神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

人も歩けば 人に当たる

2024年03月26日 21時00分29秒 | yottin日記
 一日の生活パターンがあるのと、気分で一日を過ごすのはどっちが正しいのだろうか?  どっちが正しいなんて、あるわけないけど

「現役の時」というと、ほぼ一生なんだけど、それはとうぜん生活パターンにハマっているわけで、それだからこそ自由になれる休日が待ち遠しい
今のように、毎日が自由に暮らせる日々に変わってしまうと、油断していると一日中寝てばかりになるかもしれない。

幸い、私はわりと規則正しい生活をしている
朝起きるとすぐに「3月26日火曜日、午前6時31分」と声を出して言う
これは時間の認識と、ボケ防止のつもり
これをやると今日の一日が存在感ある意味ある一日に思えてくる。

夜はベッドに入った瞬間、「あああ 寝るは楽なり おやすみなさい」と言ってから寝る、部屋には一人だから「おやすみなさい」自分自身に向かって言っているのではないだろうか。

まあ規則正しいと言っても、出勤があるわけではなく、朝になれば起きて、三度のご飯を食べて、時には炊事係になったり買い物に出かけたり、ほぼ決まった時間帯にテレビを見て、夜は22時から0時の間に寝る程度の事。

その日の日中が家にいるか、外出するかの2パターンがあるだけの暮らし
今日は外出パターンだった
生憎の雨で、干物造りは結局失敗して冷凍保存にして一部を友達に届けた
それから文具店に寄った、前回買い物をしたときに10%off券をもらったので、クレヨンを買った、そうしたらまた10%offのチラシをもらった
これじゃ、また来なくっちゃと思った
その次にコンビニへ公共料金の振り込みに行った
いつも行く昔なじみの女性オーナーの店で、幸い彼女は店で仕事をしていたから手を挙げたら、すぐに若い時同様に、まん丸の眼をくるくるさせて「あ~ら久しぶり」とやって来た
しばらく安否確認をして店を出た、それから寺へ年会費を届けに行って、寺の奥さんとちょっと話してから、今度はA内科医院に向かった
医院に行くのは去年のコロナ検査でB内科医院へ行って以来、今回はBではなくA医院にした。 何故かと言えば、気分転換かな
でもA先生とは10年くらい前に、ある交流会で話が合って、初対面で一緒に深夜2時頃まで3軒はしごした意気投合の仲(その後は、もう一回梯子をしただけだが) まあ、そんなこともあって5年ぶりくらいで行ったのだった。
セカンドオピニオンの真似事もしてみたかったのかもしれない。

半月前から花粉症らしくて、テッシュの減り具合と目薬.鼻炎薬の購入を考えたら医院へ行った方が得な気がしてきた
先生は各種の薬の関係性を説明してくれて、中間効能の(ジェネリック)薬を決めてくれた
処方箋をもらって指定薬局へ行った、その薬局も初めてだったが親切で、コーヒーマシンのサービスもあった。
それは先客の年配女性が飲んでいて、私が立っていたら声をかけてくれた
「このコーヒー、美味しいですよ」と指を指して教えてくれた
マシーンで抽出して飲んだ、それで「どうもありがとうございます」と彼女にお礼を言って、二人並んで飲んでいた
店員さんが「Cさん、どうぞ」と会計の声掛け
「えっ! Cさん?」なんか似ていると思っていたけどCさんだった
「Cさんですか?」と聞いたら、むこうも「あら yottinさん?」とお互いマスクを外して顔を見合わせた。
Cさんはかっての私の店の常連さんで、息子さんの結婚式もやってくれた人
旦那さんは塗料店の社長で地元商工会の会長さんだった人、もう故人になったけど
この奥さん、おしゃれな人で赤い上着を今日も来ていた、赤が大好きな人
わずか1時間半くらいの間に、行く先々で普段会えないいろんな人にあえて良かった、これだからミニ外出も楽しい。

毎月、健康保険料を払っているのに医院へ行かないで薬を何千円も買っているのは勿体ない
最近は物価高で百円、二百円の倹約にさえ気を使っているのに薬の購入はあまり気にしなかった、そんなところがまだザルなのだ。
結局初診料などで750円、薬は2週間分で430円、もう70代を何年か過ぎたから、これからは市販薬を買うより、医者通いをはじめるか
いずれ旅立ちの時には医者の世話になるのだから、今から関係性を築いておいた方が良いだろう。



