目が覚めると尋常ならざる雨音が聞えてきた。窓を開いて外の様子と屋根の状況をチェックした。1階の屋根瓦が一部乾いていたので、一昼夜ずっと降っていたわけではなかったと思った。物置代わりに使っている別棟の小屋を見ると、2階の樋から雨水が溢れて1階の屋根瓦に凄い勢いで打ち付けていた。いつも気にしている部分で修理が必要かもしれない。
朝食中テレビニュースを見ているとテロップが流れ肱川ダムが放流を開始したと伝えていた。その後サンルームに移り新聞を読んでいると、9時半過ぎにラジオのニュースが実家の近くを流れる矢落川の氾濫注意報を伝えていた。ニュースになったのは肱川の支流の小さな川だが1級河川で、国土交通省の管轄下にあるからかもしれない。
テレビ・ラジオで矢落川の名前を聞いたのは初めてだった。戦国時代に山を越えてきた土佐の軍勢に攻め込まれ、この土地の豪族と川を挟んで対峙した時、両軍が放った矢が川に落ち血が流れ、川が真っ赤になったのが矢落川のいわれだと子供の時聞いた。
注意報が出ると言うことはどういう状況か現場を見てみようと思った。外に出ると雨は少し小ぶりになっていたが、台風が近づいている為か風が強い。実家の回りを流れる小川は普段にはない水量で勢いよく流れていた。こうして高齢者が小川に落ちて死んだとニュースになるとふと頭を掠めた。
表の通りに繋がる道が冠水し、矢落川の堤防までの田んぼの稲穂が見えない。東京の家族に知らせてやろうと思いついて、急遽家に戻りカメラを手にして山沿いの小道を辿って冠水してない表の道に出た。車の行き来があるから表の道は何処も冠水してないようだ。
直接堤防に行く道も冠水していたので、表の道を下流方向に向かい歩いていった。主要な道は少し高くしてあるようでどこでも車を見かけた。橋の袂で堤防に到達、もう一つ下流の橋を渡って以前報告したことのある貯水池の近くの水門についた。国土交通省の名前の付いた巨大なクレーン車が何か作業をしていた。
一般論として大雨時に水門は逆流を防ぐ為に全て閉じられており、山に降った雨が支流を作り流れてくる水の逃げ場がなくなり溢れて冠水する。だが、この支流だけは特別で水量が多く溢れると一帯の新興商店街や病院・工場などが冠水して全国クラスのニュースになる(かつてなった)大事件だ。それが、私がわざわざ見に行った理由だ。
見ると支流の低い堤防を今にも越えそうな水量で、上流のJRの鉄橋にあと1m程度まで迫っていた。ニュースではJRも高速道路もストップしている。クレーンが出動した理由は明確だった。クレーンは4つか5つのブイに取り付けた揚水機を引き上げていた。揚水機は水門を閉めたまま支流の水を吸い上げて本流に流す為だった。水門は逆流を防ぐために閉じ、支流に溢れた水は揚水して本流に流す。馬鹿馬鹿しいがしょうがない。
現場監督みたいなオジサンに聞くと水が引き始めたので「終い」に掛かっているのだそうだ。貯水池は本流の堤防が溢れた時の受け皿だそうで空だった。私は支流が溢れた時の為だと思ってた。私は作業服やヘルメットも被らないでクレーンの周りをうろちょろして、よく追い出されなかったものだ。最近思いつくと誰彼構わず声を掛ける傾向が酷くなった気がする。
戻り道の橋の袂で数台の車が止まっていた。クレーンの作業を見ているのかと思ったが、その先に広がる畑の様子が心配で見に来たと声を掛けた夫婦は返事した。私は「もう大丈夫、あのクレーンは水揚げ作業が終った、水は引き始めている」と言ってると、物知り顔で教えた。
実家に戻る途中の坂に付いたゴミ跡や田んぼの稲穂が見え始めて、少し水が引いて来たのが分かった。その時携帯の緊急通報を知らせる音楽が鳴り、本流の肱川沿いにある隣町の菅田(スゲタ)地区に避難勧告が出たと知らせていた。時刻は10時半、矢落川氾濫のニュースを聞いてから1時間余り経っていた。この辺は小雨になったが肱川上流のダムの放水で水位が警戒値を越えたという。
近所の人達の一団に会った。近所のオバサンに聞くと稲穂に実が付いているので収穫は出来る、だが等級が下がり売り物にならないだろうという。お米が水分を吸ってフワフワするだろうという。もう一人のオバサンが、等級が付かない「等外」になるだろうと笑いながら言った。その割に深刻感がなかったのは多分自家消費するからだろう。
もう大丈夫だと思い実家に戻り、テレビニュースで各地の大雨の被害状況を見た。床下も床上もない、田んぼや畑が冠水しただけで終ったようだ。昼食を済ませ落ち着いてテレビニュースを見ていると、又も携帯から音楽が鳴った。見ると避難勧告が解除されたという知らせだった。■