hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

更科堀井~麻布十番ランチグルメ

2015-06-20 05:00:36 | 日記

立食そばや駅そばの話を書いていたが、やはり、老舗の蕎麦屋にもたまには行きたくなる。

ところで麻布十番には布屋太兵衛を始祖とする蕎麦屋が3店もある。というのは永坂更科は7代目松之助の放蕩により1941年に一旦倒産、廃業する。7代目から屋号使用許諾を得た馬場という人が『永坂更科本店』を開業したが、屋号の使用に関し、訴訟になり、『麻布永坂 更科』とした。

これに対し、7代目らは1949年に『永坂更科 布屋太兵衛』を再興、法人名『永坂更科』を商標登録した。その後、8代目が独立して店を構えるが、屋号に布屋を使ったため、また訴訟になり、結果、自らの姓である堀井を付けて『総本家 更科堀井』と名乗った。そのため、麻布十番には更科系の老舗の3軒近いところに店をかまえている。

前置きは長くなったが、麻布十番駅からは『永坂更科 布屋太兵衛』の前を通過して5分程で『総本家 更科堀井』に着く。ちょうど、暗闇坂の下くらいである。

店の前には大きな提灯、中に入ると周りにボックス席があり、中央にはカウンター席となっている。カウンターに座るとすぐに冷たい蕎麦茶とおしぼりが出される。

メニューを見るとこの店は選択の数が多いことに驚く。まず、蕎麦は4種類、『もり』『さらしな』『太打ち』『季節の変わり蕎麦』から選べる。因みに今は『蓼切り』で、21日からは『トマトつなぎ』になる。今日は『もり』にする。
蕎麦つゆも2種類、『もり』『太打ち』はからたれ、『さらしな』『変わり蕎麦』は甘だれとなっている。
天ざるにしたのだが、天ぷらも3種、車海老、小海老、かき揚げから選択。今回はかき揚げを選ぶ。

これだけ選ぶことができるのは中々楽しい。すぐにたれと薬味、蕎麦猪口が出される。待つこと6分、天ざるが登場。230円追加して大盛りにしたが、確かに大盛りである。蕎麦を一口食べるが、コシがあり、風味もいい。

天ぷらの上はふわふわと揚げ玉が乗っており、箸を入れるとハラハラと落ちる。それを少しタレに入れ、次の一箸蕎麦を食べる。コクが出て、またこれもうまい。

かき揚げを割ると三つ葉と小海老が出てくるが、これなら小海老の選択では勿体無いなあ、などと貧乏くさいことを考える。サクサクしていてかき揚げも美味。かき揚げと蕎麦を食べると至福の時がやってくる。一つだけ不満を言うならば、かき揚げがサクサクなだけにつゆが足りないことだけである。

大盛りにしたため、昼食としては十分な量で満足できた。斜め後ろの席からはジューという音、何かと思うとカモ焼きを食べ、ビールを飲んでいる。ああ、羨ましいなあと思い、メニューを見ると中々のラインナップ。今度は飲みに来たくなった。

最後に天ぷらのかすをつゆに入れ、蕎麦湯を入れるとホッとする旨さ。これで2千円でお釣りがくるならば十分、さすがに美味かった。ご馳走さま。

更科堀井
港区元麻布3ー11ー4
0334033401

隙間から生える植物

2015-06-19 05:00:11 | 日記

町歩きをしていて靴紐を結び直した際に目の前に鑑賞用トウガラシの姿があった。それは万年塀の下から生えているもので、土は家の敷地の中、生えているのは塀の外である。

よく考えると去年もここから生えていて、冬の間は根が残り、春になったのでまた大きくなり、実を付けたものだ。まだ、実が緑色だが、これからも朱色になっていく。

その先を見ると今度はドクダミの白い花が見える。咲いているだけなら其れ程は臭わないが、抜くと出る液体があの独特な嫌な匂いを出すのが特徴で地下茎で伸びるため、ススキや葛同様に蔓延る植物である。食用にしたり、薬用に使ったりすることもでき、ハーブティーの原料にもなるが、小生はあの匂いが堪らなく嫌いである。因みに名前の由来は『毒矯み』、つまり毒を止めるという意味からきている。



