かぶれの世界(新)

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田舎暮らし雑感2018(7) 送り火

2018-08-17 22:15:40 | 日記
昨日夕方いつものように散歩から帰る途中、近所の世話役の庭で焚火が見えた。聞くと送り火だという。本来はお盆の終わりの15日の夕方にすべきとの声もあるが、16日が駄目という訳でもないという。彼は見上げて、今、空のどこかに先祖が返って行く途中だと笑いながら言った。

燃やしているのは麻の白木でスーパーで売っているという。それを聞いて思い出した。母が生きている頃頼まれて買いに行ったことがある。近所にお飾り用の長豆を頂きに行った。随分前のことだし嫌々やっていたのですっかり忘れていた。送り火の後すぐに盆棚を片付けると聞き、今日の午前中に早速実行した。聞かなければ暫く放っていたと思う。

母が元気な頃の盆棚はいわばフル装備でひな祭りみたいに何段もある盆棚に、新竹を四隅に立てそこに何本も掛け軸をぶら下げ、普段食べないような果物を備えた。だが今年は座卓に過去帳とお位牌を立て去年使ったお供え物で済ました。それでも用事を作って留守にするよりはマシだと思った。

私はこの手の行事は全て後ろ向きで、ご近所がやるので合わせて付き合いでやるだけの情けない姿勢だ。実はお盆に必須の行事である棚経(棚行)も、私はずっと家族に棚計と言い続けてきた。家内がさりげなく言い換えてくれ、グーグルで調べお寺からの通知を確認するまで気が付かなかった。

住職はお経をあげた後の歓談でここ数年決まった様に「後何年続けられるか」と言ったが、今年はやけに実感がこもっていた。私は「それは困る。私の最後にお経をあげてくれないと。」と間髪を入れずに答えたものの、内心ではそう長くは続かないだろうと思わずにはいられなかった。来年は母がいた頃みたいにきちんとやって、それでお寺に断って終わりにするかとも思ったりしている。■ 
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散歩ママさん同盟

2018-08-14 22:30:28 | 通販・買い物
毎夕の散歩で2組のママさんグループ(私より二回り位若い40-50代の女性)や母の掛かりつけだった医者夫婦などと馴染みになり、最近は毎日のように豪雨後に復旧したお店情報を得ている。フランチャイズの牛丼屋とかハンバーグ店から仏壇屋まで、更にはガソリンスタンドやパチンコ屋も徐々に営業を再開し始めた。

電気販売のヤマダは一時撤退という噂を聞いていたが、実は以前に計画していたフロア・リニューアルを、被災をきっかけに前倒しで実施し新装開店みたいに綺麗になっていた。だが、比較的易しいと思っていた衣料品関係の復旧が難航している。

衣料品関係のワークマンは再開したが、ユニクロは復旧が遅れている。ママさん情報によればユニクロは今も撤退の噂があるそうだ。帰郷直後の散歩中に知り合ったカフェのマスターによれば、被災直後は弱気だった個人店主も考え直して営業再開する動きが出て来たというのに。

その中でも毎日の食料を調達するスーパーがいつ復旧するかが、我々にとって最大のテーマでありママさん達が一番よく知っていたと思う。私が最も利用したスーパーは復旧までに後2ヵ月、その次に利用するスーパーは全面建て直しで最悪2年かかる見込みだとあるママさんが教えてくれた。

隣町まで行かなくとも近くに代替のお店があると私に教えてくれた。お店は彼女達の勤め先や住んでる所によって同じじゃないが、共通して出て来る名前がドラッグストアDだった。今日そのお店に行くと買物客で一杯だった。そこはドラッグストアというよりフロアの2/3は食品売り場で、ドンキ並の高い棚に商品がうず高く積まれていた。

スーパーを含めお店ごとに得意技がある。魚か肉や野菜と惣菜のどれか、或いはお酒類や菓子類、冷凍品やレトルト品、ドラッグストアならでの商品、商品ごとに特別安価な輸入品とか。Dは少なくとも私が買う商品の組合せでは品質は悪くなさそうだしかつ安価だった。何軒もスーパーやドラッグストアをハシゴするのは嫌なので、被災前も総合して安価なお店を決めて買い物をして来た。

ママさん同盟のお蔭で遂に私好みの食品仕入れのお店を見つけた。ママさん有難う。■
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実感的・老いの衰え(4)

2018-08-12 14:12:04 | 日記
年をとって耳が遠くなった
自虐的なテーマにしなくとも内容が「老人」とか「衰え」に関わる記事が多くなった。二、三年前からテレビのボリュームを上げる家内は耳が遠くなった、年をとったと感じていた。ところが、今までと比べボリュームを上げてテレビを見ている私に気付いた。同じだ。音量がデジタル表示されるので今迄との違いがすぐに分かる。

一般知識として年令と共に聞き取れるバンド幅(周波数帯域)が狭くなる、特に高音が聞き取り辛くなると理解していた。だが、テレビを見ている限り私には女性のキンキン声より男性の低音の方が聞き取り難い、これはどういうことか。結果的に男性の声を聞き取ろうとしてボリュームを上げてしまうようだ。

体力回復の悪あがき
多分、可聴周波数を昔のように広げるのは無理だろう。だが、運動能力は何とか改善できると思って日頃の運動に努めている。勿論、自分は老人だと思ってやり過ぎにならない様気を付けている積りだ。二日前に10km余りを昨年までのように目一杯走った。

更にその2日前に熱中症を怖がって体調をチェックしながら走ったのと異なり、アミノ酸を補給しながら体力をフルに使って走り切った。おかげで、昨日は経験のある筋肉痛がでた。田舎に戻って1週間後の熱中症寸前だった時から何とか回復した証拠と思う。

