメだという認識は持っている。変化が要請されているのも分かっている。しかしそれで、美術館が単なるサービス業になって良いのかという疑問もある。ただの場所貸しではデパートの催事場と変わらない。もちろん美味しいレストラン、そして子どもが気軽に来られるような工夫は重要だろう。

K 学芸員には、「美術は社会の中で特別である。そして、一部な人の特殊技術を紹介する場が美術館だ。」という認識があるのではないか。それは良くない点だ。専門性を要求されるのはやむを得ないにしろ、それと一般性とにどう折り合いを付けるかが問われている。

S 学芸員の仕事は極めて多岐に及んでいる。様々な点において外部の風を入れるのは重要。そしてその専門性は学芸員の視点ではなく、美術館の外にあるかもしれない。

K 美術館では6年ぶりの個展。日本でも3回やっている。先日、「これからは美術館に戻るのか。」と聞かれたが、そういうつもりは全くない。むしろ美術館だからどうだというような、その場所に対してのこだわりはない。

S 自分の仕事以外で美術館に行くことがあるか。

K 殆ど行かない。関心のある作家が10人いたとしたら、そのうちせいぜい1つの展示を見る程度だろう。それに、同時進行のプロジェクトをかかえる自分の仕事上、美術館で他の展示を見たりするなどの余裕がない。本音を言ってしまえば、美術館が好きでないということかもしれないが。MOTでは確か94年の展示に参加している。それ以降、ここへ来たのは、NHKの取材で付き合った榎倉の個展のみ。

S MOTの印象はどうか。

K スペースがともかく巨大。上下、遠近については比較的自由に使えるが、石造りの外観は堅牢で、いかにも権威主義的。横浜のトリエンナーレで使った倉庫とは正反対だ。人がどう動いていくのかというイメージがなかなか描けない。だからこそ今回の展示は、ヒューマンスケールでどういう動きが出来るのかを考えた。

S ヒューマンスケールは、今回の一つのキーワードかもしれない。入場者同士の出会いの場、そして例えばラボのように、相互の活動が交流し合うような場面を見ることが出来る。

K アクティビティを美術館へ持ちこむ。多くのボランティアと準備したり、活動をラボで行ったり、ワークショップで現在進行形のアイデアを膨らませたりと、常に変化があるような場にした。アクティビティをそれぞれの時間で区切って、その「今」を提示し、さらに次に連続して繋げる。この展覧会ではそういった日常性を大切にしたい。

S よく入場者に「このラボは展示の後どうなるのか。」ということを聞かれる。それはいわゆる美術館で見る「作品」の行き先、または「完成」に対する一般的な考え方だ。今回はそうではなく、言わば「通り過ぎる途中」をそのまま見せているのではないか。これまでの川俣の仕事をこの美術館を使ってやっていること。始まりも終わりもなく、ただずっと続くとしか言えない。「完成」を求める入場者に対し、分からないことをそのまま提示しておく。

K 決して無責任というわけではないが、これらのプロジェクトは完成することがない。活動は永続的なもの。例えばある入院患者が治療を終え、一度退院した後、再度症状が出てまた入院することがある。治癒を、結果、または完成の意味と捉えれば、それを求めるのは極めて難しいのではないだろうか。完成という何かを残すのは、おそらく人がある特定の時間(人生)だけしか生きることが許されないため、その後にも自らの何かを残したいという憧れだろう。それに対して、別になくなっても良いではないか、また全てが整理されて完成されなくても良いではないかという気持ちを持っている。もちろん見に来る人々は納得しないかもしれない。この展覧会でも「いつが見頃か。」と聞かれることがあるが、その答えはない。

S そのようなある種の「永続」を見るため、今回の展示ではパスポートチケットも用意している。

K いかにその時間、場所と付き合っていくかという観点が重要。例えば外科的な手術で治療を施すのではなく、その病気とどう付き合って生きていくのかという感覚に近いかもしれない。「脱力系のアート」と言われても良い。盛り上がらないものの良さを見出したい。

