天を仰ぐハムやん
以前、「神は乗り越えられる試練しか与えない」について書きましたが、それは「論語」からの引用だというヒントをもらいました。ちょうどEテレの「100分de名著」で「老子」を取り上げていたので、それなら孔子はとっくに放送しただろうと思って公式HPを見たところ、案の定、2011年5月に放送されていました。私がこの番組を見るようになったのはカフカの「変身」あたりからなので「論語」は見逃しましたよ。
「神は~」はやたらに見聞きするので、だれかがテレビで言ったとか、何かきっかけがあるのだろうとは思っていたのですが、テレビで論語について話していたなら、そこから耳に心地いいフレーズが広まることは十分ありえますからね、とりあえず、NHK出版から出ている「100分de名著 孔子 論語」を買ってきて読んでみました。
読み進めていくと、「天」という単語はちょこちょこ出てきました。孔子は「天の道理」を固く信じていたが、孔子の「天を信じる」という気持ちは信仰ではない、そういうものとは一線を画している、儒教は宗教ではない、孔子が訴えていたのはこの世をよりよく生きるための現世的な心構えである、とのことです。ふぅむ、それでなぜ「神は~」なんて出てくるのだろうかと不思議に思いましたが、第4回放送のところまで来て謎が一気に解けました(^・^)。
講師の佐久協(さく やすし)氏が「天に対する、信仰とは違う信念をもっていたんです。天は、神様に似てるけれどちょっと違う、宇宙の法則や自然の摂理にやや近いものです。倫理的な法則があり、イザという時に、天が介在するんです」と言い、さらに「天は我々に恵みを与えてくれ、決して見放しはしない、というある種の楽観的な考え方である『天恵派』です。逆境の中でも、『心身を正しく保っていれば、天は絶対に恵みを与えてくれる』というような信念をもっていたんです」と続けました。
そして、司会者が佐久氏に「人は、逆境から目をそむけたくなったり、逃げ出したくなるものだと思います。孔子はそのあたりのことを何と言っているのでしょうか」と質問し、佐久氏が「現代的に直すと『人間が乗り切れないような試練はない』と言っています。『試練というのは必ず乗り切ることができる』とね」と答えました。
さらに、病気の弟子を見舞って言った孔子の言葉「これ亡からん、命(めい)なるかな。斯(こ)の人にして斯の疾(やまい)あること、斯の人にして斯の疾あること」について、「天恵派の考え方で訳すると、『病気になるような天命はないよ、少なくともこれは天罰じゃないよ。これはお前に与えられた試練なんだ。試練というのは必ず乗り切れる。天は人が乗り切れるだけの試練を与えるんだよ』という励ましの言葉になる。僕はそういうふうに受け取っているんです」と言いました。
ふむふむ、ということは、「神は~」は、「論語」からの引用というより、佐久氏なりに現代的に解釈して膨らませたイメージがもとになっているということですね。そして、それが妥当な解釈であると仮定しても、なぜ「天は人が乗り切れるだけの試練を与える」ではなく「神は乗り越えられる試練しか与えない」なのかという疑問が残るのですよ。「神は~」なんて言ってしまうと、これはもう「論語」ではないですから。
「100分de名著」に戻りますね。続けて、ゲストの佐々木常夫氏が「私は、神様から試練を与えられたというよりも、神様はちょっといたずらをしただけで、そのうちいたずらに飽きてどっかに行っちゃうだろう、と思いました。来月になったら家内は元気になるんじゃないか、来年になったらきっといい日が来るはずだと、いつもそう思っていました。そうすることで乗り切れた気がします」と言ったところ、司会者が「基本的な解釈は同じだと言えますね」と言い、佐久氏が「そうだと思いますよ」と言ったのです。
これですよ、これ! 佐久氏は「天」と「神」を区別し、「天は~」という表現をしていますが、佐々木氏が「神様は~」と表現し、司会者が基本的な解釈は同じだと言い、佐久氏が同意した、これで「天は人が乗り切れるだけの試練を与える」が「神は乗り越えられる試練しか与えない」に変わりました。変えた人がいるのでしょう、しかも大勢。「変えた」が言い過ぎなら「受け取った」「解釈した」でしょうか。
もちろん、他の著名人の名言として、「神は~」と同じ趣旨の言葉、似たような表現があるかもしれませんし、これが全てだとは言いませんが、「神は~」が広まった一つの要因であると想像することはできます。それにしても、なぜ、あちらこちらで見聞きするのが「天は人が乗り切れるだけの試練を与える」ではなく「神は乗り越えられる試練しか与えない」なのでしょうかねぇ( ̄・ ̄)?