更に駅に向かう途中に家の塀と下のブロックの間から桐のような木が生えている。よく見ると本当に狭い間から沢山の葉が付いて伸びている。このまま成長すると塀を動かしそうな勢いである。

すぐ近くには近くの木から種が飛んだのか、百日紅が塀と金網の間から顔を出す。毎年大きくなってきているようでもうじきピンクの花を付ける。

こうして見ていると僅かな隙間や僅かな土の中から生えている木や草は結構多く、なぜか成長が早い気もする。庭の花もいいが、こうした植物の逞しさも中々いい。

田原町駅(東京メトロ銀座線)

2015-06-18 05:00:28 | 日記

『metroに乗って』その21。今回は東京メトロ銀座線田原町駅、浅草~上野は日本で最初に地下鉄が開業した区間で開設は1927年だからもうすぐ90年にもなろうとしている。そのため、隣の稲荷町駅同様に下りホームと上りホームをつなぐ通路などない。また、駅名の田原町は駅開業当時から存在しなかったが、最寄りに東京市電の田原町電停があったのでその名前を取り付けられた。

しかし、そのような昔ながらの駅ではあるが、浅草方面のホームには出口が2つもあり、後ろ側の出口はエレベーター専用出口だが、合羽橋商店街に行くには便利である。ただ、エレベーターの前にはここは浅草駅しかいけないことと行けない渋谷方面とその先の乗換え路線に赤でバツ印が付いて、その方面に行くにはもう一度エレベーターに乗るようにお願いする文言が書かれている。

その合羽橋方面の出口に上がり、上野方面に歩くと道を隔てて反対側には仏具店がずらり並ぶが、こちら側には一軒も無い。


また、その先にはなんとつけ麺大王の看板がある。今も営業しているようだが、時間が中途半端なため、確認はできなかった。

浅草本願寺の石柱、先を曲がると大きな建物が見ることができる。やはり、墓地の広告が大きく出されている。


その先の角を右に曲がると合羽橋商店街だが、角の『ニイミ』の巨大なコックの胸像が目印である。

曲がると食堂やレストラン、屋台などのプロショップと食器や業務用の食材、食品サンプルを売る店が軒を連ねている。平日の午後であったが、大勢の人が店に屯している。しかし、よく見ると中国などのアジア系外国人は多いが、意外にアメリカ人やドイツ人なども多い。


包丁を買おうと店に入ったが、丁度、フランス語を話す女性が包丁に銘を入れてもらっていた。


横道にそれるが、包丁の選び方を店員さんに聞いたが、やはりプロが推すのは鍛造の鋼の包丁。切れ味の悪くなり方が遅いのは間違いなく、ガクンと切れなくなることもない。ただ、錆びることは間違いなく、初心者にはステンレスの方が良いとの話。形はいわゆる文化包丁の方が牛刀より野菜が上手く切れるとか、包丁の上部がツルツルでない方が野菜を切った際に切ったものが、刃に付かないとか色々と親切に教えてくれた。


途中で反対側に渡り、戻ったが、人だかりがしているのは食品サンプルの店、修学旅行生達も大挙して訪れていた。プロの人も多く、さすがに日本が誇るプロショップと感心した。

帰るために反対側に渡り、浅草方面に歩いたら、次の角の先には寺がある。



覗いてみるとこの寺には熊谷稲荷とはなし塚が有名で、戦時中禁じられた演目が収められ、戦後禁演落語復活祭が催されたらしい。そのため、寺の塀には寄進したマスコミ関係者や寄席、落語家の名前が数多く残されていて面白い。

神楽坂付近の坂道(3)