「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 52

2024年03月26日 06時23分19秒 | 甲越軍記
 山本勘助の諸国見聞

山本勘助は昔、晴信がまだ勝千代と言った頃に出会い、密かに主従の内約を固めたのであったが、心に思うことあって天文三年より、兵法修行と言いつつ関八州(関東地方一帯)を巡り、遠くは奥州までも足を延ばした。
半年、三か月とあちこちに逗留して兵術を試み、軍法を討論して、その国の陣立てや戦術を探り、諸士の強弱も見定めた。

その頃は英雄の諸侯が全国に現れて、武芸者は、それらの家々に仕官を求めて集まった、中でも相州(神奈川)小田原の北条相模守氏康は伊豆、相模の二か国に領分を持ち、勢いは隣国に鳴り響いた。
勘助は、北条家の戦術、兵法を学ぼうと北条家武術指南の松田七郎左衛門を訪ねた。 松田は十文字槍を鍛錬して隣国に並ぶものなしと言われている。

勘助が松田の道場に訪ねていくと、松田は門弟相手に槍を教えていたが、人を使わせて勘助を招いた。
勘助が道場に入ると、その容姿を見た門弟たちは一様に驚き、やがて笑いをこらえるのに必死となった。
勘助は松田に向かい「某は諸国を遊歴して歩く修行者であります、貴殿の高名を伺いぜひとも面会願いたいと思ったところ、早速に呼び出し頂き拝謁できたのは本懐の至りであります」と言えば
松田も「貴殿の高名は我が家のも届いております、いつか面会したいと願ってはいたが公の事多く、なかなか出来かねていたが、今日こうして訪ねていただき光栄この上ない、このうえは貴殿が当家に参られたわけを是非お聞きしたい」と言って勘助を客座に招いたが、勘助はそれを辞退して下座の傍らに座っているので松田から話しかけた。
「今戦国のこの時世、仕官を求めて腕自慢の士たち一年三百六十日に三百六十人が当道場に武者修行と言って押しかけて参る、されども物の役に立つもの皆無に等しい、足下も武者修行と申されるからには某との武術比べの為参られたと思われるが」と聞けば
勘助は「いいや、そうではありません、某みたとおりの一眼なく、手足指も失った不具者であれば武術の立ち合いなど望むものではありません
ここにありて軍法、陣立て、あるいは城郭の縄張りを工夫について論をするべく参ったところ松田殿の御高名を知り訪ねてきた次第でござる」

しかし松田は「そのような話で訪れたのなら、なおさらに某のあずかり知らぬところ、某の浅知恵の知るところでは軍法の始まりは人皇第九代の聖主開化天皇の御代に漢土より初めて太公望の六韜(りくとう)孫子の十三篇が渡来した
その時は前漢の景帝の代に当たるとか、しかし我が国は当時まだ文字が無く
彼の兵書を読み解くすべがなく、そのまま朝廷に伝わったままであったが、人皇第十六代応神天皇十六年に百済国より王仁(わに)という者が渡来して、漢土の学問が初めて伝わった、天子も是を学ばれた
文字の意味も是より理解できることとなり、彼の兵書も読まれるようになった
応神天皇はこれを読み「この書は兵を用うるための書である、もしこれが世上に広まれば、諸人これを読み兵法を知り、いつ反逆を起こすやもしれぬ
このような危うい書は直ちに焼却すべし」と焼き捨ててしまわれた。
その後、代を重ね、人皇第六十代醍醐天皇の御代となり、『兵書は国家を治める道であり』ということを風の便りにお聞きになられ、延長元年五月大江維時という者を入唐させて兵書を求めて帰国させた
これより兵書は朝廷に伝わったが、我が国には唐土から習わずとも我が国には自然と戦いに慣れて兵を用いていた
これより先には、兵法など学ばずとも神功皇后が三韓を攻めとり、武内宿祢が蝦夷を切り従えたのも、みな自業自得の兵法にして、兵書から学んだものではなかった
以後も八幡太郎義家に彼の兵書伝わるが『我が国と異国では土地も人も等しくはない』とこれを用いることはなかった、そして『我が国の風土に合った書に編纂して訓閲集という三巻に書き換えて虎の巻と名付けて子孫に伝えた
それは源義経に伝わり、熟読して平家を一の谷、屋島に破ったのは、この虎の巻によるものであろう
その後、新田義貞、楠木正成ら豪傑も活躍したが何の兵法によるところかは不明である、なぜなら彼らは流儀も書物より学んだということも一切伝えられていない、思うに彼らは何度も戦場にあって、都度臨機応変の兵法を得て勝利したものであろう、ならばそれは真の兵法ではないであろう」




