かぶれの世界(新)

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私が愛し損ねた人(2)

2024-01-21 11:18:33 | 日記・エッセイ・コラム
彼女は秘書が退職した時の事務員で、臨時で秘書役をやってってくれた。ぽっちゃり型の可愛い真面目な人だった。正確に記憶していないが、ローカルメディアが地域の成績優秀な生徒を表彰する行事をシアトルで実施した時、カルフォルニア本社の営業責任者が記念品としてポータブル機器を寄付し私が会社代表として行事に参加した時のことだ。彼女は別行動で参加したようだ。

メディアの責任者の婦人が私と同席した時、彼女の言葉が印象に残っている。表彰されたのは女生徒ばかりだったのを評して、「本当に頭の好いのは男の子だが全国レベルの表彰を受け、ここに表彰されたのは一生懸命頑張る女の子が次に続く成績をとった結果の表れ」と評した。婦人の言葉は性差別的な表現でとても皮肉っぽかったが、当時私は的を得た表現だと思ったものだ。

帰りに秘書役の彼女を車に乗せた。何をしに来たのかとは聞かなかった。私は何気なく当時気に入っていたカセットテープの音楽をかけた。世間話を交わしていた彼女が突然「エイミー・グラントじゃない、彼女は有名なクリスチャン歌手よ」と言った。ヒットした曲は全然違ったが、カセットの後半分くらいは普段は聞かないクリスチャン・ミュージックぽかった。

それ以来仲良くなって気楽に話をしたが、秘書役の彼女は時折真面目なキリスト教徒の顔を見せた。直接関係ないが、私は米国に赴任して以来覚えたての表現を使って誉める積りでウェル・ラウンドと言うと、彼女が「そんな言い方は止めて、失礼よ」と怒った。

ふっくらしたいい女みたいな感じで言った積りが丸々太ったデブ女とでも受け取ったようだった。辞書を調べて言った積りだったのだが。私が得意げに下品な言葉を使った時、本社が雇ってくれた部長にも使い慣れない言葉を不注意に使うなと注意されたことがある。

ある時郊外の彼女の家に食事に招待されて訪問したことがある。再婚した夫と子供(多分、連れ子)と私で楽しく食事をした。彼女が送ってくれ途中の橋の袂で分かれた。その時彼女は「これが私の家族、これ以上はダメ」みたいなことを言い、強く長いハグを交わして分かれた。彼女は「これ以上」のことを考えていたのかと、後から考えて言葉の意味を想像した。

その後は何事もなく過ぎて行き、工場移転を機会に彼女は退職した。分かれる前に私は以前上司に貰ったビジネスの本をプレゼントすると、彼女は何もないけどと断って記念に分厚い聖書をくれた。以来、聖書は一度も読んでないが、本棚の聖書を見ると彼女の顔を思い出す。■
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私が愛し損ねた人(1)

2024-01-19 17:40:02 | 日記・エッセイ・コラム
「私が愛した人」は小説などで耳にするいささか安っぽい言葉だが、私の経験では「愛し損ねた人」は何人かいる。先日家族から喜寿のお祝いをして貰ったばかりだが、家内から最初喜寿のお祝いをしてくれると聞いた時私は「残り少ない人生」という言葉が頭をよぎった。

ならば、私が一瞬心でも揺さぶられた女性の話も誰にも言わずに死にたくない、相手が外人なら迷惑をかけることも無いと思い記録を残すことにしたた。40過ぎて海外向け製品の責任者になった時、新製品のデザインを海外某社と担当技術参加しサンフランシスコで打合せ合宿をした。

その時通訳を兼ねて若いイタリア系米国人女性が参加した。当時彼女は京都に住み専門的な知識を生かして通訳をやり、何度か会ったことがあった。私は電気部品からデザインまでカバーする責任者になったが、電子回路以外は素人で簡単に言うと意思決定のハンコを押す仕事だった。問題が起らない限りは気楽な仕事で、思いつき放題無責任な発言をしたまに笑わせた。

某社社長が開発した競合他社の製品デザインを参考に紹介し意見を聞かれた時、私は思いつくままにホルスタインのおっぱいみたいだと答えた。彼は怒って私めがけてチョークを投げつけた。彼は笑いながら投げ、私も笑いながらチョークを避けた。決して雰囲気は悪くならなかったと思う。