2015-06-17 05:00:47 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』その46。神楽坂周辺の坂道の3回目、今回は善国寺から始める。善国寺は神楽坂のほぼ中間地点にあり、1595年に池上本門寺12代貫主日惺上人により、当初日本橋馬喰町に創建された。火災に度々見舞われ、1793年に現在の位置に移転した。



本尊は毘沙門天で芝正伝寺、浅草正法寺とともに江戸三大毘沙門と呼ばれた名刹である。因みに狛犬の代わりに一対の石虎が置かれているのが面白い。


神楽坂は長い坂で飯田橋駅から外堀通りを渡った所が起点で一旦登り、善国寺の手前あたりから一旦フラットになり、その先は緩く下り、大久保通りとの交差点が終点となる。標識は善国寺の前にあるが、名前の起源は(1)高田穴八幡のお旅所があり、祭礼の際に神輿が通過する際に神楽を奏したという説、(2)若宮八幡の神楽の音がここまで聞こえたという説、(3)津久戸明神が牛込に移ってきた際に神輿が重くてこの坂を登れなかったが、神楽を奏したところ容易に坂を登ることができるようになったという説などがある。

また、特異なのはこの坂は大久保通りから午前中は外堀通りに向けて一方通行だが、午後は一方通行が、逆になる。都市伝説に田中角栄のためにこの規制が行われたとの説があるが、その真実は分からない。因みに今の形式になったのは1958年である。


善国寺の先を左に曲がり、道なりに歩き、右に曲がると神社があるが、その先を右に曲がり、クランクの先が『新坂』、新坂は東京には多い坂の名前だが、この坂も1731年に諏訪安芸守の屋敷地にできたものである。


その先を左に曲がると『逢坂』になる。湾曲した坂でその名前にはエピソードがある。昔、小野美作吾という人が武蔵守になり、この地にきた際に美しい娘と恋仲になったが、都に戻り没してしまった。しかし、娘の夢の中でこの坂道で出会ったという伝説からこの名前が付いた。


坂の下には船河原築土神社があるが、その横には悲しい伝説がある『堀兼の井戸』がある。



坂下まで行くと外堀通りに出るが、左に曲がり、次を左に曲がると『庾嶺坂(ゆれいさか)』となる。その名前は江戸時代2大将軍秀忠がこの辺りに素晴らしい梅林が広がっているのを知り、中国江西省の梅の名所大庾嶺に因み名付けたと言われている。


とにかく神楽坂付近には坂道が多く、名前がない坂も含めるといくつあるのかが、分からないくらいで、道も細く曲がっているため、中々坂道を見つけるのが難しい。3回でまだ5分の3程度に留まっており、残りの坂道をさらえるべく、再度回ってみることにしたい。

スモークツリー

2015-06-16 05:00:04 | 日記

面白い樹木には色々ある。例えば先日のブログに書いた神代植物公園で目にしたハンカチノキや深大寺にあったナンジャモンジャノキなどもそうだが、こんな木が庭に生えていれば、楽しいだろう。今回ご紹介するのはご近所でいつもこの季節に咲く(?)スモークツリーという樹木である。スモークツリーとか煙の木と聞いてもピンとこないかも知れないが、本物をみるとすぐわかる。


この木は落葉性、ウルシ科に属し、高さは高いもので5mくらいになる。5月~6月に3mmほどの小さな淡緑色の花を穂状にたくさん咲かせ、咲き進むと紫がかった色になる。雌株は花の軸の部分が長く伸びて羽毛のようになり、もふもふした感じになる。つまり、もふもふしているのは花ではなく、花柄なのである。

和名ではハグマ(白熊)の木と呼ばれるが、ハグマとはヤクの尻尾の白毛のことで、これで作られた仏具の払子(ホッス)に見立てたものである。


煙の木とはよく言ったもので、特に花の咲きかけの淡緑色のこの時期は中々美しい。しかも、この煙の部分は結構長く楽しめる樹木である。

また、最近は生花にもよく使われるようで、赤紫色のものをホテルの玄関などでよく目にするようになった。あのもふもふ感はふかふかの犬同様に見るだけで気持ちがいいものである。