S 今回の通路は300人のボランティアの手によって作られた。その光景を見ていると、彼らが「見る」よりも「作る」方が楽しいことを知ったような気がする。この展示では、作品と鑑賞者が対立する関係には決してならない。その場へ関与することが重要だ。そのために参加型のワークショップがある。

K 美術館で土嚢を積んで、ベニヤ板をたてると言うような、本来の場所のあり方から逸脱した行為にも面白さがあるのではないか。口コミレベルにまで降りて、美術館にある権威をとった上で、何かを共同で行う。 

S 美術館の権威と作家のそれがあまりにも近過ぎるという指摘もある。

K 若い作家はむしろ美術館の権威を必要とするのが普通だろう。

S 美術館で開催するということと、外で開催することに違いはあるか。

K その違いはあっても気にしない。どちらが良いというわけではない。美術館であろうと、その外であろうと、関わり方は千差万別。

S 活動において、作品の自主性や、また社会との関わり方を川俣本人ではなく、ラボのメンバーが自由にすることもある。

K それを美術館の中でやるのが面白い。但し、美術館の中でやるということは、その活動が一種の見世物にもなるということだ。そしてその見せることに対して、今回どう応じるかを考えたつもりだ。

S 大学などで活動するのとはやはり違うのか。

K 全く異なる。大学での活動をそのまま美術館へ移したわけではない。先に「脱力系のアート」と言ったが、見世物としてどう盛り上げるのかも考えた。無気力と脱力は違う。また美術館の中で提示すると「作品的」に見えるのも事実だろう。その要素を取っ払った上にて、こういう展覧会も出来るのだということを見せたかった。

S ラボで見られる各プロジェクトのテーマの重いものが多いが。

K そのテーマの中で「嘘」をつくこともしたかった。言葉は悪いが、そうすることで真っ正直に取り組んだ場合と違う面が開けてくる。嘘とは一種のスルーとも言えるかもしれない。その重さをスルーしてかわすことで、別の展開を模索する。

S 例えば炭坑プロジェクトではどうなのか。

K シンボルとなるタワーをあえて建てない。ただ、周囲にはもう建てない方が良いと言われたのも事実だ。

S 鉄塔を建てることで街を再生させるイメージはどうなるのか。

K シンボルを否定して、淡々と進む日常を受け入れてしまうこと。ただ歩く、ただ進む、それが「通路」だ。どうやっていけばその「通路」と向かい合えるのかをその場で考えていく。

S 今回の展示では実際に「通路」が出来るプロセスを見たが、作る際にはどのようなことを考えているのか。

K 実は最初はかなり不安。何年か前にこの展示の話があったが、何をどうするかということについて色々悩んだ。またアイデアを発酵させる時間が重要だ。そしてもちろんこの「通路」も発酵させたい。先にコンセプトありきで細部をつめるやり方ではなく、むしろ細部を連ねて最後にある程度の体系的なものが見通せる方が良い。「通路」はその細部同士を繋ぐものに過ぎない。マラソンのようにスタートとゴールが結びついていた一本の道ではない。

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「川俣正/通路/美術出版社」

以上です。また最後に、質疑応答での氏の発言もいくつか記録しておきます。

Q 現代美術は自己満足なのか。
K 自己満足で当然。そして、その自己満足にお金を出す人々がいるこの社会がとても面白いと思う。
Q ベニヤを使った理由は。
K 誰でも扱える素材だから。美術に必要とされる特殊な技術は一切いらない。
Q 展示ファイルをめくったら監視員に注意された。
K 監視員が目をそらした隙にめくってください。
Q 通路に順路がある。
K 美術館側としては、中で迷ってしまう人がいるのが問題なのだろう。

このトークショーを含めた「通路」展の私の感想は、また別エントリに書きたいと思います。
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