先の短い老人は長い歴史を辿る
だが、とにかく見かけはどんどん老化していく。テレビで見るような格好いい老人にはなれない。数年ぶりに昨日市立図書館に行った。司書らしき女性に大洲藩の版図が分かる資料がないかと聞くと彼女は頭を捻った。領土のことだと言い換えると理解してくれ、県史や藩史など色々資料を探してくれた。

私がいかにも助けてあげたい老人に見えたのだろう。そのうち他の女性職員も加わってよってたかって調べてくれ、机の上に資料を積み上がった。小一時間で欲しい情報は殆ど見つかった。大洲藩の領地は意外に広く北は松前町や砥部町から南は大洲市、東は久万町の一部まであった。

奇妙な歴史
一方、私の先祖が住む新谷藩の領地は奇妙なことに大洲藩内に10か所以上点在していた。こんなの聞いたことが無かった。その理由は明解だった。女性職員が持ってきてくれた資料の中で、愛媛県の8藩の成り立ちを説明する下りを見て分かった。領主の都合でバラバラにされた農民は堪ったものではなかったと想像する。そのせいだと思うが資料によれば「水争い」が何度も起こったようだ。

しかし、これはいわば表の歴史。我が家の先祖は秀吉の時代に四国統一を遂げた長曾我部氏の家臣で、この地を攻略した後住みついたと和尚に聞いた(私は徳川の世になった時、山内氏から逃げて来たと理解していた)。その後刀を捨て農民になることで大洲藩主に住むことを許されたという。明治維新まで長曾我部の家臣が歴史の表に出ることは無かった。これが今までに私が調べ子供に引き継ぐ我が家の歴史だ。■
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天邪鬼・長崎原爆の日

2018-08-11 12:02:26 | ニュース
今年も広島・長崎に原爆が投下された日に平和祈念式典が開かれ、グティエレス事務総長が国連から初めて出席し核兵器の根絶を訴えたニュースが報じられた。一方、核兵器禁止条約は安全保障の現実を踏まえてないと不参加を表明した安倍首相を非難する声が報じられた。

これが大方のマスコミの報道だった。ひねくれ者の私はこのような報道に与しない。核兵器禁止条約の是非ではなく、この記念日に議論すべきは「原爆投下の原因と結果」だと考える。その一環として核兵器の問題を伝えるべきだ。現在までの大勢の考え方はいわば一方的な「被害者史観」によるもので、何故そう言うことになったか反省がない。

原爆投下を辿って行くと直接的な原因は日本が戦争を始めたことだ。誰が戦争を始めたかについては議論がある。日本軍部の暴走から米国の経済的締め付け等々議論があるが、いざ戦争が始まると国中で戦争を支持した。中でも戦争を煽ったマスコミの責任も極めて大きかった。

かつては、8月の終戦の日とか12月の真珠湾攻撃の日など機会あるごとに、何故日本は戦争に突入していったか、戦争責任は誰かどこにあるのか、それがアジアの国々にどんな深刻な事態をもたらしたか、などについての議論が交わされた。多くの反戦小説や戦記物等が出版された。それが今では一方的に被害者面した議論だけなのはどうしてか。

原爆投下の死者数は広島長崎合わせて約20-25万人と言われているが、先の戦争で戦場となったアジアで何百万人が被害者になったと言われている。特に、子供達に一方的な原爆の被害者史観を語らせテレビで報じるのは大きな間違い、私は犯罪的だとさえ思う。身勝手な発想で国の将来を誤らせる。最近このような傾向が強まっていると懸念する。■
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ピークを過ぎた猛暑?

2018-08-09 11:53:17 | 健康・病気
根拠が曖昧で余りにも希望的な題名だと思うが、それなりの理由がある。今朝5時過ぎに目が覚めた時、寒さで震えタオルケットで全身を覆った。夏冷えとか夏風邪という言葉が現実味を帯びて来た。連日の異常な猛暑から少しずつ普通の夏に戻りそうな予感、というか希望が湧いて来た。

だが、6時前の書斎の室温は26度、昨日は27度で涼しさを感じ、それ以前の暑さで参った時でも28度だった。私の身体はたった1度の差でこんなに体感が異なるのか、若くて元気な時はそれ程敏感ではなかったと思う。この体感は年令や個人差で大きく異なるのと思う。

体感的な温度差の好転を感じて、昨日の夕方に久しぶりに本格的なジョギングをトライした。途中で異常を感じたらすぐ止める積りだった。薄暮の堤防道は時折涼しい風が吹いたが、このところ家に籠っていることが多かったので脚力が衰えていた。10km手前で無理をせず引き返すことにした。

走れたのは先月末の炎天下の幹線沿いのロングウォークで熱中症寸前になり、以来不調だった体調が徐々に回復して来た証拠でもあると思う。午前11時半の今、室温は28度。2日前は30度で、エアコンなしでは頭を整理して政治やマーケットを自分なりに語ることは出来なかった。この差は大きい。

2日前に歯医者に診て貰った時、家族や看護婦に支えられやっと段差を越えた老人を見た。彼に齢を聞くと68才だと言った。私より若い。が、その後昭和22年生まれだという。同い年だ。もうボケていた。同年代の人達が亡くなったというニュースを見た時に感じたのと同じ思いをした。

年をとって「夏は乗り越えるもの」だということをつくづく実感するようになった。今年の異常な猛暑のピークは越えたという感じを持ったのは、単なる気温の感覚ではない。私にとっては、これで少なくとも今年の夏まで頑張れるという意味だと感じる。■
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