今日の事

2024年03月25日 17時10分08秒 | ライフスタイル
 今日は約3週間ぶりに船長に頼まれて手伝いに行って来た
昨日の夕方、急にメールが入ってちょっと考えたが、魚との対面はやはり削りがたい、すぐにOKを出したが、入船が朝5時と言うので、急にせわしくなった。
5時だと3時半には起きるから、逆算して21時には寝なければ寝不足になる。
まあ、その時間でベッドに入ったのだが、最近の花粉症気味なのは大きな痛手
起きていると、くしゃみ鼻水、横になると鼻づまりで寝苦しく、なかなか寝付けない、そんなうちに22時を過ぎ、なんか寝ているのか起きているのかわからない。
結局、一番寝られたのは午前1時頃からで、それでも深い眠りに入ったので3時半起きでもすっきりしていた。
台所へ行って、粥を作りながら、洗面してそれから食べて身支度をして4時半には港に着いた。

昨日までは、ごろごろしている時間が長くて体がかえって疲れていたが、今日は半日仕事をして、とても気分の良い疲労感を感じている。

帰ってから、やはり眠かったが、もらってきた魚を干物にするために一時間ほど魚を捌いた。
とにかく作業着を着ているうちにやらないといけないので、一休みもできない
仕事を済ませたら、昼ではあるが風呂に入る、これをやらないと部屋でくつろぐことも、昼寝することもできない
ところが市の水道局から電話が来て、前にいた家で漏水しているので、家の中に入れてほしいとのこと、元栓が家の中にあるらしい。
行ってみたら隣の駐車場に水が流れ込んでいた、1年半前に水道の契約は解除して停止中だから、特に問題はないのだが、これは元旦の地震の影響で、液状化が起り家の中は30cmも盛り上がり、あるいは逆に下がったところもあってひびも入り、凄いことになっている。
ただ、もう空き家になっていて所有者も変わっているからあえて災害申請はしていない、所有者には連絡しておいたが。

やっとこれも済ませて家に戻った、妹と女房殿の兄上の二人が時間差で訪ねて来た。 結局風呂に入ったのは16時半、今上がってさっぱりしてブログを書いている。
これから夕食のおかずを作る、ご飯も冷や飯があるのでバターチャーハンを造ろう、結局昼寝はできなかったが、やっぱり料理を作るのが好きなんだと思った。

今日は久しぶりにロックで一杯飲もうかな。

 

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 51

2024年03月25日 12時01分24秒 | 甲越軍記
 小幡日浄のこと

日々多少の書籍に目を通すが博識というわけではない、されどもその見識眼は確かであった。
もとは遠州(静岡県西部)の国人の生まれで、18歳の時、甲州にやって来て、武田信綱、信虎、晴信の三代に仕えた、忠義は怠りなく武辺は人を超え、戦功数回に及ぶ、今、死の床にあって晴信に「任」の一言を残したのは、彼に一抹の不安あったからである。

晴信は稀代稀なる英雄豪傑であるが、人を見て任ずることが無く、例えば一郡、一村の小城一つ攻めとるにも、自ら采配を振って人に任せず、それゆえ一代休まることなく、村上がごとき人と戦い、また長尾謙信と長き年月を戦い無為に年月を過ごしてしまった、ついには天下を手にする思いにすら届かなかった。
晴信の才知には織田信長と言えども遠く及ばなかった、しかし織田信長公は生まれつきの大器であり、人を選んでことを任せた
柴田を持って北国の管領と成し、滝川を関東、秀吉を中国のなどなど器を見て任を授けられる、これぞ大器という。

日浄は既にこれを見透かして、晴信に諭し、晴信もこれを素直に聞き入れたが、持って生まれた性は簡単には入れ替えることができない
あの孔明のような才気ある人でさえ変わることができなかった
晴信は山本勘助のような兵法武勇が萬人に優れた者、高坂、馬場のごとき者たちにさえついに采配を任せることができなかった。
だから後に三州(三河)沼田(野田)の小城を攻めた時には先頭に立ち、敵の矢玉によって傷を負い、それがもとで亡くなってしまうとは運命とは言えども性分を変えることが出来ず、これ天に定められた宿命であったのだろう。

