「速水御舟 - 新たなる魅力 - 」 平塚市美術館

平塚市美術館神奈川県平塚市西八幡1-3-3
「速水御舟 - 新たなる魅力 - 」
10/4-11/8



本画(約100点)、模写、下図(15点)、または手紙などの資料を含めた計120点の文物にて、その偉大な画業を回顧します。平塚市美術館で開催中の「速水御舟展」へ行ってきました。

御舟コレクションと言ってまず思い浮かぶのは山種美術館ですが、今回の展覧会に同館の所蔵品はただの一つも展示されていません。よって出品作は、山種美術館以外、つまりは東京、京都の国立近代美術館や、愛知、新潟、広島などの各公立美術館、または個人蔵のもので占められています。実際、東博の「京の舞妓」や東近美の「茶碗と果実」など、見慣れたものもいくつか展示されていましたが、それでも御舟作品を約100点もまとめて楽しめる機会などそう滅多にないのではないでしょうか。その意味でも『新たなる』御舟を知るには、またとない展覧会であると言えそうです。

回顧展形式で御舟を追いかけると、彼が革新の精神に満ちた、実に前衛的な画家であったということが良く分かります。初期、松本楓湖の画塾で学んだ修行期を経て、大和絵南画風の作品を描いたかと思うと、一転して油彩をイメージさせる細密画へと傾倒し、その後は、抽象美すら思わせる画風を半ば様式化させつつ確立しました。晩年は、技巧に冴えながらも、決して力み過ぎることのない、何とも夢幻的な水墨の世界です。御舟こそ近代日本画史上の最高の天才であることは言うまでもありませんが、それも彼の変わろうとする不断の努力の賜物でもあったことは間違いありません。日本画を見て、思わず目頭が熱くなったのは本当に久しぶりでした。

大好きな御舟ということで、個々の作品を挙げていくとキリがありません。以下、展示作よりベスト10(順不同)を並べてみました。


「暮雪」(1913)
深い雪の下に埋もれた家々が、湿り気さえ感じさせる瑞々しい筆遣いにて表されています。どっぷりと降り積もったその景色こそ寒々しい限りですが、障子越しに見える明かりが人の温もりを確かに伝えていました。御舟、19歳の時の作品です。号はまだ「浩然」と記されていました。


「鬱金桜」(1920)
花より透けて見える金色の輝きが絶品です。あたかも裏彩色を施したような花の重厚感がまた見事でした。


「秋茄子に黒茶碗」(1921)
写実に挑戦した御舟の結晶の一つでしょう。黒光りする楽茶碗は、図版よりももっと暗く、また濃厚です。黒が力強く主張しています。


「丘の並木」(1922)
荒野に並ぶ立ち木が幻想的な趣にて示されています。この寂寞感は何に由来するのでしょうか。木を通し、また大地を超えた無限の空への広がりを感じさせる名品です。


「喜久」(1925)
二輪の菊が可憐に咲いています。静かに灯る花の黄色だけでなく、ぼかしを用いて陰った茎の黒もまた魅力的でした。


「樹木」(1925)
モニュメンタルに表された幹が敢然と立ちはだかります。点描風に示された木肌のタッチはまるで油彩のようでした。また図録掲載の論文では、ピカソとの関連も指摘されています。異色作です。


「燕子花」(1929)
この作品の魅力は全く図版で伝わりません。墨の質感を是非目でお確かめ下さい。今にも落ちそうな花の美しさは言葉になりませんでした。


「アルノ湖畔の月夜」(1931)
異国情緒満点の可愛らしい一枚です。御舟の洋行時の作品は、まるでおとぎ話の国を旅しているかのような子供心と、それに相反する孤独感を見て取ることが出来ます。


「桔梗図」(1934)
風になびく桔梗が何とも流麗です。力強い造形美と、物静かな水墨の魅力が巧く合わさっていました。琳派のイメージが浮かびます。


「牡丹双華」(1934)
もはや牡丹と言えば御舟の花でしょう。花弁から放たれる柔らかな光に心をうたれました。

上記のような本画の他に、例えば山種でお馴染みの大作、「名樹散椿」と「翠苔緑芝」の下絵なども展示されています。またもう一点、興味深いのは「昆虫写生図巻」です。これは文字通り、虫を優れた描写力で精緻に表したものですが、その蝶のモチーフが殆どそのまま「炎舞」へと繋がっていました。御舟はこうした軽妙なデッサンにも大きな魅力が感じられます。点数こそ多くありませんが、今回の下絵、スケッチの展示もなかなか見応えがありました。

山種コレクションと一緒に楽しめないことだけが残念ですが、少なくとも今、国内で楽しめる最高の御舟展であることは間違いありません。会期末が迫りますが、御舟に少しでもシンパシーを感じる方は、万難を排してでもこの土日に平塚へ駆けつけるべきです。

明後日の日曜、9日までの開催です。今更ではありますが最大級におすすめします。
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ウィーン国立歌劇場来日公演2008 「ドニゼッティ:ロベルト・デヴェリュー」 ハイダー

