都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「life/art'05 part2 田中信行」 資生堂ギャラリー 1/8
資生堂ギャラリー(中央区銀座8-8-3)
「life/art'05 part2 田中信行」
1/5~22
資生堂ギャラリーの「life/art'05」シリーズ第2弾は、漆をプレート状にした作品が興味深い、田中信行氏の展覧会です。
まず目につく作品は、漆のプレートが、床にペタッとくっ付いているかのように置かれた「the primal scene」(2005)です。厚さ5ミリほどの漆が、いくつかの凹みを見せながら、数メートルに渡ってうねうねと靡いている。表面はあまり丹念に処理されておらず、むしろ細かいキズをそのままさらけ出しています。それがどこか不気味な味わいをもたらすのでしょうか、まるで食虫植物の花がいくつも口を開けているように見えてきます。漆の美感の排除した、まるでゴムのような質感も興味深いところです。
もう一点、その横に配されているのは、真っ赤な花型の作品「触生の記憶 No.7」(2004-2005)でした。こちらはもっと艶やかに、大輪の花が生き生きと咲いているような雰囲気で、漆の質感も美しく伝わってきます。表面のキズもなく、漆を丁寧に磨いた際に生まれる、眩い輝きも持ち合わせていました。
奥の展示室にあった「Inter side-Outer side」(2005)が、この展覧会では最も美しい作品です。薄く延ばされた漆が、まるでカーテンのように、高さ約2メートルほどにまで立っている。それがちょうど半円を描いて、中にスッポリ人がおさまる仕掛けとなっています。中へ入ると、漆がミラーの役割を果たして、写り込む奇妙な紋様をいくつも見せてくれますが、外から人が入っている様子を眺るのも一興です。まるで人が漆のコートに包まれているようにも見えてきます。緩やかな曲線を描いた漆のコート。プレートと言うよりも、シートと言うべき柔らかさを感じさせながら佇んでいました。
少し物足りなさも感じましたが、漆の彫刻が空間を幾分変化させます。また、会場にはpart1にもあった白い造花の作品が残っています。これは心憎い演出です。(公式HPによれば、part5を手がける須田氏のものだそうです。)
*「part1 今村源」の感想はこちらへ。
「life/art'05 part2 田中信行」
1/5~22
資生堂ギャラリーの「life/art'05」シリーズ第2弾は、漆をプレート状にした作品が興味深い、田中信行氏の展覧会です。
まず目につく作品は、漆のプレートが、床にペタッとくっ付いているかのように置かれた「the primal scene」(2005)です。厚さ5ミリほどの漆が、いくつかの凹みを見せながら、数メートルに渡ってうねうねと靡いている。表面はあまり丹念に処理されておらず、むしろ細かいキズをそのままさらけ出しています。それがどこか不気味な味わいをもたらすのでしょうか、まるで食虫植物の花がいくつも口を開けているように見えてきます。漆の美感の排除した、まるでゴムのような質感も興味深いところです。
もう一点、その横に配されているのは、真っ赤な花型の作品「触生の記憶 No.7」(2004-2005)でした。こちらはもっと艶やかに、大輪の花が生き生きと咲いているような雰囲気で、漆の質感も美しく伝わってきます。表面のキズもなく、漆を丁寧に磨いた際に生まれる、眩い輝きも持ち合わせていました。
奥の展示室にあった「Inter side-Outer side」(2005)が、この展覧会では最も美しい作品です。薄く延ばされた漆が、まるでカーテンのように、高さ約2メートルほどにまで立っている。それがちょうど半円を描いて、中にスッポリ人がおさまる仕掛けとなっています。中へ入ると、漆がミラーの役割を果たして、写り込む奇妙な紋様をいくつも見せてくれますが、外から人が入っている様子を眺るのも一興です。まるで人が漆のコートに包まれているようにも見えてきます。緩やかな曲線を描いた漆のコート。プレートと言うよりも、シートと言うべき柔らかさを感じさせながら佇んでいました。
少し物足りなさも感じましたが、漆の彫刻が空間を幾分変化させます。また、会場にはpart1にもあった白い造花の作品が残っています。これは心憎い演出です。(公式HPによれば、part5を手がける須田氏のものだそうです。)
*「part1 今村源」の感想はこちらへ。
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「風と共に去りぬ」 ル テアトル銀座 1/7
2006-01-08 / 映画
ル テアトル銀座(中央区銀座)
「風と共に去りぬ」
(1939年/アメリカ/ヴィクター・フレミング監督)
映画史上不朽の名作とも呼ばれる「風と共に去りぬ」。そのデジタル・ニューマスター版が今、「ル テアトル銀座」にて公開されています。休憩を挟んで全4時間弱。重厚長大な大河、あるいはメロドラマにどっぷり浸かってきました。
あまりにも有名でかつ、語り尽くされた作品でもあるので、今更私がどうこう言うまでもありませんが、「タラのテーマ」を初めとしたプッチーニ風の甘美でゴージャスな調べにのる、愛に支配されたスカーレットの生き様。時にディケンズ風の冒険劇を交えた、アメリカ南北戦争を舞台とする大河ドラマの壮大さと、まるで「アンナ・カレーニナ」のようなあまりにも哀れな女性の悲劇。メロドラマが限りなく大きく脚色され、ニューマスターによって驚くほど鮮明となった南部の美しい映像と合わさります。これほどにダイナミックなメロドラマもありません。