 

散歩は気分良いが

2024年03月24日 20時15分27秒 | 散歩道
 尊富士のド根性と執念には恐れ入った
大の里に優勝してもらいたかったが、気力が違いすぎた、細かかな論評は明日にまわして「尊富士おめでとう!」 

 もうコロナの心配はしていないが、今度は花粉症に悩まされている
とにかく我が家の周囲は杉林が多いし、散歩となればいやでも杉林近くを歩くことになる、だからマスクは離せないどころか薄いのと厚いのを二重にしての散歩だ。
さすがに上り坂では苦しいから、下の方を開けて新鮮な空気を吸うようにしている。

歩いていても、好きなコースと、飽きてしまうコースがあって毎回コースを変えている、遠くへ車で行って全く違う町を歩くことも多々ある。
今は歩きながら鳥の写真を撮るのが楽しみだが、レンズは250ミリしかないのであまり遠いものや、高いところのものは撮れない
しかも手持ちだから、ブレも多いし、されど三脚を使って本格的にやるほどの腕も道具も無いから、性格からいっても「さっささ」と撮り流してまたすぐ歩き出す。
こちらは黒や茶色の鳥ばかりで華やかさがない、先日我が家の前にカワセミ色のブルー基調の鳥がいた、生憎カメラを持っていなかったので取りに行っているうちに消えてしまい残念。
近くに池も清流も無いからカワセミではないだろうが、じゃあ何だったんだろう?

近くの川でシロサギに出会う、一昨年から何度も会うので、あのあたりにねぐらがあるのだろう、いつも同じ奴だから名前を付けた「かわたろう」
かわたろうも段々慣れて来たのか、数十m先を同じ歩調で歩いていく、まるで先導されているようだ。
水曜日にもまた散歩道の同じ場所で会った、愛嬌のある奴だ。
図鑑を見たらダイサギのようだ。「お~い 早くおいでよ」とこっちを見る

ゆうゆうと飛んで屋根に上がる


昨日は、我が家の向かいの家の屋根にやってきて「yottin 出ておいで」だって
すっかり友達気分だね こいつ!






「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 50

2024年03月24日 09時29分10秒 | 甲越軍記
    小幡入道の死

時の流れは速く、武田晴信は二十歳になった。
正月十三日には恒例の軍議もとどこおりなく済んだ。

小幡日浄は晴信が幼い時から守役として仕え、片時も傍を離れず養育したのであった。
小幡の嫡子、織部正虎盛は武辺において武田家の三本の指に入る武者で、韮崎の戦の折も抜群の功を挙げたので、皆「さすがは小幡父子である」と称賛した。
ところが日浄は、この三年ほどの間、中風の病を患い床に伏している。
しかも日ごとに病は重くなり、晴信もこれを気にして近習に様子を探らせ、医師を送って看病させていたが、いよいよ最後も近いと思われるようになってきた。

晴信は、これを知って存命の間に対面して、せめて末期の一言も聞かんと僅かな供回りを連れて、小幡の屋敷に向かった。
早々に小幡虎盛が門外で平伏して待ち受け「愚老父、今や床から出ることもできずお出迎えできぬ御無礼をお許しあれ」と言えば、晴信は、そのまま家の中に入っていき、日浄の枕元に座した、しばらく会わぬうちに顔色は衰え、肌の肉も枯れ果てている
晴信は「汝。これまで何事もはばかることなく諫言を呈してくれた老漢であった、今この時にのぞんで申すことあれば忌憚なく申すがよい、汝、善句を残して死ぬるがよい、また心に叶わぬことあれば遠慮なく申すがよい」と言うと
日浄は、先ほどまで閉じたままの目を開くと、たちまち病床から起き上がり
「尊君の御入来、心魂に染み、ありがたきことであります
また善言を残して死せよとのお言葉、名君の御意と返す返すも喜ばしきことでありますが、酒に酩酊したような心のありさまですから、特に申し上げることもできませぬが、しかし会子の言葉に『鳥のまさに死なんとする時、その鳥の言、善なり』と申します、その上、某若年の頃より、老衰の今まで心中に比しておくことが出来ぬ性であります故、あえて申し上げます

