都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
都響スペシャル 「マーラー交響曲第10番」 インバル
東京都交響楽団 都響スペシャル
マーラー 交響曲第10番嬰へ長調(クック補完版)
管弦楽 東京都交響楽団
指揮 エリアフ・インバル
2014/7/20 14:00~ サントリーホール
エリアフ・インバル指揮、都響スペシャルの「マーラーの交響曲第10番」を聞いてきました。
2012年秋よりインバルとのコンビでマーラチクルスを展開して来た東京都交響楽団。かつてはベルティーニとのチクルスも行われた。このところコンサートから遠ざかっている私ですが、やはり国内でのマーラー演奏といば都響というイメージは依然として強くあります。
そしてマーラーは私も好きな作曲家の一人。振り返っても順に9番、5番、7番に1番、3番、そして2番等々、これまでにもいくつかのオーケストラのコンサートに出かけたものでした。
ただし10番を実演で聞くのは今回が初めて。CD演奏では確かラトル盤を何度か耳にしたことがある程度に過ぎません。そして正直なところ他の交響曲に比べてあまり強い印象を持ちませんでした。言うまでもなくマーラが没した段階では10番は完成していなかった作品。当時、演奏可能の状態にあったのは第1楽章と第3楽章の冒頭のみだったそうです。
「マーラー:交響曲第10番(D.クック復元版)/インバル/フランクフルト放送交響楽団」
さてほぼ前提知識なしでのコンサート。結論から言えば素晴らしかった。曲はクック補完版。そもそもインバルは若き頃クックが補完版を作る段階で本人と議論したこともあったとのこと。まさにスペシャリストによる演奏とも言えるわけです。
第1楽章は第9番の雰囲気を思わせる静謐でかつ時に抒情的なアダージェット。この日の都響はどちらかと言うと尻上がりに調子をあげていった感もありますが、それでも重なり合う弦の響きは美しい。第2、第3楽章のスケルツォとプルガトリオ、細かい部分ではやや難もあったかもしれません。ただそれでも錯綜する主題を巧みに表現する。そもそも10番、全体的に感動的云々よりもアイロニカル、どこか物事を斜めに捉えたかのような視点があります。
作曲時のマーラーの複雑な心境や精神状態を反映してゆえのことでしょうか。都響はそれを包み隠さずに示します。マーラー的なうねりはお手の物。特有のリズム感はいささかも損なわれることがありません。それでいて堅牢に音楽は構築されています。ここはインバルのタクトの為せる技なのでしょう。万華鏡のように変化するリズムに酔いしれました。
第4楽章から第5楽章にかけての大太鼓、かのハンマーを超えるほどに衝撃的な一撃です。何という乾ききった響きなのでしょうか。頭を何度も殴るかのように響く大太鼓。痛烈の極みである。葬列を意味したとも言われる表現。しかしながらあまりにも執拗、何度も繰り返されることでまた別の意味を持ち得るのかもしれません。繰り返される太鼓の不気味なまでの響きに思わず背筋が寒くなりました。
フィナーレ、ここで殆ど唐突なまでに第1楽章の主題が帰ってきます。まるで各地を彷徨い、旅した者が、さも安息の地へと舞い戻ったかのような調べ。インバルは「死後の世界で書かれた」ともいう第10番。9番がこの世との告別であれば、確かにそうとも言えるかもしれません。ただラストのラスト、再度上昇しては叶わずに果てて消えてゆく旋律を聞くと、ひょっとするとマーラーは何も9番で死を迎えたわけではない。第10番こそ臨終の前に夢見た自らの一生を回顧した時の音楽ではないか。漠然とながらもそのような気がしました。
「マーラーー没後100年総特集/文藝別冊/河出書房新社」
クック補完版。驚くほどの説得力をもって演奏した都響とインバルです。終演後は大きな拍手の渦に包まれたのは言うまでもありません。チクルスのフィナーレを飾るのにも相応しい名演です。インバルはオーケストラが下がった後も再度ステージに拍手で呼ばれました。私にとっても久々に一期一会のコンサートとなりました。
