秋葉広島市長が記者クラブの会見を拒否して、動画サイト(You Tube)で退任の理由を説明した。民主党元代表の小沢一郎氏が別の動画サイト(ニコニコ動画)の番組に出演するなど、新聞テレビに代表される既存メディアに対する不信感と拒否感が背景にあるという。 秋葉市長は自分の伝えたいことを15分間カットなしに伝えることが出来る選択をしたと、その後産経新聞のインタビューに答えている。「数秒、数行しか使わず云いたいことが伝わらない。一部のマスコミは自分の作ったストーリーに合わせてコメントを利用する」と不信感を示したという。 私も視聴者の一人として、ニュースを伝えるマスコミの中にストーリーありきで、それに合った発言だけツマミ食いしている報道姿勢を時折感じてきた。そうすると、報じたメディアのニュース全体を信頼できなくなる。腹立たしく空疎な思いになる。そういう経験から市長の発言は理解できた。 これに対して片山総務相は「やむを得ないと割り切れ、数秒に編集するのはジャーナリストの見識、それがダメなら検閲社会になる」と批判したと伝えられている。だが、ニュースバラエティ番組に出演するジャーナリストに見識は感じられないし、全文全て伝えているのに検閲社会とは理解できない。第一、全文が分からないとツマミ食いがどの位立派な“見識”か分からないではないか。 既存メディアは一般論として「市民からはネットを見られない人への説明責任を果たしていないと批判の声がある」と伝えているが、彼らの声を市民の名を借りて代弁させているように聞こえる。だが、日本のネット人口が8000万人を超えたことを、総務相ならずとも知らないはずがない。 既存メディアは次に識者の批判を使って代弁させている。橋元良明・東京大大学院教授「編集されたり、批判的なコメントを加えられたりすることを嫌がる権力者に都合のよい手法」と分析、新藤宗幸・千葉大教授「動画で功績を語るだけでなく耳の痛い批判も聞いて、それに答えるべき」と言わせている(asahi)。だが、全文公開されているのだから、それを引用して批判すればよい。 私が心配なのは、寧ろ既存メディアから今までの報道姿勢について全く反省の声が聞こえないことだ。新聞から始まった既存メデイアは常に新しいメディア(ラジオ・写真メディア・テレビなど)の挑戦を受け、報道内容や手法を磨き充実させて来た。果たして今はどうだろうか。 インターネットの出現はニュースをカバーする人・地域・時間軸を劇的に変えた。例えばウェブカメラが伝えた大洪水や津波の映像はかつて無い迫力があった。既存メディアは十分に活用しているとは言えず、いまだに古い記者クラブのように既得権益を囲い込もうという姿勢が強い。我国のネット社会もいまだに成熟してるとは言えないが。■