御公、先代信虎公に比べても仁・義・智・勇すべてにおかれて優れておられます、ただ「任」の一事においては遥かに劣っております
任とは人に事を打ち任せる義であります、信虎君はまずは人の才を見立てて合戦ともなって、この人に任せれば最後まで任せました、これが任と云うことであります。
君は、たとえ任せることがあっても、常に「この者は失敗するのではないか」と御心をいつも痛める、その為に任せることが出来ず、何事も自分がやってしまう、これは大器のなさることではありません
凡そ天下の主を目指すとも、任のことできぬならば天下平定などとてもできませぬ」

「昔、漢の高祖皇帝(劉邦)は楚の項羽と戦い給う時、項羽の軍師に范増という者が在り、これを危惧する高祖の臣、張良は謀計を巡らし、彼の范増を取り除かねばこの者がある限り百戦百敗を免れずと思い、高祖の基にまかり出て
『当国の弁舌良き者を敵地に遣わし、楚の家臣たちに金銀を与え、范増、密かに漢に内通ありと言わせれば、元来猜疑心が強い項羽は范増を退けるやもしれませぬ、うまくいけば項羽が滅ぶのは必然であります』と上申した。

高祖はこの計を取り上げて、陳平という者に黄金四万両という大金を与えて楚へ遣わせた
陳平はこの金を賄賂として楚の臣や士に贈って流言を行わせた、果たして項羽は范増を疑い、楚から追い出した
その後、陳平は楚から戻って来たが、高祖は持たせた四万両について『どれだけ残ったか』などと問うこともしなかった、これこそ任ということであって、
四万両と言えば漢にとって大金であるが、一度任せたからには(私服したのではないか?)などのような少しの猜疑心すら持たないのは、まさにこれぞ元よりの大器のあかしなり、楚の項羽が滅んだのは、君もご存じの通りであります
今や諸国には智勇仁すぐれた諸侯が充満しているから、天下を手中にしたければ人に先駆けて行動の時であります、未だ定まらぬ天下、君、御手に天下を得ようと思いませぬか、一方にのみ心を寄せているうちに傍らから奪い去られるものである、もし君の御心定まったならば、『得ること難きは天下の権なり、再び得難きは時なり、時は失うべからず』この後は軍師の任ある人を訪ねたまえ、その人を得たならば何事もその人に任せ、天下を得るための策を練るがよろしい、某が君に残す言葉はこれ一つなり」と言って、眠る如く目を閉じた。

晴信は日浄の言葉にいたく感動して「汝の一言、予の心に貫けり、以後においてはこの善言必ず守る」と言って、手を握りしめた。
その夜、日浄は虎盛を枕元に呼び、細々と忠義の事を遺言して正月二十一日、齢六十一で永眠した。



   

大荒れの大阪場所 記録づくめ

2024年03月23日 19時20分54秒 | 大相撲
「もし」尊富士が明日休場なら、明日大の里(たぶん対戦相手は豊昇龍)が勝てば、大の里の優勝、負ければ休場でも尊富士の優勝となる。
いずれにしても優勝するのは入門1年半初入幕の幕尻力士か、入門1年入幕二場所目の平幕力士ということになる、おそらく相撲史上こんなことは無かっただろう。
「もし」尊富士が入院したまま、優勝となれば表彰式はどうなるのだろうか?
親方が代理となるのだろうか? これも起れば珍事だ。

尊富士の新入幕初日からの連勝11は、大鵬と並ぶタイ記録
新入幕優勝となれば110年ぶりの記録だと言う。
大の里の新入幕から二場所連続11勝以上は白鵬に続き3人しかいない記録だと言う、すなわち尊富士と大の里は怪物と言っても過言が無い大力士と言うことができる。
そんな怪物相手に一矢を報いた琴ノ若、豊昇龍、朝乃山も立派だ
このような大型力士にとって唯一の心配はケガだが、早くも尊富士は救急車で病院に送られた、ケガで夢がついえた力士は多い
せめて大の里にはケガが無いように努めてもらいたい
正代、御嶽海はわりと早く勝負をあきらめるからケガは少ない、しかし豊昇龍、宇良、翔猿などは土俵際で粘るからケガをしやすい
根性も大事だが、その一番に人生をかけることは無いと思う、ケガをして引退に追い込まれても自己責任で終わってしまう
言いたいのは「ケガをするな」の一言のみ。
ケガが無ければ、この三人は必ず横綱になるだろう
琴ノ若26歳 189cm 172㎏      大の里23歳 192cm 183㎏