マーラー 交響曲第10番嬰へ長調(クック補完版)
管弦楽 東京都交響楽団
指揮 エリアフ・インバル
2014/7/20 14:00~ サントリーホール
エリアフ・インバル指揮、都響スペシャルの「マーラーの交響曲第10番」を聞いてきました。
2012年秋よりインバルとのコンビでマーラチクルスを展開して来た東京都交響楽団。かつてはベルティーニとのチクルスも行われた。このところコンサートから遠ざかっている私ですが、やはり国内でのマーラー演奏といば都響というイメージは依然として強くあります。
そしてマーラーは私も好きな作曲家の一人。振り返っても順に9番、5番、7番に1番、3番、そして2番等々、これまでにもいくつかのオーケストラのコンサートに出かけたものでした。
ただし10番を実演で聞くのは今回が初めて。CD演奏では確かラトル盤を何度か耳にしたことがある程度に過ぎません。そして正直なところ他の交響曲に比べてあまり強い印象を持ちませんでした。言うまでもなくマーラが没した段階では10番は完成していなかった作品。当時、演奏可能の状態にあったのは第1楽章と第3楽章の冒頭のみだったそうです。
「マーラー:交響曲第10番(D.クック復元版)/インバル/フランクフルト放送交響楽団」
さてほぼ前提知識なしでのコンサート。結論から言えば素晴らしかった。曲はクック補完版。そもそもインバルは若き頃クックが補完版を作る段階で本人と議論したこともあったとのこと。まさにスペシャリストによる演奏とも言えるわけです。
第1楽章は第9番の雰囲気を思わせる静謐でかつ時に抒情的なアダージェット。この日の都響はどちらかと言うと尻上がりに調子をあげていった感もありますが、それでも重なり合う弦の響きは美しい。第2、第3楽章のスケルツォとプルガトリオ、細かい部分ではやや難もあったかもしれません。ただそれでも錯綜する主題を巧みに表現する。そもそも10番、全体的に感動的云々よりもアイロニカル、どこか物事を斜めに捉えたかのような視点があります。
作曲時のマーラーの複雑な心境や精神状態を反映してゆえのことでしょうか。都響はそれを包み隠さずに示します。マーラー的なうねりはお手の物。特有のリズム感はいささかも損なわれることがありません。それでいて堅牢に音楽は構築されています。ここはインバルのタクトの為せる技なのでしょう。万華鏡のように変化するリズムに酔いしれました。
第4楽章から第5楽章にかけての大太鼓、かのハンマーを超えるほどに衝撃的な一撃です。何という乾ききった響きなのでしょうか。頭を何度も殴るかのように響く大太鼓。痛烈の極みである。葬列を意味したとも言われる表現。しかしながらあまりにも執拗、何度も繰り返されることでまた別の意味を持ち得るのかもしれません。繰り返される太鼓の不気味なまでの響きに思わず背筋が寒くなりました。
フィナーレ、ここで殆ど唐突なまでに第1楽章の主題が帰ってきます。まるで各地を彷徨い、旅した者が、さも安息の地へと舞い戻ったかのような調べ。インバルは「死後の世界で書かれた」ともいう第10番。9番がこの世との告別であれば、確かにそうとも言えるかもしれません。ただラストのラスト、再度上昇しては叶わずに果てて消えてゆく旋律を聞くと、ひょっとするとマーラーは何も9番で死を迎えたわけではない。第10番こそ臨終の前に夢見た自らの一生を回顧した時の音楽ではないか。漠然とながらもそのような気がしました。
「マーラーー没後100年総特集/文藝別冊/河出書房新社」
クック補完版。驚くほどの説得力をもって演奏した都響とインバルです。終演後は大きな拍手の渦に包まれたのは言うまでもありません。チクルスのフィナーレを飾るのにも相応しい名演です。インバルはオーケストラが下がった後も再度ステージに拍手で呼ばれました。私にとっても久々に一期一会のコンサートとなりました。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )