「クリスマスローズ」の花が、程良い色に変わって来ました・・・結構、長く咲いているので楽しめますね
10年前までは、こんな私でも、行動半径は広い方で(と、自分では思う)、遠くばかりに目が向いているので、あまり、足元や近くの人たちに、気を払う時間もなく、良く言えば軽く聞き流して(実際的には無関心というべきか)いたが、最近、ぐっと、行動半径が狭まり、自ずと、近辺の係わり密度が濃くなってきたと感じている。
ちょっとした会話などが、やけに気になったりして、取捨選択に迷うようになった。
TV番組でも、殆ど、斜め見で(要するに、聞きかじり程度で、熱心に内容を把握しない)、印象に残る言葉などは気が付かない方であったが、先日見ていたTVドラマ(米国TVの警察・司法ドラマ)で、ふっと、気になるフレーズを発見したのだ・・・ドラマだと思いながらも、どこかで集中していたのだろう。
それは、裁判での検察側発言で、「人は、他人を気遣う義務がある」という言葉だった。
(残念ながら、英語では聞き取れなかったので、字幕スーパーです)
この種の問題は、裁判で明らかにしなくても、人間として、当然、分かっていることでしょう・・・というのは、日本においても、過去の事になっているように思う。
とりあえずは詮索なしで、自分の事として、「ガツン」と胸を突いた訳でして・・・
私自身、現在では、付き合いの密度が濃くなって、簡単に切り捨てられないものが増え、あれもこれもで手イッパイ状態になっても、どうしても「気遣う」部分は捨てられないと、優先順位を上げてしまう傾向にある。
だが、「気遣う」つもりが「お節介」になり、あげく「迷惑」になっているのでは・・・と、最近、特に感じるようになった。
「気遣い」と「お節介」の境目は何処か?
私自身が、もう少し、冷静さを養う必要がありそうだ。
狭い行動半径の中で、常に顔を突き合わせていることに疲れを覚えることがある。
「な~んもしたくない症候群」の一原因(隠れ鬱的な)かも知れない。
追伸:「な~んもしたくない症候群」も、ほゞ、回復傾向で、今日は(12日)、朝一に「洗濯」を済ましてから、ほったらかしていた「天草」で「心太」を作り、ミニ同窓会の「案内状」も手配し、今週から「農作業」に掛かる段取りもし、「千葉行」の行程も決めたし、その上、新たな追加事項として、友人に依頼してあった「荷物の引取日(外出を要すので)」も指示して、どうやら、3月の予定事項完了の目星がついて来た・・・やれやれ・・・という状況です。
「心太」に生まれ変った「天草」です
花が下向きなので、うまく撮影出来なくて・・・ま、キレイに咲いているという確認みたいなものと思ってくださいな