尊富士24歳 184cm 143㎏     参照 大谷翔平29歳 193cm 95㎏ 


明日の千秋楽、何が起きても驚かないように心して見ようと思う。




「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 49

2024年03月23日 08時10分37秒 | 甲越軍記
「まだありますぞ、古今より女色に溺れ国家を失い、後世に悪名を残した者多し
源義経のような豪傑でも静と云う芸妓を愛し、平時忠の息女の色に迷って身を滅ぼし、新田義貞ごとき英雄も勾当内侍(義貞の妻)の愛に迷い、足利尊氏卿を滅ぼすべき大事な時節を逃し、越前の雪と消え去ってしまった。
このような話は某などが言わずとも君が充分知るところ也
いますぐに御心を翻せば、某一人ではなく一国の大慶であります、さもなくば一座の皆々、一人もこの場を去ることなく信形の腹切り、腸を掴みだすさまをとくとご覧あれ」と大音声で言えば、一座の禅僧も諸士もみなうつむき声も上げない

晴信は涙で袖を濡らし、「信形の諫言、心魂に響いた、しかしながらこれは信形の言葉にあらず、正しくは武田家代々の先君が、汝に命じて言わせたのであろう
今日より心改め、ひたすらに武を講じ、民を撫育し、倹約をを守ろう
かえすがえすも信形の誠忠おおいに感じたり、詩をもてあそぶ楽しみは今を限りにやめよう、いずれも早々にここを立ち去る様に」と禅僧らを退かせた
信形はその言葉を聞くと、その座を飛び下がり「なんという名君であろうか、某の諫言に、水の低きに流れるようによどみなくお聞き入れ下さり、お怒りもなく老臣の言をお聞き入れ下されたうえにお咎めもなく、これ生々世々の御恩であります」と言いやがてその座から退いた。

翌日、朧をはじめ京都から呼び寄せた美女ことごとく暇を取らせた、また詩会も固く禁じて、日々に武術に励むようになり、孫子、呉子の兵法を討論して富国強兵の計略を重臣らと話し合った。 

なんかいろいろあった昨日

2024年03月22日 20時20分19秒 | ドライブ
 昨日は、朝5時に目が覚めてトイレに行って寝なおしたら目が覚めたのが7時45分、8時45分発で長野へ行く日だったので昼食のお弁当(2人分)を作るのに大慌て、朝食も食べなければならないし
でも慣れたもので、息子用の肉、野菜入りの焼きそば二人前と、自分の三食おにぎりを25分で完成させた。

この日の長野県北部は大雪予報で、身構えていったのに国道8号から海岸沿いはずっと青空、上越市直江津地区へ行ったら急に道路にも屋根にも雪が多くてびっくり
18号も新井道の駅くらいまでは晴れていたが、中郷あたりから急に雪が降ってきて、その先は晴れたり、降ったり滅茶苦茶な一日になった。
そんな時、関東でM5くらいの地震発生の情報が入り、上越、北陸、長野新幹線が運行停止になったとのニュース
信州は深夜から降ったようで、諏訪から北の方では35~40cmの積雪、まだまだとても春とは言える景色ではなかった。
とにかく信州は寒い、最低気温はどこも軒並みマイナス5度前後だ
まだまだ北信濃の春は遠い








今日の当地は久しぶりに陽がさした、軽い散歩の後で
帰り道は近道に非農耕地を突き抜けてきたが、春の日差しに誘われて蛇が日向ぼっこに出ている気がしたが、案の定1.5mほどのなかなか立派な茶色い奴が、逃げるでもなく私と顔を見合わせた、たぶんシマヘビなのか青大将なのかわからないが、私は毒蛇以外なら、むしろ見ていて飽きない方だから予想通りの出会いを喜んだ。

家に戻ってテレビをつければ大谷選手の水原通訳の解雇の真相が次第にわかってきて、テレビも、このニュース一色、だがどう転ぼうが私には関係ないこと、この件に限ってはいらぬ口出しはしないことに決める
百年に一人の、それも日本人青年の偉業に水を差したくはない、行けるところまでの実績をこの目で見られる奇跡の幸せを見守っていきたい。


一昨日は二度目のリース作りに挑戦した、春をテーマに作ったら結構我ながら、お気に入りの一品が完成した、貼り付け作業だけで2時間半かかった、布地の切断まで入れれば4時間くらいはかかりそう。





