都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「諏訪敦 絵画作品展」 佐藤美術館
佐藤美術館(新宿区大京町31-10)
「諏訪敦 絵画作品展 複眼リアリスト」
1/17-2/24

卓越したリアリスム表現によって表される人物は、制作者諏訪が心に想う、一種の幻影なのかもしれません。日本の写実系絵画のきっかけを作った(*)ともいう、諏訪敦の個展です。初期作品、及び前衛舞踏家大野一雄に取材した一連のシリーズ、またはかの有名な女性の裸体などの絵画が紹介されています。

肌の皺、眉の生え際、そして唇の襞から黒子、さらには吹き出物など、まずは諏訪の「超絶的描写能力」(*)に裏打ちされた細やかな表現に目を奪われるところですが、しばらくその前に立っていると落ち着かない、奇妙な感覚に襲われました。それは不在の感覚、また言い換ればリアルな表現を通して現れる、半ば対象を捉えられないもどかしさです。実際、諏訪は対象の人物と生活空間を共有するほどの関係を築いてから制作に取り組むそうですが、結果、生まれてきたのは、むしろその実体が支持体に乗り切らない、言わば重量感のない、古びた石膏像をそのまま写したような絵画でした。リアルな描写を突き詰め、その細部の細部までを半ば写し絵として描けば描くほど、これが逆にあくまでも対象を離れた絵画であるという感覚がずしりと重くのしかかってきます。一般的な意味においてこれほどリアルであるのに、どこか矛盾した虚しさを感じるのはそのためかもしれません。
諏訪が時にシュールに、特に近作において夢想的な構図な手がけているのは、そのような不在の感覚を自身でも確かに肌で感じ取っているからではないでしょうか。彼が上でも触れた対象への全人格的な取材、もしくはその時間の共有は、どのようなリアルな表現でも絵画で表せない、言わば足りない部分を補うための一種の免罪符として行っている行為として捉えられるようにも感じられます。単に写実的というだけでない、むしろその奥から立ち上がってくる幻影こそが、諏訪作品を大きく支配しているのです。
全体の印象からすれば、これらの作品を写実や技巧という言葉で括ってしまうのには相当な抵抗感があります。実体と表された像の隙間、言わば魂の浮遊した影を示していることに、諏訪の大きな魅力があるのではないでしょうか。
本日、日曜日まで開催されています。
*ちらしより引用。
「諏訪敦 絵画作品展 複眼リアリスト」
1/17-2/24

卓越したリアリスム表現によって表される人物は、制作者諏訪が心に想う、一種の幻影なのかもしれません。日本の写実系絵画のきっかけを作った(*)ともいう、諏訪敦の個展です。初期作品、及び前衛舞踏家大野一雄に取材した一連のシリーズ、またはかの有名な女性の裸体などの絵画が紹介されています。

肌の皺、眉の生え際、そして唇の襞から黒子、さらには吹き出物など、まずは諏訪の「超絶的描写能力」(*)に裏打ちされた細やかな表現に目を奪われるところですが、しばらくその前に立っていると落ち着かない、奇妙な感覚に襲われました。それは不在の感覚、また言い換ればリアルな表現を通して現れる、半ば対象を捉えられないもどかしさです。実際、諏訪は対象の人物と生活空間を共有するほどの関係を築いてから制作に取り組むそうですが、結果、生まれてきたのは、むしろその実体が支持体に乗り切らない、言わば重量感のない、古びた石膏像をそのまま写したような絵画でした。リアルな描写を突き詰め、その細部の細部までを半ば写し絵として描けば描くほど、これが逆にあくまでも対象を離れた絵画であるという感覚がずしりと重くのしかかってきます。一般的な意味においてこれほどリアルであるのに、どこか矛盾した虚しさを感じるのはそのためかもしれません。
諏訪が時にシュールに、特に近作において夢想的な構図な手がけているのは、そのような不在の感覚を自身でも確かに肌で感じ取っているからではないでしょうか。彼が上でも触れた対象への全人格的な取材、もしくはその時間の共有は、どのようなリアルな表現でも絵画で表せない、言わば足りない部分を補うための一種の免罪符として行っている行為として捉えられるようにも感じられます。単に写実的というだけでない、むしろその奥から立ち上がってくる幻影こそが、諏訪作品を大きく支配しているのです。
全体の印象からすれば、これらの作品を写実や技巧という言葉で括ってしまうのには相当な抵抗感があります。実体と表された像の隙間、言わば魂の浮遊した影を示していることに、諏訪の大きな魅力があるのではないでしょうか。
本日、日曜日まで開催されています。
*ちらしより引用。
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