かつて東京市が旧35区(うち都心15区)であった時代には現在の中央区は旧日本橋區と旧京橋區に分かれていた。その名残が旧日本橋區の方は全ての地名に『日本橋』がついている点である。一方、京橋は地名や駅名としては残されているが、地名に京橋○○町というものはない。
今回は鍛治橋通りから中央通りを経て首都高京橋ランプまで歩いて旧跡を巡る。
鍛治橋の角には日東紡ビル、福岡ビルなど比較的古いビルが並んでいるが、反対側の明治や片倉チッカリンのビルは建て直されてかなり趣きが変わっている。
その片倉館に残されていたメダリオンが新しいビルの前に記念として飾られている。
さらに裏側には明治・大正・昭和・平成の写真付きのパネルもあり、時代を感じさせる。
その先が中央通り、右に曲がるとすぐに京橋に到着する。京橋は元は京橋川に架かる橋であったが、高速道路建設に伴い1959年に京橋川が暗渠到着なった際に欄干のみを残し、橋は無くなった。
橋のあった後には欄干と橋の碑が残されている。更に近くにはガス燈の碑、京橋大根河岸青物市場跡の碑、東京歌舞伎の碑などが残されている。
江戸時代は京橋川河岸には大根を中心とした野菜の荷揚げ市場があり、このあたりは『大根河岸』と呼ばれた。関東大震災まで続いたが、その後野菜市場は神田・築地に移り、それを偲び『京橋大根河岸青物市場跡の碑』が建てられた。
『江戸歌舞伎発祥の地』は中村座の始祖である猿若勘三郎が1624年に中橋南地で櫓を上げたため、この地に碑が建てられたものである。
さらに昭和通りを越えて京橋ランプに向かうと左側には『三つ橋の跡』の碑がある。これは明治の頃までは4本の川が交差し、楓川には弾正橋、京橋川には白魚橋、三十間堀には真福寺橋が架かっていた。この3つの橋を三つ橋と称していたため、この碑が建てられた。今も橋はあるが、下には高速道路が通り、水の代わりに車が流れている。
京橋自体が何処に橋があったのかも分からない状態になっているが、かつては京橋川を中心に栄えていた江戸時代の一部を碑を巡るだけでも偲ぶことができる。