夜のストレンジャー、Strangers in the Night」フランク・シナトラ、Frank Sinatra

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 48

2024年03月22日 07時52分41秒 | 甲越軍記
 このような有様であったが、なぜか板垣駿河守信形は音を沈めて、いかなる行動も起こさない。
甲斐国西郡に友夢居士という者が在り、詩の名人と聞き、信形は友夢に師事して同年九月下旬より病気と称して三十日ほど引き籠り、その間に起承転合など詩の稽古に励み、五言七言絶句などを作るようになったので、十一月朔日に行われる例の詩会、詩を旨とする禅僧十余人、そのほか近士の輩集まり、各々御前に出て詩を披露するが、その多くは晴信に取り入ろうとする者たちであった。

そこに板垣信形がまかり出て申すには「近頃、御屋形様は詩を好まれると聞き、某も御家人として、それを学ばぬのは不忠と思い、早速に師を得て詩づくりを学び、ようやく絶句の一編くらいは曲がりなりにも作れるようになりました
お許しくだされば、某も隣席いたし一句作ってご披露いたしたく存ずるしだい」
これを聞いた晴信は喜び、「武辺者の信形が詩を学んだとは、誠に喜ばしい」と言い早速に信形を招いた
信形は末席に座り、人々と同じく題をたまわり七言絶句の詩を作り晴信に披露した、晴信はその出来栄えに喜び、「風情細やかにして意味備わっている、まことに良き出来栄えである」と同席の者どもにも披露すれば皆口をそろえて信形の詩を褒めたたえた。
晴信は「一芸に優れ才を持つものは万能に通じるかな、信形は武の道の達人であるが、その力量は全ての芸に通じるものであるのか、まことに恐れいったことじゃ」と称賛した。

信形は、それを聞くと人々を押し分けて晴信の膝元に進み出て、なぜか畳の上にハラハラと涙を滴らせ「紀貫之とやら申す者の和歌の序に『力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも感ぜしめ、猛きもののふの心をもあわれと思わせ、男女の仲をも和らぐるは和歌の徳なり』と書いたが、上古の事は知らないが、今の戦乱の世には長槍を振り回して攻め寄せる雑兵一人の心さえ変える力もありませぬ
そのような時節に詩や和歌を吟ずるなど一朝一夕の戯れに過ぎず、深くこの道を究めずとも、おおよその体を知れば、そこそこに楽しめるのではないですか

戦国の急務は他国の侵略を防ぎ、領民が安心して暮らせるように努めることであります、武の家が文をもてあそび無為に過ごし家を滅亡させたのは、平清盛の子孫であります
平家は、その昔は武家でありながら、殿上の許しを得て風雅のみに心を奪われ、腰折れ歌などを吟じて武辺を忘れ、公家の真似などをしてみても所詮は猿真似、それなのに「武家の振る舞いは卑しい、無骨である」などと言って弓馬を捨て、歌に詩にのぼせ上り、行き着くところは源頼朝卿の為に都を追われ、最後は海の藻屑と消え去り、魚の腹を満たせただけのこと
こうなったのも学ぶべきことを学ばず、己の正しき道を怠ったからであります
今、信州には小笠原、諏訪、木曽、村上あり、更に上州には倉賀野、松井田
相州には北条があり、我らの隙を伺い、いつ攻め寄せてくるかも知れぬこの時に、詩や和歌にうつつを抜かす暇に、奢侈を禁じ、倹約を守り、武を講じて武器の手入れを怠らず、賞罰を明らかにして仁政を第一として民をいたわり、親しみを給うことこそが当世の肝要であります
風雅を好むところから始まり、美女を集め、詩に没頭し、これ奢りなり、奢りは国を亡ぼす始めであります、幾度も諫言しようと思いましたが、御屋形が詩に没頭して聞く耳持たぬことを知り、我も詩を知らぬままに諫言するのも失礼と思い、心ならずも30日の間、二四不同、二六封の法度は覚え、義理のわかるほどには学び、どうやら御前に出向く程度に達しましたが、武芸を三十日学んだところで武芸者一人を切ることもおぼつかず、急に学んでも達することの難しいのは武の道です
信形、今日これを諫言申し上げます、美女に暇を取らせ、詩の会の御催しを禁じられぬならば、信形この場において、この佩刀で腹を掻き切り五臓六腑を引き出して、座席を汚すだけでなく人をまねる薄汚き禅僧らの頬にこの血のりで朱に染め、長く詩を妨げる霊鬼となって末代当家に詩を用いる者を悩み殺すでありましょう