神楽坂付近の坂道(2)

2015-06-15 05:00:39 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』その45。神楽坂周辺の坂道の2回目。朝日坂の先を左に曲がると大久保通りの直前に階段の坂道が現れる。これが『袖摺坂』、細い坂道で袖が触れるほどということから名付けられたが、番町の袖摺坂と異なり、今も細いまま残されている。


坂を下りると目の前には地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅がある。さらに大久保通りは若松町方面に緩やかに登っているが、この坂道が『弁天坂』。坂の下の南蔵院に弁天様が祀られているため、この名前が付けられた。明治後期の新撰東京名所図絵にはおでんや甘酒を売る屋台が並び南蔵院への参拝客で賑わっていた様子が描かれている。



今度は南蔵院の横の湾曲した坂道をあがるが、この坂道には名前が無く、少し進むと袋町に入る。

この辺りは今でも小さな町が多いが、『袋町』の名前は江戸時代に次に出てくる地蔵坂には藁を売る店が多く、藁店(わらだな)と呼ばれ、また、坂の上には現在の北町(当時は牛込北御徒町)に入るところで御徒組の門に突き当たり、袋小路となっていたために付けられたと言われる。

他にも『払方町』『若宮町』『北町』『中町』『南町』『箪笥町』『細工町』『納戸町』など小さな町が多く残るエリアである。ただ、住居表示が昔のままのため、外回りをして顧客を回るのは一苦労である。因みに人口は袋町全体で631人である。

その先を元の早稲田通りに向かうと細く左に湾曲した坂道が出てくるが、これも『地蔵坂』。袋町の地蔵坂は坂の上に光照寺があり、三井寺より移されたという子安地蔵があったため、この名前が付けられた。



坂道を下りきると神楽坂通りに出てすぐ横には神楽坂のシンボル善国寺が現れるが、この寺からは次回にレポートする。

品川駅の立食いそば

2015-06-14 05:00:10 | グルメ

毎日、街を歩き回ると暇な日もあれば忙しい日もある。忙しい日に有難いのが駅ナカの食堂である。最近は上野や恵比寿のように立派なレストランを取り揃えているところも多いが、小生は駅のホームで立ち食い蕎麦をすするのが好きである。

駅のホームの立ち食い蕎麦も渋谷駅や吉祥寺駅のようにしっかり囲われたタイプが増えてきたが、品川駅の各ホームには昔ながらの立ち食い蕎麦の店がある。

夫々の店の味が違いのかは知らないが、よく寄るのは山手線ホームの店、かなり気温も上がってきたが、相変わらず扇風機2台で頑張っている。11時45分だが、まだ其れ程客も多くなく、小生はなんとなくかき揚げそば(440円)を券売機で購入、おじさんに渡す。

すると『かき揚げそば一丁』と景気の良い声でおばさんには注文を伝え、すぐに茹で麺をお湯の中に入れる。温まると丼に入れ、かき揚げとネギをのせ、汁をかける。この間約2分、小生が食べる場所はいつもの通り山手線大崎方面側の扇風機の前。汁は東京らしく濃い醤油色、かき揚げはサクサクしないモッチリ系で玉ねぎ・にんじんの他にイカゲソの刻んだものも入っている。

ここの蕎麦は街中の富士そばと違い、汁が熱い。これは冬ならすぐ冷めるかららしいが、夏は辛い。扇風機は頑張っているが、蕎麦をすすり、汁を飲むとさすがに汗が滴る。やはり、七味をかけすぎたのも敗因かもしれないなどと考えながら、5分で完食。

