月に一度の写経会で、掲示してあったのを、カシャッとした。前掲の法話の、四苦。生、老、病、死のことと。「生」は、「生まれる」、「生きていく」なのだろう。生きるは、寿命がはてる「死」までのことなのかも。「生まれる」は、両親の愛情のこぼれて、この世に、現れた。「老」は、生きている間のこと。「病」もまた、生きている間のこと。この二つのことは、自分自身で、少しはコントロールができると思う。長いか短いかは、分からない人生だが、今を生きるとしている。過ぎ去ったあとを、振り返えると、悲しみがあり、苦しみがありだった。悲しみは、直接的には、自分の事ではない。そのなかに、すまなかったなぁと、振り返ることは、親のこと。その時は、最善を尽くしていたと思う。親の事を思い出すのも、親孝行なのかもしれない。去った「苦」は、その時々で、乗り切った。乗り切った苦を振り返ると、今は、懐かしい思い出になる。これからの「苦」は、どのよう事象て現れてくるのかなぁと、心していく。難しいことは、さておいて、今は、今のこととして、「生きる」でいる。
薬師本堂への石段の脇に立っている、修行大師像をちょっと失礼して、背後から、カシャッとした。標高605メートルの赤井岳の山腹にある境内からは、はるか遠くに、海もみえる。願い事の祈祷がおわり、また参詣の人々が、辺りの静寂のなかに、にぎやか話し声が聞こえていた。写経会は、若い和尚さんに交替になった。大学校を卒業して、修行をして、和尚さんになったばかりと、自己紹介があった。法話は、修行することが、まだまだ多い。写経生は、経験豊富な長い人生の人なので、法話は、はばかるという。仏教語が日常生活のなかで、使われている話しだった。「玄関」は、奥深いさとりに行く正面の入口、客殿。「旦那」は、男性が働いて、生活の糧を得る。布施をする人。「道具」は、佛道をすすめるために使う道具。「四苦八苦」の「四苦」は、生、老、病、死の苦しみを感じること。法話は、月に一度だが、ありがたく拝聴をしている。