スカーレットはあまりにも愛に生き過ぎ、また愛にすがり過ぎました。だからこそわがままで、まるでじゃじゃ馬のように振る舞って、ともかく愛を求めるのでしょう。アシュリーに抱いていた愛は、メラニーの死によって初めて幻想だと分かった。この映画で最も美しいシーンは、まるでマグダラのマリアのように描かれたメラニーの死です。スカーレットのアンチテーゼとしても描かれた彼女は、死ぬことによって、ようやくスカーレットに真の愛の姿を示します。しかしそれに気付いたスカーレットはもう遅かった。バトラーは最後までスカーレットを愛していたからこそ、彼女に試練を与えるかのように、自立を促します。スカーレットは、全ての源であるタラへ舞い戻って、本当の愛を獲得するための生活を始める。彼女の強い生への執念は、ようやくここで真の愛と交わるのかもしれません。
劇中でのスカーレットのわがままぶりには半ば呆れ果ててしまいますが、見終わってしばらく経ち、彼女の心の弱い部分に気がつくと、バトラーの彼女への想いが、メラニーの天使的な愛を上回るほどの、大きな慈愛に繋がっていたように見えてきます。アシュレーこそ全く軽薄です。(個人的にはかなり好きなキャラですが…。)彼女はスカーレットに何も示せなかった。しかしバトラーは違う。いくら成金的で、娼婦を囲った生活を送っていたとしても(むしろだからこそ。)愛の意味を知っていた。常にアイロニー的な人物描写が鼻につきますが、それは彼の人物の大きさを示さないための隠れ蓑だったのかもしれません。激しい情熱を見せながら、愛を妄信し過ぎたためにあまりにも哀れだったスカーレットと、軽佻浮薄で哀れなはずでありながらも、実は激しく真に人を愛すことを知っていたバトラー。最後になってようやく惨めさに気付いたスカーレットが、バトラーへの愛に目覚めたのも当然です。
南部の生活や、黒人奴隷の描かれ方などは、やや時代を感じさせるものもありましたが、4時間という上映時間の長さを感じさせない、濃密な愛の物語を楽しませてくれました。テアトル銀座では今月31日までの上映です。
「風と共に去りぬ」
(1939年/アメリカ/ヴィクター・フレミング監督)
映画史上不朽の名作とも呼ばれる「風と共に去りぬ」。そのデジタル・ニューマスター版が今、「ル テアトル銀座」にて公開されています。休憩を挟んで全4時間弱。重厚長大な大河、あるいはメロドラマにどっぷり浸かってきました。
あまりにも有名でかつ、語り尽くされた作品でもあるので、今更私がどうこう言うまでもありませんが、「タラのテーマ」を初めとしたプッチーニ風の甘美でゴージャスな調べにのる、愛に支配されたスカーレットの生き様。時にディケンズ風の冒険劇を交えた、アメリカ南北戦争を舞台とする大河ドラマの壮大さと、まるで「アンナ・カレーニナ」のようなあまりにも哀れな女性の悲劇。メロドラマが限りなく大きく脚色され、ニューマスターによって驚くほど鮮明となった南部の美しい映像と合わさります。これほどにダイナミックなメロドラマもありません。
スカーレットはあまりにも愛に生き過ぎ、また愛にすがり過ぎました。だからこそわがままで、まるでじゃじゃ馬のように振る舞って、ともかく愛を求めるのでしょう。アシュリーに抱いていた愛は、メラニーの死によって初めて幻想だと分かった。この映画で最も美しいシーンは、まるでマグダラのマリアのように描かれたメラニーの死です。スカーレットのアンチテーゼとしても描かれた彼女は、死ぬことによって、ようやくスカーレットに真の愛の姿を示します。しかしそれに気付いたスカーレットはもう遅かった。バトラーは最後までスカーレットを愛していたからこそ、彼女に試練を与えるかのように、自立を促します。スカーレットは、全ての源であるタラへ舞い戻って、本当の愛を獲得するための生活を始める。彼女の強い生への執念は、ようやくここで真の愛と交わるのかもしれません。
劇中でのスカーレットのわがままぶりには半ば呆れ果ててしまいますが、見終わってしばらく経ち、彼女の心の弱い部分に気がつくと、バトラーの彼女への想いが、メラニーの天使的な愛を上回るほどの、大きな慈愛に繋がっていたように見えてきます。アシュレーこそ全く軽薄です。(個人的にはかなり好きなキャラですが…。)彼女はスカーレットに何も示せなかった。しかしバトラーは違う。いくら成金的で、娼婦を囲った生活を送っていたとしても(むしろだからこそ。)愛の意味を知っていた。常にアイロニー的な人物描写が鼻につきますが、それは彼の人物の大きさを示さないための隠れ蓑だったのかもしれません。激しい情熱を見せながら、愛を妄信し過ぎたためにあまりにも哀れだったスカーレットと、軽佻浮薄で哀れなはずでありながらも、実は激しく真に人を愛すことを知っていたバトラー。最後になってようやく惨めさに気付いたスカーレットが、バトラーへの愛に目覚めたのも当然です。
南部の生活や、黒人奴隷の描かれ方などは、やや時代を感じさせるものもありましたが、4時間という上映時間の長さを感じさせない、濃密な愛の物語を楽しませてくれました。テアトル銀座では今月31日までの上映です。
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