味が一流ということはないが、満腹で丼を返すとおじさんが『行ってらっしゃい、おきおつけて』この一言も嬉しい。外に出るとすぐに電車が、便利である。この店は朝は6時から夜は11時半まで、これからの季節暑くなるが、店の人には頑張って貰いたいものだ。

仲御徒町駅(東京メトロ日比谷線)

2015-06-13 05:00:56 | 日記

『metroに乗って』その20。今回は東京メトロ日比谷線仲御徒町駅から歩く。仲御徒町駅は日比谷線と同時の1963年3月開業した『御徒町』の名前がつく駅の中では二番目(一番はJR御徒町駅)に古い。今は上野5丁目に駅はあるが、1964年までは仲御徒町1~2丁目と言った。


因みに『御徒町』は山手線の駅では秋葉原などと共に難読駅の一つだが、その名前は江戸時代に馬に騎乗できない下級武士である『御徒(かち)、徒士』が住んでいたことに由来する。当時は俸給だけでは生活ができず、内職をしながら暮らす武士たちの長屋があった場所である。


仲御徒町駅を上がると昭和通りと春日通りの交差点に出るが、この辺りにはディスカウンターの老舗である多慶屋の店が多く並んでいる。外から見ると紫色のビルが聳えているが中は倉庫のようなビルである。




昭和通りを渡り、御徒町に向かうと銀行が数多くあり、その先がJR御徒町駅、その先には新築なった吉池が立っている。1~3階はユニクロに貸しているが、1階の半分は活魚売り場。通常のスーパーと異なり、セミエビやタコの卵、殻付きの牡蠣、数種類あるウニ、特に殻付きには驚く。


地下2階は越後の日本酒を中心に大した品揃えである。



すぐ隣が上野松坂屋、駅は御徒町だが、この辺りは上野広小路と呼ばれたからやむを得ない。また、隣にはトンカツの名店蓬莱屋も静かに立っている。


春日通りを挟んで反対側にアメ横商店街が広がる。昔ながらの売り方をする菓子店やくだもの店、鮮魚店などが広がる。


また、1歩路地に入ると貴金属店や香水を扱う店など、所狭しとと並ぶ。

少し歩くと摩利支天をお祀りする徳大寺がある。これはアメ横商店街の真ん中に位置し、階段を上がると本堂だが、下の部分はアメ横の商店、つまり商店街の上に寺が乗っかった構造になっている。


摩利支天は仏教を守る天部の神で参詣者には『気力、体力、財力』を与えるが、いのししの上に乗っているため、縁日は亥の日と決められていた。

ところで地図を見て気づいたが、一枚の住宅図に『御徒町』だけでも御徒町(JR)、仲御徒町(日比谷線)、上野御徒町(大江戸線)、新御徒町(大江戸線、つくばエクスプレス)と4つあり、更に徒歩圏内に上野駅(JR、銀座線)、上野広小路駅(銀座線)、湯島駅(千代田線)、末広町駅(銀座線)と計8駅もある。1枚の地図にこれだけの駅があるのは珍しい。
昔は侍の長屋、今は安売りの品揃えを誇る店が立ち並ぶ街であり、いつ行っても活気を感じることができる。

神楽坂周辺の坂道(1)

2015-06-12 05:00:06 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』その44。今回は神楽坂周辺の坂道を訪ねる。神楽坂は東京の坂道の中でもかなり著名な部類で東京メトロ東西線神楽坂駅と都営地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅と2つも坂道の名前の付いた駅がある位である。

今回は東京メトロ東西線神楽坂駅で下車して坂巡りを始める。なお、名前を残す坂道が多く、何回かに分けて歩くことする。


矢来町方面の出口から上がると目の前の早稲田通りを右にいく。少し坂道を下り、牛込天神町の交差点に出るが、この辺りが『地蔵坂』である。(この地域にはもう一つ『地蔵坂』があるが、坂の由来は地蔵があったらしい。)この坂は何とも不思議な坂で、少し江戸川橋方向に歩くと今度は『渡邊坂』の標識がある。


