会津若松市のシンボルといえば若松城、地元では鶴ヶ城の名前で知られているが、今の形に近い若松城となったのは1592年に蒲生氏郷が入城して以降のことである。さらに1593年に天守を竣工して名を鶴ヶ城と改めた。その後、藩主は蒲生氏⇒上杉氏⇒加藤氏と変わり、加藤氏が改易されると1643年に3代将軍家光の弟に当たる保科正之が入城、それ以降保科を松平に改め、藩主として居城した。しかし、戊辰戦争で新政府軍と戦い、籠城することとなる。1ヶ月あまりも城は落城することはなかったが、砲撃を受け建造物の傷みも激しく、明治になり、城は取り壊された。その後再建されることになり、1960年に鉄筋コンクリート造りの今の姿となった。

4階建ての城の天守からは飯盛山もはっきり見える。大河ドラマブームであった2年前に来た際には大変な混雑であったが、いまはゆっくり見れる状況にある。

城に登りながら、ふと会津戦争の際に飯盛山から鶴ヶ城が燃えて落城したと錯覚し、白虎隊の少年たちが自刃したと伝えられているが、飯盛山からは鶴ヶ城がどのように見えるのかが気になり、翌朝、早速、鶴ヶ城に向かった。

飯盛山は会津若松市の東端にあり、高さは314Mの飯を盛ったような形をした小山である。階段が嫌いな人にはエスカレーター(有料)で上がれる仕組みで、その上には自刃した白虎隊のお墓がある。

その墓から5分くらいのところに先ほどの鶴ヶ城を見て落城したと勘違いした自刃した場所があるので行ってみた。その場所には城の方向を見ている少年像がある。

像の指差す方向を臨むとかなり時間をかければ城があることは確認できるが、大変小さく正直言って鮮明には見えない。当時、城の近くにあった武家屋敷が燃えるのを見て鶴ヶ城が落城したと思ったのはやむを得ないなあと実感した。(次の写真がそのまま撮った写真、次は拡大したもの。ちなみに鶴ヶ城は写真の真ん中やや左側に有る)


その後、栄螺堂という変わった仏堂を見学した。これは正式には『旧正宗寺三匝堂』で二重らせん構造の斜路を持つ建物。簡単に言うと3階建ての建物だが、上りの通路と下りの通路が別に有り、下から頂上まで行き下まで降りる間に他者とすれ違わない構造になっている。こんな複雑な構造江戸時代の大工が作ったこと自体に驚いた。現在は重要文化財となっているが、拝観料を払えば登ることができる。しかし、傷みもひどく、登れなくなりそうでもあり、ぜひ会津に行かれたら登ってみるといい。





4階建ての城の天守からは飯盛山もはっきり見える。大河ドラマブームであった2年前に来た際には大変な混雑であったが、いまはゆっくり見れる状況にある。

城に登りながら、ふと会津戦争の際に飯盛山から鶴ヶ城が燃えて落城したと錯覚し、白虎隊の少年たちが自刃したと伝えられているが、飯盛山からは鶴ヶ城がどのように見えるのかが気になり、翌朝、早速、鶴ヶ城に向かった。

飯盛山は会津若松市の東端にあり、高さは314Mの飯を盛ったような形をした小山である。階段が嫌いな人にはエスカレーター(有料)で上がれる仕組みで、その上には自刃した白虎隊のお墓がある。

その墓から5分くらいのところに先ほどの鶴ヶ城を見て落城したと勘違いした自刃した場所があるので行ってみた。その場所には城の方向を見ている少年像がある。

像の指差す方向を臨むとかなり時間をかければ城があることは確認できるが、大変小さく正直言って鮮明には見えない。当時、城の近くにあった武家屋敷が燃えるのを見て鶴ヶ城が落城したと思ったのはやむを得ないなあと実感した。(次の写真がそのまま撮った写真、次は拡大したもの。ちなみに鶴ヶ城は写真の真ん中やや左側に有る)


その後、栄螺堂という変わった仏堂を見学した。これは正式には『旧正宗寺三匝堂』で二重らせん構造の斜路を持つ建物。簡単に言うと3階建ての建物だが、上りの通路と下りの通路が別に有り、下から頂上まで行き下まで降りる間に他者とすれ違わない構造になっている。こんな複雑な構造江戸時代の大工が作ったこと自体に驚いた。現在は重要文化財となっているが、拝観料を払えば登ることができる。しかし、傷みもひどく、登れなくなりそうでもあり、ぜひ会津に行かれたら登ってみるといい。