合宿が終わりに近づいたある日屋上で記念の撮影会をやった時、彼女が私と一緒の写真を望み二人が並ぶと彼女は頭一つ背が高かった。彼女が私の背に手を回した、私も彼女の背に手をまわした。彼女の背中が凄く柔らかく、指が背中に一瞬減り込んだように感じ驚いた。

最終日に合宿参加者全員がサンフランシスコの港から船で対岸のサウサリートに向かい食事会を行った。港に向かう坂道で突然某社社長が子供が何人いるか聞かれた。私は自然に3人だと答えると、実は彼女が私が好きで結婚しているのか確かめてくれと頼まれ聞いたのだと彼は言った。

彼女は魅力的だったが私は結婚してたし突然だったので、無反応で通した。帰国後もずっと仕事以外の会話を交わすことはなかった。カードをくれたが反応しなかった。だが、最初から彼女が好意を持っていたと知っていたら、女好きの私は間違いを犯したかも知れないと思う。

数年後に米国支社に赴任した時、合宿に参加したスタッフが事務所に立ち寄り、彼女が結婚しオーシャンビーチの豪邸に住んでいると教えてくれた。それを聞いて私は安心した。間違っても私には絶対できないことだと。■
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東京近郊の生活2023-24(5)

2024-01-16 20:47:09 | 日記・エッセイ・コラム
近くに行くから一緒に食事しようと娘から家内に連絡があり、二日前に娘の家族と我等夫婦に息子と連れ立って聖蹟桜ヶ丘で昼食を頂いた。京王百貨店のレストラン・フロアに行き孫は隣の店でナンを食べたいと言い張ったが、長い待ち行列で娘に説き伏せられてイタリアンの店に入った。

最近はどこに行っても人気のお店は長い列があるのですぐ分かる。と言っても必ずしもイタリアンと言いながら、私の好みの平麺のフェタチーニとか逆に細麺のエンジェルパスタもなかった。若い頃先輩に勧められたペンネアラビアータがあるか聞くとまずどこの店にもない。

この店にもなかった。なので久し振りに頼んだハンバーグとロメインサラダのチーズが美味しかった。近年私は年の半分は田舎の一人暮らしで、何でも安価なら良い食事で済ませて来たので、味に拘らない便利な舌になったようだ。つまり、何を食べても美味しかった。

食事の後、皆と別れ最近よく歩く川崎街道を上り南多摩駅を左折し府中街道の是政橋を渡り自宅に戻った。レストランまで車だったので、何時もより短い11キロの距離を歩いた。だが、その日は何時もと違って桜ヶ丘CCに沿って歩く坂を歩く時から左足に違和感があった。

一晩寝れば何とかなると思ったが、甘かった。昨日は朝から歩くたびに左足の親指の内側に痛みが出た。我が家で私が担当する洗濯物干し籠を持って二階に上がるのが辛かった。家内がやると言ってくれたが、出来る限り最後まで頑張ると言って手摺に掴まりながら上がった。

昨年春の偽痛風以来アチコチに痛みが出て我ながら年を取った、後期高齢者になったと感じていた。最初は右足、次に筋の石化で左肩痛、次に右脇痛、そして左足親指痛。加えて今も原因不明の股関節機能の衰え。だが、今回の左足親指は歩かない限り痛みはなく、今朝は痛みが薄らいだ。

昨日は一日中何もしないで家に籠ったが、今日は昼食前に大國魂神社まで7658歩4.7キロ余りの距離をゆっくり歩いたが痛みは悪化しなかった。神社の参道には20弱の露店がまだ台座を残し、2店は商売していた。次の行事が控えているのだろうか、相変わらずの人出だった。

今日はとても強い風で気温は約7度だったが、とても寒く感じ行き帰りに出会った近所のオバサン達と笑いながら「寒い、風が強い、気をつけてね」が決まり文句だった。家に戻ると洗濯物が飛ばされて家内に世話をかけた。隣の定年過ぎの独身男性の車が見え、実家から帰還してきたようだ。年末からの空き家でなくなったと思いホッとした。■
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台湾は世界の未来を占う