ウィーン国立歌劇場来日公演2008

ドニゼッティ ロベルト・デヴェリュー(演奏会方式)

キャスト
 エリザベッタ エディタ・グルベローヴァ
 サラ ナディア・クラステヴァ
 ロベルト ホセ・ブロス
 ノッティンガム公爵 ロベルト・フロンターリ
管弦楽 ウィーン国立歌劇場管弦楽団
合唱 ウィーン国立歌劇場合唱団
指揮 フリードリッヒ・ハイダー

2008/11/4 18:30 東京文化会館



「全てはグルベローヴァのためにあった。」としても過言ではありません。この上ないキャストでの「ロベルト・デヴェリュー」です。ウィーン国立歌劇場の来日公演を聴いてきました。

単にはまり役としてしまうには言葉が足りません。文化会館のステージに君臨していたのは、時代を超えてやって来たエリザベッタそのものでした。グルベローヴァは、敢然たる地位にありながらも恋に揺れ、また嫉妬心と復讐心に苛まれる女王の姿を、抜群の歌唱と演技にて完全に自家薬籠中のものとしています。確かにその歌声においては、例えばかつて頻繁にこなしていた「後宮からの逃走」のコンスタンツェ役のような、宝石の煌めきをも連想させる輝かしいコロラトゥーラこそ望めませんが、歌というよりも台詞をそのまま聴くかのような凄みのある発声と、また絶妙なブレスが、もはやドニゼッティの付けた音楽を超えた部分にまで踏み込んだエリザベッタ像を作りあげていました。第一幕で逡巡する彼女は第二幕で一転、激しい怒りを露にしながら死刑判決を告げますが、その際のあまりにも恐ろしい「行け!」は、ロベルトだけではなく、客席の全てまでを呪って凍り付かせるかのような迫力に満ち溢れています。また第三幕、ロベルトの処刑の後で歌われる大アリアでは、取り乱した人間の見せる脆さと、その反面の女王としての気高さを失うまいとする、単に悲劇的な「狂乱の場」に収まらない、人間の多面的な深みを見事に表していました。演奏会方式にも関わらず、眼前に16世紀のイギリス王室の憎悪劇が本当に繰り広げられているように錯覚したのは私だけでしょうか。これほど声に役者を感じるオペラ歌手を初めて知りました。グルベローヴァがエリザベッタなのです。

(NBSより)

このまま続けるとグルベローヴァの印象だけで感想が終わってしまいますが、次点で存在感を発揮していたのは、ロベルトのホセ・ブロスでしょう。別格のグルベローヴァを除いても、他主役級3名は皆、高いレベルにある歌唱を披露していましたが、その中で最も説得力のあったのがホセに他なりません。ソフトでありながらも、張りのある強い歌が実に見事でした。またやや一本調子になってしまう嫌いはありましたが、サラのクラステヴァとノッティンガムのフロンターリも十分に務めを果たしていたと思います。もちろんグルベローヴァを含め、歌手においては今、国内で聴ける最高のドニゼッティであったことは言うまでもありません。

そのような充実極まりない歌手陣に対し、いささか分が悪かったのはオーケストラではなかったでしょうか。管弦楽は尻上がりに調子をあげ、とりわけ機動力のある弦によって、情景を浮かび上がらせる様子はさすがウィーンとしか言いようがありませんが、管をはじめとして、細かい部分においてかなり粗が目立つように思えました。このオペラの、また一回の公演でオーケストラの実力を判断するのはナンセンスですが、僅かながらもこれまでに聴いて来た海外有名歌劇場のそれに比べ、少し落ちるのではないかというのが率直な感想です。たまたまこの日は調子が悪かっただけかもしれませんが、覇気のない序曲などはどうも納得出来ませんでした。

もちろんそのようなオーケストラの問題は、指揮のハイダーに由来する部分も多分にありそうです。さすがにベルカント・オペラの巨匠ということで、歌手の呼吸に合わせた指揮は安定していますが、テンポにメリハリこそありがらも、重唱などのいくつかの聴かせどころを簡単に流してしまうのはやや物足りなく思えました。歌が全てのドニゼッティとは言え、この作品の筋はヴェルディ的なドラマテックな要素も強く、もっと腰の据えた、それこそグルベローヴァだけに重きを置かない、四隅の揃った構成感のある演奏の方がより良かったのではないでしょうか。グルベローヴァの絶大な存在感だけでも唯一無比な公演であることは間違いありませんが、ドニゼッティでもとりわけ良く出来た「劇」としての面白さだけを味わうには、ひょっとすると及第点にまで至らなかったかもしれません。

最後の合唱がカットされていたのは何か理由があるのでしょうか。エリザベッタが一人で歌う分、孤立した彼女の悲劇性を高めるには最良でしたが、やはり依然として切り離せない女王としての宿命性が影薄くなってしまいます。私はあった方が断然好きです。

Roberto Devereux Finale opera


極限のピアニッシモにも関わらず、鋼のような芯の通ったグルベローヴァの歌唱は忘れられそうもありません。そういう意味においては、まさに一期一会となるコンサートでした。
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