以前、「神は乗り越えられる試練しか与えない」について書きましたが、それは「論語」からの引用だというヒントをもらいました。ちょうどEテレの「100分de名著」で「老子」を取り上げていたので、それなら孔子はとっくに放送しただろうと思って公式HPを見たところ、案の定、2011年5月に放送されていました。私がこの番組を見るようになったのはカフカの「変身」あたりからなので「論語」は見逃しましたよ。
「神は~」はやたらに見聞きするので、だれかがテレビで言ったとか、何かきっかけがあるのだろうとは思っていたのですが、テレビで論語について話していたなら、そこから耳に心地いいフレーズが広まることは十分ありえますからね、とりあえず、NHK出版から出ている「100分de名著 孔子 論語」を買ってきて読んでみました。
読み進めていくと、「天」という単語はちょこちょこ出てきました。孔子は「天の道理」を固く信じていたが、孔子の「天を信じる」という気持ちは信仰ではない、そういうものとは一線を画している、儒教は宗教ではない、孔子が訴えていたのはこの世をよりよく生きるための現世的な心構えである、とのことです。ふぅむ、それでなぜ「神は~」なんて出てくるのだろうかと不思議に思いましたが、第4回放送のところまで来て謎が一気に解けました(^・^)。
講師の佐久協(さく やすし)氏が「天に対する、信仰とは違う信念をもっていたんです。天は、神様に似てるけれどちょっと違う、宇宙の法則や自然の摂理にやや近いものです。倫理的な法則があり、イザという時に、天が介在するんです」と言い、さらに「天は我々に恵みを与えてくれ、決して見放しはしない、というある種の楽観的な考え方である『天恵派』です。逆境の中でも、『心身を正しく保っていれば、天は絶対に恵みを与えてくれる』というような信念をもっていたんです」と続けました。
そして、司会者が佐久氏に「人は、逆境から目をそむけたくなったり、逃げ出したくなるものだと思います。孔子はそのあたりのことを何と言っているのでしょうか」と質問し、佐久氏が「現代的に直すと『人間が乗り切れないような試練はない』と言っています。『試練というのは必ず乗り切ることができる』とね」と答えました。
さらに、病気の弟子を見舞って言った孔子の言葉「これ亡からん、命(めい)なるかな。斯(こ)の人にして斯の疾(やまい)あること、斯の人にして斯の疾あること」について、「天恵派の考え方で訳すると、『病気になるような天命はないよ、少なくともこれは天罰じゃないよ。これはお前に与えられた試練なんだ。試練というのは必ず乗り切れる。天は人が乗り切れるだけの試練を与えるんだよ』という励ましの言葉になる。僕はそういうふうに受け取っているんです」と言いました。
ふむふむ、ということは、「神は~」は、「論語」からの引用というより、佐久氏なりに現代的に解釈して膨らませたイメージがもとになっているということですね。そして、それが妥当な解釈であると仮定しても、なぜ「天は人が乗り切れるだけの試練を与える」ではなく「神は乗り越えられる試練しか与えない」なのかという疑問が残るのですよ。「神は~」なんて言ってしまうと、これはもう「論語」ではないですから。
「100分de名著」に戻りますね。続けて、ゲストの佐々木常夫氏が「私は、神様から試練を与えられたというよりも、神様はちょっといたずらをしただけで、そのうちいたずらに飽きてどっかに行っちゃうだろう、と思いました。来月になったら家内は元気になるんじゃないか、来年になったらきっといい日が来るはずだと、いつもそう思っていました。そうすることで乗り切れた気がします」と言ったところ、司会者が「基本的な解釈は同じだと言えますね」と言い、佐久氏が「そうだと思いますよ」と言ったのです。
これですよ、これ! 佐久氏は「天」と「神」を区別し、「天は~」という表現をしていますが、佐々木氏が「神様は~」と表現し、司会者が基本的な解釈は同じだと言い、佐久氏が同意した、これで「天は人が乗り切れるだけの試練を与える」が「神は乗り越えられる試練しか与えない」に変わりました。変えた人がいるのでしょう、しかも大勢。「変えた」が言い過ぎなら「受け取った」「解釈した」でしょうか。
もちろん、他の著名人の名言として、「神は~」と同じ趣旨の言葉、似たような表現があるかもしれませんし、これが全てだとは言いませんが、「神は~」が広まった一つの要因であると想像することはできます。それにしても、なぜ、あちらこちらで見聞きするのが「天は人が乗り切れるだけの試練を与える」ではなく「神は乗り越えられる試練しか与えない」なのでしょうかねぇ( ̄・ ̄)?