2024-01-15 18:37:48 | 国際・政治
一昨日に実施された台湾の総選挙は、台湾の人々が何を考えているかが良く分かったと思った。私はこの選挙は理想(自由民主主義)と現実主義(生活つまり金)の戦いだと見ていたが、理想と現実が入り交った複雑な結果になったと感じた。それは中国との関係を維持すべきということだ。

香港の民主主義が強権に潰される悲惨な事態を目の前で見た台湾の人達は、今回も理想を選ぶだろうと私は予想していた。だが、一方で中国の依存度が高い経済(輸出30%)が逆風となり、同時に実施された立法院選では与党は第2党に転落した。国民は理想より生活を優先した。

だが、それは世界中で起こっていることで口では理想主義を言う私も偉そうに言えない。ウクライナ侵攻に対して支援に立ち上がった多くの世界の国々が、最近では欧米各国で「支援疲れ」が報じられている。香港で民主主義が失われ蔡英文を選んだ台湾が、中国のアメとムチに耐えられず「理想疲れ」が増えても、台湾は「良く踏ん張った」という方が正しいと感じる。

果たして日本が中国のような強権国に長い間に渡って圧力をかけられて耐えられるか私は疑問だ。今年の最大のリスクはトランプ氏が大統領に建前疲れの米国民に再選され、米国が徹底的な現実主義に向かい、全世界が強権的な現実主義に向かう恐れがあるという。

私はその恐れは十分あると思う。台湾はまだ自ら自国を守る気概があるようで、子供や女性の訓練期間を3か月から1年に延長したという。我が国はどうだろうか。マスコミ報道は強権国の最先端を行く中国に批判的な報道を控える傾向が傾向が強まっていると感じる。報道と言えども存続して行く為に「建前と現実のバランス」を取っていると感じる。■
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写真が消えた!

2024-01-13 17:08:22 | デジタル・インターネット
喜寿祝いに子供達からプレゼントされたスマホはほぼ使いこなせる様になった。だが、今迄気付かなかった重要な問題に気付いた。我が家一族の明治時代からの写真を記録した積りだったGoogleフォトが、2003年以前に記録した写真が消えていたのだ。その頃の写真は多様な手法で記録していた。

古い写真は昔のアルバムの写真を複写機でディジタル化しパソコンに記録していた。私が撮ったフィルム写真はかつてあった駅前の写真屋でCDに記録し、その後はデジカメの写真と併せパソコンに記録した。そしてスマホの時代はそれまでの全ての写真を含め自動的にGoogleフォトに記録された。その時は写真が自動的に記録されると同時に消えるとは考えもしなかった。

江戸時代に生まれ昭和の初めまで生きた祖父母から父母と私と妹の子供時代から結婚、子育てと子供の結婚や孫の誕生頃までの写真が全て無くなった(見えなくなった)のだ。先祖の家系図等もコピー機でディジタル化して子孫に伝える貴重な記録だ。私の学生時代の旅行とか海外赴任時の米国での生活とか、子供たちに伝えたい貴重な体験の写真もなくなった。

私はてっきりGoogleフォトの保存容量をオーバーしたかと思ったが、現時点で最大容量15GBのうち2.2GBしか使っていなかった。これだけの容量があれば、私が死ぬまで十分あると思ったのだが、何故か2003年以降に記録した写真しか表示されなくなった。

写真が消えると警告を受けた記憶はないので2003年以前の写真はまだ消滅した訳ではなく、どこかに格納されていて見えないだけのはずと思う。Googleはそんな無責任なことはしないはずだが、どうして良いか分からない。専門家並にスマホに詳しい息子に聞いたが、写真は彼の興味の外らしく一言「知らない」との返事だった。

これからGoogleフォトを調べ、消えた写真の再生法を見つけたい。Googleがユーザーの写真を勝手に消してしまうような無責任なことはしないはずと思いたい。最悪の場合を考えて自宅や実家を家探ししてオリジナルデータを総ざらいし子供達に手渡したいと思う。だが、最近はスマホで気軽に写真を撮ることが多い、その度に古いデータが消えると思うと写真は撮れない、全然楽しくない。■
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