『渡邊坂』の方は江戸時代、坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があったことに由来する。標識だけみると坂道の名前が途中で変わることになるのだが、これは交差点の形状が複雑な三叉路になっていることにも起因しそうだ。この坂道の名前は解説の本によっても表記が異なっており、さらに新宿区教育委員会もどちらにも取れるところに標識が建てているのは珍しい。


元の道を戻り、神楽坂駅を過ぎて少し先辺りを左に曲がるとクランク状の細い坂道があるが、この坂が『比丘尼(びくに)坂』。はっきりした起源はわからないが、尼寺が近くにあったことから名付けられたものらしい。


早稲田通りの次の角を曲がると立派な鳥居が見えるが、これが赤城神社。由緒は1300年に群馬県赤城山から移住した大胡彦太郎重治により早稲田に創建されたと伝わる。その後、2回場所を移し、今の所には1555年に移された。今の社殿は2010年に『赤城神社再生プロジェクト』として近接地に三井不動産が定借のマンションを建設、併せて社殿も新築したもの。2011年にはグッドデザイン賞も受賞したが、その設計は著名な建築家の隈研吾が行った。


特に狛犬が現代風にアレンジされていて趣きがある。


その横に神社に沿って下っていくのが、『赤城坂』。もちろん、赤城神社に因んだ坂道だが、急な細い坂道でカーブしているため、車は運転が難しそうである。



さらに早稲田通りを渡り、次の比較的広い道を右に曲がると龍門禅寺が出てくるが、この坂が『朝日坂』。この辺りは横寺町というくらい寺が多いが、かつて泉蔵院という寺があり、その境内に建てられていた朝日天神からこの辺りが朝日町と呼ばれていたため、この坂道の名前となったとのことである。(以下、次回)

投手のバッターボックス

2015-06-11 05:00:50 | 日記

5月下旬からセリーグ・パリーグ交流戦が行われているが、今年は1チームあたり全部で24試合から18試合に減少、つまり昨年までのホーム&アウェイ各2試合から、どちらかのフランチャイズで3試合を行う方式に今年から変わった。試合数が減ったのはセリーグ側の要求らしいのだが、対戦が少ないが故に面白い面もある。その中で今回注目したのは投手が打席に立つことである。

小生が見に行った6月3日のヤクルトvsロッテでは、最後には点差がついたため、大きな問題としては取り上げられなかったが、やはりロッテの石川投手が打席に立つ時はバッターボックスの後ろ側に立ち、とても打てる状況にはなかった。一度だけランナーが1塁にいるケースがあったが、送りバントもやはりできず、下位打線が繋がった場合はハンデになっていたことは明らか。ヤクルトの石川投手もノーヒットではあったが、やはり打席の仕草自体もかなり違った。


今日読んだコラムにはセリーグ側の意見として『パリーグが攻めている時に2死ランナー無しの時はかえって投手にはヒットを打たれた方が楽だ』と阪神のキャッチャーF氏が語っていた。これは普段打席に立たない相手の投手が球を避けるのがへたなこと、さらにランナーに出ても小細工が効かず怖くないこと、普段ランナーに出る機会がないため、次の回の投球にも影響が出てくる点などを付いたものだろう。もちろん、1番バッターに続かれたら何の意味もないが。

逆に普段から打席に立つセリーグの先発投手にとって見るとパリーグとの対戦はやりやすいようだ。広島の前田健がバッターの際にインコースを全く攻めてこないため、アウトコースに絞り、タイムリーを打ったり、阪神の藤浪が投手心理を読んでヒットを打った話が出ていたが、パリーグのバッテリーからすると中々インコースは攻めづらいようだ。

しかし、交流戦もこれだけ接戦が続くと投手のバッターボックスに立った際の結果で差が出てくる気がする。当然、DH制と違い、投手交代のタイミングが変わってくることもあるが、投手の打席に注目して応援するのも面白いのではないか。